「弟子の喜び、主の喜び」
ルカの福音書10:17~24
天の父なる神さま、尊いお名前を心から賛美致します。今日も礼拝の場に私たちを招いて下さり、聖書のみことばに聞く幸いが与えられていますことを心から感謝致します。しばらくの時あなたのみことばに集中させてください。そして心を開いて、与えられたみことばに従うことができますように。どうぞご聖霊が豊かに働いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
イエスさまは、9章のはじめでまず、12弟子を派遣しました。彼らに悪霊を制し、病気を癒す力と権威を授けて近隣の町々に遣わしています。そして10章のはじめで、今度は72人を選んで派遣しました。イエスさまが行くつもりのすべての場所に、先に二人一組にして遣わされたのです。彼らを送り出す際には、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなもです」といろいろと忠告したのですが、いざ彼らが出て行ってみると、意外と人々の反応が良かったようです。またもっと驚いたのは自分たちがイエスさまの御名を用いて祈ると、悪霊どもがそれに従ったことです。悪霊に憑かれている人に「主イエス・キリストの御名によって命じる。悪霊よ、出ていけ!」と言うと、その人達は正気に戻りました。イエスさまがそういうことをされるのは何度も見たことがありました。けれども、自分たちも同じことができるなんて、思ってもみなかったのです。彼らは喜び勇んで帰って来ました。
10:17b「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
するとイエスさまは弟子たちと一緒に喜んで下さり、その労をねぎらって言われました。
10:18サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
10:19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
イエスさまが地上に来られたということは、サタンから地上での支配権を奪い返したことを意味します。もちろんそれまでも全ては神さまのご支配の中にありました。けれども神さまは(言い方が難しいのですが)、地上で権力を振るうことを控えておられます。今もそうです。なぜでしょうか。その一つの理由は、人々がそれを拒んだからでしょう。人が光より闇を愛したからです。サタンのさばきは最終的には最後の審判の時に行われます。けれども今は、サタンはまるで自分が支配者のようにほしいままに振舞っています。エペソ6:12ではサタンのことを「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち」と呼んでいますし、同じくエペソ2:2では、「空中の権威を持つ支配者」またⅠヨハネ5:19では、「世全体は悪い者の支配下にある」と言っています。けれども神さまの権威は初めからサタンより上です。そしてイエスさまが地上におられる間、その権威を自由に使われました。そしてそのイエスさまが弟子たちにもその権威を授けたのです。こうしてサタンの権威は地に落ちました!
弟子たちにしてみたらすごい体験です。自分が命じるままに、目の前の人の病が癒され、悪霊が出ていくのですから。ひょっとしたら彼らはちょっと勘違いをしていたかもしれません。まるで自分の力でそれをしているかのように思って、舞い上がっていた可能性もあるでしょう。皆さんももし自分だったら…と考えてみてください。私だったら間違いなく勘違いして得意満面でイエスさまに報告していたと思います。けれども弟子たちは「虎の威を借る狐」でした。悪霊どもは弟子たちなんかちっとも恐くありません。彼らが恐がっていたのは、背後にいらっしゃるイエスさまなのです。そしてイエスさまは、有頂天になっている弟子たちに釘を刺すように言いました。
10:20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
ここでイエスさまが言っているのは、自分が何をしたかではなく、どんな成果があったかではなく、こんなすばらしい権威をゆだねていただける身分が与えられたということ、また神さまとのそのような関係に入れられたことを喜びなさいと言っているのです。
実は私たちにも弟子たちと同じ権威が与えられています。「いや、私は病人を癒したり、悪霊を追い出すことなんてできません」とおっしゃるかもしれません。けれども私たちもイエスさまの御名を用いているでしょう?そうです。私たちはイエスさまの御名によって祈っています。ヨハネの福音書14:13にはこうあります。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」私たちも弟子たちと同じです。イエスさまの御名によって祈ることが許されているのです。そして祈りを通して神さまのみわざを行うことができるのです。私たちは信仰を持って、神さまから与えられているこの特権を用いましょう。祈りは、まるでイエスさま名義のクレジットカードで買い物をするようなものです。私たちは何も持っていない、貧しい者です。何の力もありません。けれどもイエスさまは超リッチなのです。もし私たちが神のみこころにかなうことを求めるなら、神さまは私たちの祈りを聞いてくださいます。
そしてもっと素晴らしいことがあるのだとイエスさまはおっしゃっています。もっと喜ぶべきことがあるのだよとイエスさまは弟子たちに言っているのです。それは私たちの名前が天に書き記されていることだと。つまり私たちが神の子どもとしての身分をいただいて、天にある「神さまの家族名簿」に加えていただいたことなのだと言っておられるのです。
さてイエスさまは、弟子たちに語っていたはずが、いつの間にか聖霊に満たされて、喜びにあふれてしまって父に祈り始めました。10:21 「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。」と。この節では三位一体の神さまが、描かれています。父なる神と聖霊に満たされた子なるイエス・キリストがここにいらっしゃいます。そしてこの三位一体の神が共におられるその場所が喜びに溢れたのです。
21b あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
イエスさまは、父なる神をほめたたえつつ祈りました。父よ、あなたはこの「イエスさまを信じる者は天に名が記される」というこの救いの恵みを、知恵あるものや賢いもののような自分が持っているもの、できることに頼る者には隠して、幼子に代表されるような何も持ってない者、何もできない者、あるのは自分を愛して、お世話をして、守ってくれる親との関係だけだという者に現してくださったと言っています。そしてそれが神さまのみこころ、神さまの願いなのだと言っているのです。
10:22 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」
神は主権者です。そしてイエスさまはその神から一切の権威を渡されています。神とともに、また神に代って、この地上でそのすべての権威を行使することを託されているのです。そしてそれは、独占的で限定的なものです。ここに出てくる「父が子を知っている」「子が父を知っている」というのは、独占的で限定的な特別な関係のことを表しています。ここに出てくる「知る」は旧約聖書で使われる表現方法なのですが、親密な人格的関係を意味しています。それはそうでしょう。父と子は聖霊も入れて一体ですから。ところがです。その親密な関係に、お互い知って知られるその関係に私たちも入れてくれるというのですから驚きです。「子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません」とあります。「子が父を現わそうと心に定めた者」とは私たちのことなんです。これはすごいことです!私たちがイエスさまを信じるときに、この三位一体の親密な関係に招かれるというのですから。
10:23 それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。
イエスさまは、天の父に向って祈っていたのですが、ふと弟子たちの方を振り返りました。そして彼らだけに言われたのです。この「彼らだけ」という言うのがいいじゃないですか!父と子の関係は独占的なものだと言いました。特別親密な関係だと言いました。でも、「弟子たちだけ」「イエスさまを信じる私たちだけ」その仲間に入れてくださったのです。その独占的な親密な関係の内側に入れてくださったのです。そしてイエスさまは言います。10:24「あなたがたが今見ているものを見る目は幸いです。」と。「多くの旧約の預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」彼らはあなたがたが羨ましくて仕方がないのです。旧約の預言者たち、エリヤやイザヤが、「ペテロ、おまえいいな~」と言うのです。ダビデ王やソロモン王が、「私もその神との親密な交わりに中に入りたかったよ」とうらやましがるのです。
私たちは何を喜んでいるでしょうか。弟子たちは、自分たちが成したわざ、力と成果、成功を見て喜びました。ではイエスさまは何を喜んだでしょうか。父なる神、聖霊なる神との親密な関係を喜ばれました。そしてそこに私たちが加えられたことを喜ばれたのです。
私たちも喜びましょう。私たちの名前は、天に書き記されています。イエスさまとともにこのことを喜びましょう!お祈りします。
私たちの天の父なる神さま、感謝します。あなたは私たちを罪と死から救って下さり、私の名前を天のいのちの書に書き記して下さいました。そして麗しい三位一体の交わりの中に私たちを入れてくださったことを心から感謝します。私たちは何ができるとか、どんな成果があったとかではなくて、ただひたすら、あなたとのこの特別な関係に入れられたことを喜ぶことができますように。イエスさまの御名によってお祈り致します。アーメン
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