ルカの福音書 2:8-20
羊飼いについて私たちはどんな印象を持っているでしょうか。イスラエルの歴史をさかのぼると、アダムとエバの子、双子の弟アベルが羊飼いの祖先になるのかもしれません。その後、アブラハム、イサク、ヤコブの時代になると、彼らは遊牧民となり、羊の群れを放牧してはあちこち寄留する生活をしていました。またヤコブの子ヨセフがエジプトを飢饉から救って、父と兄弟たちをエジプトに移住させたときも、彼らは羊を飼うからと、エジプト人の居住区から離れたゴシェンの地に住まわせています。そして、ダビデ。彼ももともとは羊飼いでした。そして私たちが大好きな詩篇23篇では、「主は私の羊飼い」と神さまを羊飼いに例えています。そして新約聖書になると、イエス様もご自身のことを「私は良い牧者です」とおっしゃっています。「羊飼い」は聖書ではいいイメージとして描かれています。けれどもこれが雇われ羊飼いになると話は別です。旧約聖書の中でも雇われ羊飼いが登場します。誰かわかるでしょうか。ヤコブです。彼は兄エサウを騙して、怒りを買い、ハランに逃れます。そこで身を寄せた義理の兄ラバンのところで、なんと合計20年もの月日を羊飼いとしてタダ働きさせられたのです。ヤコブは叔父ラバンとたもとを分かつとき、当時の様子を振り返ってこんなことを言っています。「私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。」(創世記31:38~40)雇われ羊飼いの悲惨、苦労がよく表れています。過酷な労働条件です。生き物を飼うということは、年中無休です。昼も夜もありません。仲間で交代で休みはしたでしょうが、いつ野獣が群れを襲うかもわかりませんし、群れを抜け出すやんちゃな羊もいたでしょう。そして彼らは基本野宿生活です。今日の聖書箇所でも「羊飼いたちが野宿しながら、羊の群れの夜番をしていた」と書いてあります。いわゆる3Kにあたる職業と言ってもいいでしょう。日本でもそうですが、人が嫌がる3Kの仕事をしている人たちは、社会的に尊敬されていません。軽視されされる傾向があります。人の嫌がる仕事をしていてくれるのですから、特別いい給料をあげて、人々に感謝され、尊敬されてもいいのに、世の中はそうはいかないのです。
さて、ではなぜこの羊飼いたちに真っ先に「救い主がお生まれになる」というこの良き知らせが届いたのでしょうか。この喜びの知らせが知らされたのは、ほんの一握りの人でした。ところが11節12節では、「あなたがたのために」「あなたがたは」「あなたがたのための」と、神は羊飼いたちを選んで、キリスト誕生の良き知らせを告げているのです。もちろんこの「あなたがた」というのは、羊飼いだけではなく、「この民全体」なわけですが、神さまは少なくともまずは羊飼いたちに、そして羊飼いを通してこの良き知らせを民全体に届けられたのです。ではなぜ彼らだったのでしょうか。
それは彼らが誰よりも救いを必要とし、救い主の誕生を待ち望んでいたからではないでしょうか。少し先取りしますが、今週のイブ礼拝では東方の博士たちの記事からショートメッセージをしようと思っています。そこでは東方の博士たちが不思議な星に導かれベツレヘムにやって来ます。そしてヘロデ王のところに行ってこんなことを言うのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」ヘロデ王は、メシア(救い主)の誕生を聞くと動揺しました。ヘロデ王だけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった」とあります。また、祭司や律法学者たちを集めて、キリストはどこで生まれるのかと調べさせると、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです。」と答えます。「預言者たちによって預言されていますから」と。ミカ書のエビデンスまでしっかりと出してきました。ところがです。誰もキリストを探しに行かないのです。ただ動揺するだけです。なぜ動揺するのでしょうか?ヘロデについてはわかります。自分の王としての地位が脅かされるのを恐れているのでしょう。では人々はどうでしょうか。イスラエルが待ち望んでいた救い主の誕生の知らせです。喜んでしかるべきでしょう。…彼らは実は待ち望んでいなかった。そうとしか思えません。それより今の平穏無事な生活をかき乱されることの方が不安で恐ろしかったのでしょう。私たちも同じかもしれません。もちろん現状に大満足というわけではありません。不満もたくさんあります。もっとお金があれば、もっと能力があれば、学歴があれば、環境が良ければと私たちは思います。けれども私たちは基本現状維持が安心なのです。ですから一歩踏み出すことに臆病です。そこに救いがある。本当の平安と喜びがそこにあるとわかってはいても。ぬるま湯から出られないように、私たちはいつまでもそこから出られないのです。
けれども羊飼いたちは違いました。救い主がお生まれになったと聞くと、すぐに「さあ、行って、見届けて来よう!」と言うのです。それは単なる好奇心だけではなかったでしょう。彼らは本当に救いを必要とし、待ち望んでいたのです。それは日々の過酷な労働の中で、文字通り救いを求めていたということでしょう。皆さん、ゴスペル(黒人霊歌)の起源をご存知でしょう。当時アメリカの黒人奴隷たちは、牛や馬のようにこき使われていました。鞭を振るわれ、過酷な労働を強いられる中で神さまの救いを日々叫び求めていました。その魂の叫びが歌となって、ゴスペルが生まれたのでした。羊飼いたちも同様なのではないでしょうか。きつい労働を強いられ、人々から差別され、貧しかった彼らは、救いを待ち焦がれていたのです。心の叫びがあったのです。
そして彼らの心を引き付けた理由がもう一つあります。それは御使いのお告げで言及されていた「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」です。「飼葉桶?」彼らにとっては耳慣れた言葉です。そうなのです。彼らは羊飼いでした。飼葉桶は、彼らが使い慣れた道具だったのです。「飼葉桶に寝ておられるだって?」「飼葉桶なら自分たちの守備範囲だ。」「何も恐れることはない。」「こんなボロを着ているけど、ぼくらだって近づける」「ぼくらのための救い主みたいなものじゃないか。」彼らはそう思ったのではないでしょうか。神さまは、救い主の誕生を待ち焦がれていた羊飼いが、安心して会いに行けるようにすべて用意して下さっていたのです。
さて、始めは一人の御使いが現れ、羊飼いにメッセージを届けました。開口一番「恐れることはありません。」「これは喜びの知らせなのかだら」とおっしゃるのです。そして救い主がお生まれになったことを告げました。そしてそのお告げが終わるか終わらないかというところで突然、その御使いと一緒に夜空いっぱいの御使いたちが現れて、神を賛美し始めたのです。すごい光景です!マリアやヨセフも見られなかった光景です。聖書には、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15:10)とあります。そうなのです。アダムが罪を犯して人類に罪が入って以来、ずっとずっと待ち続けていた「救い主」が今お生まれになりました。御使いたちの喜びと賛美がここではじけたのです。彼らの賛美は「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で平和が、みこころにかなう人々にあるように」でした。イエス様のお生まれは、天と地上をつなぐものでした。本来天の神さまの栄光は、地上の人々に届かなかった。罪によって分断されていたからです。しかしイエス様の誕生によって、今神の栄光が地上を照らしました。こうして天と地はもう一度、イエス様によってつながれたのです。そして地上の羊飼いたちは御使いたちの賛美の歌声を通して神の栄光を見ました。
やがて夢のような光景が前の前から消えていきました。けれども御使いが残していった喜びと救い主誕生の期待は彼らの心にしっかりと刻まれました。そして羊飼いたちは話し合って、「いつ行くの?」「今でしょ!」ということで、この出来事を見にベツレヘムへ行くことにしました。そして、彼らは飼葉桶に寝ている赤ちゃんを探しあてたのです!それはそうでしょう。飼葉桶が目印ですから。彼らは雇われ羊飼い。どの家にどんな飼葉桶があるのか知っています。彼らは何軒か家畜小屋を当たって、とうとう捜し当てたのです。すべて御使いの話しの通りでした。彼らは飼葉桶に寝る赤ちゃんを見ながら、このお方は確かに私たちの救い主だと、確信したことでしょう。そして、嬉しくて嬉しくて、神を崇め、賛美しながら帰って行ったのです。
この後歌う「荒野の果てに」の繰り返し部分は、「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」です。これはラテン語で「いと高きところに栄光が神にあるように。」という意味です。天に栄光、地に平和。私たちも「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」と心からの賛美を捧げましょう!お祈りします。
クリスマスの主、イエス・キリストの父なる神さま、私たちは羊飼いほどに救いを待ち望んでいただろうかと自らを省みたことでした。「さあ、行って見届けて来よう!」と立ち上がった羊飼いのように、私たちも日々の生活で信仰の決断をすることができますように。そして御国においては、御使いの大合唱に私たちも加えてください主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン
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