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イエス・キリストの系図(マタイ1:1~17)


 「イエス・キリストの系図」(マタイ福音書1:1-17

 

天の父なる神さま、感謝します。私たちは、救い主の降誕を喜び祝う季節の中にいます。そうした思いをもって神の言葉に聴くひととき、聖霊によって私たちの心を照らしてください。神の言葉に聴く中で、どうかこの礼拝の場において、今日もイエス・キリストと出会わせてください。救い主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!

 

1.  約束の成就

1節「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」

  本日の個所は系図です。名前の羅列だけですから、一見、無味乾燥とも思える内容だろうと思います。けれども、1節に注目すると、1つのメッセージが見えてくるのです。それは、一言で言えば「約束の成就」です。神は、約束なさったことをイエス・キリストにあって成就された。

  まず、「アブラハムの子」と聞いて思い出すのは、創世記122-3節の約束です。それは、神がイスラエルの祖先、アブラハムに与えた祝福の約束でした。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」神は、一介の遊牧民に過ぎなかったアブラハムを呼んで、この思いがけない祝福を伝えたのです。しかも、この祝福は、さらなる広がりを持っていました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 このまことに大きな祝福の約束が、今、イエス・キリストにあって成就する時を迎えた。これが1節のメッセージです。しかもこの約束は、祝福をすべての部族、つまり世界の様々な民に広げるという約束です。ですから日本にも、実習生のコツボンさんの祖国、韓国にも神は祝福を広げると約束された。ですから、イエス・キリストの系図は、単に血によって繋がっている人々の歴史ではないのです。ここに名を記される人たちは、神の約束を待つ信仰によって繋がっている人たちです。つまり、これは、私たちとも関係の深い系図です。

  この系図において、もう一人のカギとなる人物は「ダビデ」です。しかも6節では「ダビデ王を生んだ」とありました。この系図の中には他にも王がいます。それなのに、ダビデだけが「王」と呼ばれる。ここから分かるように、ダビデは特別な人物でした。思い出されるのは第二サムエル7章16節の約束です。神は王ダビデに約束しました。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」そして今、ダビデの子孫としてイエス・キリストがお生まれになった。つまり、イエス・キリストは王として生まれた。それは永遠に続く王国、すなわち神の国を確かなものとするためでした。

  どうでしょう。一見、無味乾燥な系図です。それでも後ろに下がり、ズームアウトして、大きな視点で歴史を見つめてください。すると、味気なく見える名前の羅列にも、明確なメッセージがあると分かります。歴史の背後にあって、約束を実現していく、生きて働く神が見えてくるのです。

 

  私たちは皆、自分が置かれた限られた時間の中だけにいて、普段は近視眼的に物事を見ています。それが人間の限界です。嵐が吹くと、その限界の中だけで右往左往し、動揺してしまう。コロナ禍の問題もそうです。私もしょっちゅうため息をついては、「いつ終わるのだろう」とぼやいています。でも、御言葉と祈りの内に立ち止まりましょう。そして、ズームアウトして歴史を大きく見つめると、生きて働く神が見えてくる。神は必ず、救い主によって、祝福の約束を実現するのです。

  その救い主は「イエス・キリスト」です。「キリスト」は名字ではなくて、タイトルです。約束の王、メシアを表す称号です。この方は世界を祝福し、王として恵みをもって治めてくださる。神は必ず約束を実現される。まずは、このメッセージの内に、私たちの握っている希望を確認したいと願います。

 

2.  男が生む歴史の闇

  2節「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み」。

  私は、ここを読んで違和感を覚えています。なぜなら子どもを生んでいるのが、皆、男だからです。これは、世界が男を中心にして回っていた時代の証拠です。男尊女卑のひどい時代でした。マタイ福音書が書かれた当時、多くの敬虔なユダヤ人男性は、朝ごとにこう祈ったそうです。「神さま、感謝します。私が奴隷でも、異邦人でもなく、女にも生まれてこなかったことを感謝します。」この時代、万事につけ、こんな感じです。女性には親の遺産を相続する権利もなく、法廷で証言することも認められなかった時代。女性は、一人前とは認められていなかったのです。

  そんな時代に書かれた福音書の系図に、五名もの女性の名前が書きこまれているのは驚きでした。これは何を意味するのでしょう。社会に埋没していた女性にも、神の眼差しがしっかりと向けられていたことの証しです。しかし、五名の女性の一人一人に目を留めてください。するとつらい気持ちになるかもしれない。なぜなら人の罪や弱さ、この世の闇が、彼女たちの人生を通して浮かび上がってくるからです。

  最初の女性はタマルです。3節「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」。タマルは、ユダの奥さんではありません。ユダの息子のお嫁さんです。後にユダ自身が我が身を恥じるほどの罪と欲望により、嫁のタマルは子どもを生んだのでした。

  次の女性は5節です。「サルマがラハブによってボアズを生み」。ラハブは、ヨシュア記に出てくる城壁の町エリコの遊女です。彼女は異邦人で、しかも職業が遊女だった。しかし、神を畏れる信仰のゆえに、キリストの系図に加えられることになったのでした。

  そして5節の続きに注目です。「ボアズがルツによってオベデを生み」。旧約聖書ルツ記が描くルツとボアズの出会いは、まことに麗しい話です。でも、ルツはモアブ人でした。出エジプトの折り、モアブ人はイスラエルを呪うという罪を犯しました。そのため旧約の申命記は「モアブ人は主の集会に加わってはならない」と厳しく命じるのです。本来なら、神によって裁かれるべき民族でした。でも、そのルツがキリストの系図に加えられている。神の恵みの深さを思わされる所です。

  このように女性を巡る話は、いろいろいわくつきですが、極めつけはこれでした。6節後半「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」。これは目を覆いたくなるような話です。王ダビデが、自分の家来ウリヤの妻を奪い、挙句にウリヤを戦いの最前線に送って殺してしまう。イスラエルの歴史の大スキャンダルです。でも、それがしっかりと系図に書き込まれている。この系図は権力者に都合よく書かれたものではないのです。正直に、人間の罪をあぶり出していく、まことに正直なキリストの系図でした。

  こうした深刻な罪の問題は、ダビデに限ったことではありません。7節から11節の記すイスラエルの王たちの系図を見てください。ここに名前が出て来るのは皆、イスラエルの王たちです。若干の良い王もいましたが、権力を握った王が多くの罪を犯したことを、旧約聖書は正直に記していました。そして、最後は神のさばきによって王国は滅び、イスラエルは捕囚としてバビロンへ引かれていくのです。

 

  このように、男が生み続ける歴史は、女性をそこに巻き込み、醜く、悲しい罪を重ねていくのです。読んでいて思わずため息が出て来るほどの、重く、暗い歴史です。でも、ここで注意してください。「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み」。「生み」「生み」、と続く中、最後に一人、違う生まれ方をしてくるお方がいるでしょう。16節です。男が生むのではなく、その方は「マリアからお生まれになった。」 それは、男によらず、神の力によって生まれた「イエス・キリスト」です。生まれ方が違う。つまり、ここで歴史が大きく変わろうとしているのです。罪と欲望の人間の歴史に、終止符が打たれようとしているのです。

  少し飛躍しますが、私は今、エペソ214節を思い起こしています。

 「キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊し」。

  「平和の君」と呼ばれるキリストは、隔ての壁を壊されたのです。この世界には、いくつもの壁がありました。まずは男と女を隔てる差別の壁です。男中心の歴史の中で、多くの女性が翻弄され、傷ついていった。そこにキリストは平和をもたらし、壁を壊していくのです。さらに、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁もありました。ラハブ、ルツは異邦人です。そしておそらくタマルも、カナンの異邦人であったと言われます。それら異邦人の加わった系図から、キリストが生まれていく。神の国において、あらゆる国民が王なるキリストを礼拝する。そんな恵みの広がりを、この系図は物語っています。

  男女を巡る差別の壁、ユダヤ人と異邦人の壁。キリストの壊した壁の中でも最大のものは、神と人を隔てる罪の壁でした。ダビデの犯した深刻な罪さえ、イエス・キリストは取り扱うことができる。16節「イエスは、このマリアからお生まれになった。」この方が生まれた時から、歴史は大きな転換を始めます。男によらず、神の聖霊によって生まれる新しい命が、私たちの内にも始まっていくのです。

 

3.  闇の深まり

12節「バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み」。

  甚だしい罪により、イスラエルの王国は滅び、捕囚となってバビロンへと引かれていきました。この12節から、闇は一層深くなります。12節以降の人々は、ゼルバベルを除けば皆無名の人たちです。しかも時代は、約400年にわたって「神の言葉」が途絶える暗黒の時代を迎えていきます。待てど暮らせど、新たな神の言葉は一切、イスラエルに臨むことはなかった。そんな時代に暮らした人々は、暗い思いに沈んだことでしょう。「神は我々を忘れてしまわれたのか」。「約束はどうなったのか」と、絶望にも似た気持ちになったことでしょう。

  彼らに比べると、私たちは、さらに弱い者だと思います。私などはコロナ禍の中、一年も経っていないのに、ついため息をついてしまう。「コロナはいつ終わるのだろう」。「神は私たちを忘れてしまわれたのだろうか」。イスラエルの場合、それが400年続いたとなれば、失望どころか絶望にまで行ってしまったことは、容易に想像がつくのです。

  しかし、ここに希望が語られているのです。17節「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

  この「十四」は、系図の途中を飛ばしたりしながら、意図的に揃えられた数字です。中には、数え方によっては十三代にも思える所もあって、それでも聖書は「十四代」と言い切っていきます。なぜ、このようにして揃えたのでしょう。実は、ここにもメッセージがある。「十四」は聖書において完全を表す数字である「七」の倍。しかもそれが、もう一つの完全数、「三」回にわたって繰り返される。メッセージはこれです。神は忘れてはいない。闇の時代にあっても、神の子どもたちを覚えている。約束は完全に果たされる。キリストにあって、暗い闇を打ち払い、あらゆる民を祝福する。そして、、信仰、希望、愛に満ちた神の国を必ず完成してくださる。

 

結び:

神は忘れてはおられない。暗い時代だからこそ、救い主の知らせは、この世界を照らすのです。「光は闇の中に輝いている」。神は必ず約束を成就する。この言葉に慰めと希望を確認しながら、クリスマスの喜びをさらに深めていきたいと願います。お祈りします。

 

天の父なる神さま、感謝します。キリストを通して示された、闇の向こうに輝く確かな希望が私たちには与えられています。この知らせを私たちも掲げて、「ここに希望がある」と、この世界に向けて語っていかせてください。救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。


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