スキップしてメイン コンテンツに移動

神の恵みにとどまるように(使徒の働き13:26-43)

 

「神の恵みにとどまるように」 

使徒の働き13:26-43

パウロの説教の前半では、旧約聖書のストーリーを通して、人間の不真実を超えて働く神の真実が語られていました。そして次は旧約聖書からイエス・キリストへとつなげるつなぎ役として、ヨハネのことに言及。そしてとうとう後半のクライマックスでイエス・キリストの「救いのことば」が語られます。「13:26 アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。」

はじめにも言いましたが、ここには二種類の会衆がいました。「アブラハムの子孫である兄弟たち」つまりユダヤ人。そして「あなたがたのうちの神を恐れる方々」、これは外国人の改宗者あるいは求道者のことです。パウロは、説教を始めるにあたり、二種類の会衆に語りかけ、この「救いのことば」は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも、そして世界中の全ての人にも開かれていることを告げてます。

 27節以降のパウロの説教を3つに分けて見ていきたいと思います。

1,     イエス・キリストの受難と十字架(26-28節)

「エルサレムに住む人とその指導者たち」がイエスを認めず、罪に定め、ピラトに死刑を求め、十字架につけたのだとパウロは訴えます。エルサレムは、「平和の町」という意味です。「聖なる都」「王の都」「主がご自分の名をおくためにイスラエル全部族の中から選ばれた都」(Ⅰ列王14:21)です。ところがその都に住む人々とその指導者たちは神の御子であるイエス・キリストをこのエルサレムで、十字架につけて殺したのです。マタイの福音書23:37では、イエスさまはエルサレムに向かって嘆きのことばをつぶやいています。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」 エルサレムは、神に特別に選ばれ、寵愛を受けて来たのに、なぜ神の御子を十字架につけたのか。理由は二つあります。預言者たちのことば(聖書)を理解していなかったため 預言を成就させるためです。彼らは安息日ごとに聖書の朗読を聞き、子どもの頃から聖書を暗唱し、熱心に安息日ごとに礼拝をささげていました。しかし彼らは、聖書が言わんとしている本当のところを理解していなかったのです。私たちも気を付けなければいけません。私たちは義務感で、あるいは習慣的に礼拝を守り、聖書を読んでいないでしょうか。何年も信仰生活を送っていても、聖書を何も理解できていないということが、実際にあるのです。けれども、ここで注目したいのは、そのような人の罪や弱さを超えて神のみこころがなったというこです。イエスを十字架につけたエルサレムの罪が、神の預言を成就させることになったのです。神の救いのご計画は、人の悪意や罪に影響されない、むしろそれを超えてみこころを成し遂げていく、その神の大きさを私たちはここに見るのです。

 2,     イエス・キリストの死と復活(29-37節)

申命記にこんな律法があります。「ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。」(申命記21:22-23)パウロは29節で「木」や「埋葬」という言葉を用いて、万事がこの律法にのっとって行われたことを強調しています。そしてイエスさまが、神の前に「呪われたものとなった」のだと言っているのです。神の御子は、人の罪を負われたので、神から見放され、呪われた者となって死んだのです。

「しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。」とパウロは声を大にして言います。多くの証人もいるのだと。この時はまだ、イエスさまがよみがえって天に帰られてから20年ぐらいです。生き証人が何人もいました。そして復活のイエスさまに出会った人々はみな、聖霊に満たされて勇敢にそれを宣べ伝えているのです。

こうしてドミノ倒しのコマのように、イエスさまの復活というコマが倒されたことで、全てのコマ、つまり旧約聖書の救い主に関する預言の一つ一つが、一気に倒されていったのです。パウロはここでいくつも旧約聖書のイエスの復活に関する預言と約束を並べます。そして37節で「しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。」と、よみがえりのイエス・キリストは今も生きていることを宣言したのです。

 3,     イエス・キリストがもたらした罪の赦し(38-41節)

そしてパウロの説教は、「罪の赦し」のメッセージをもって完結します。「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。」(38-39イエスさまの十字架も復活も私たちの罪を赦すためであり、律法による束縛から私たちを解放するためでした。

私たち日本人が宗教に求める「救い」というのは、心の平安とか、目の前にある問題の解決とか、恐れや不安からの解放とか…そんなものかもしれません。皆さんも教会に来はじめた動機はそのような事だったかもしれません。でも教会に来て聖書を学ぶうちに気づいたのではないでしょうか。キリスト教の救いは、もっと根本的な解決を与えるものなのです。自分の中の深いところで巣くっている暗い暗い闇、そこから何かのきっかけでどろどろと湧き上がってくる不安や恐れ、罪責感、そして死への恐れ。キリスト教の救いは、それらすべての根本にある「罪」を解決するのです。この罪を解決するためにイエスさまは十字架に架かられ、私たちの罪を代わりに背負い、死んでくださった。そして復活することによって、私たちを代表して罪と死に勝利してくださったのです。パウロの言う「救いのことば」とは、まさにこのことなのです。

41-42節では、ハバクク書1章5節を引用し、救いとさばきがコインの裏表だと語っています。人間はみな罪人ですから、滅びに向かって進んでいます。悔い改め(向きを変え)なければ、罪と死を解決できないままどんどん落ち込んで行くのです。ですからパウロは言います。「そんなことが起こらないように気を付けなさい」と。

【結び】
 パウロの説教が終わりました。人々は今まで聞いたことのないみことばの説き明かしに興奮して、パウロとバルナバに次の安息日にも来て、同じことを話してくれるように頼みます。そして集会が終わってからも多くの人が彼らについて来ました。二人は人々と語り合って、最後、「神の恵みにとどまるように」説得しました。

なぜでしょうか。それは「神の恵みにとどまる」ことは簡単ではないからです。「神の恵み」は、あまりに高価なのに、なんの努力も犠牲も代価も払わず「タダ」で受けとるので、私たち人間には理解しにくいのです。実際このあと、「信じる者は義と認められる」という「恵みによる救い」を否定し、やっぱりモーセの律法を守ることも大事だ、割礼も必要だという人々が信じたばかりの人たちを惑わすことになります。

私たちは大丈夫でしょうか。神さまはタダでこの恵みによる救いをくださったのに一生懸命支払いをしていないでしょうか。善い行いをすることも献金も奉仕も、救われた感謝の思いをもって喜んでささげるならいいのですが、ローンのように神さまに支払い続けなければいけないと思っているなら問題です。

もう一つ陥りやすい罠があります。それはタダだからと言って「神の恵み」を軽んじる罠です。勘違いをしてはいけません。この恵みによる救いは、私たちにとってはタダなのですが、神さまの側は、ひとり子イエス・キリストを十字架につけるという大きな犠牲を払っているのです。私たちはもう一度「神の恵み」の大きさに目を留めましょう。そしてありったけの感謝をささげましょう。それこそが、「神の恵みにとどまる」ということなのです。


コメント

このブログの人気の投稿

クリスマスの広がり(使徒の働き28:23~31)

「クリスマスの広がり」 使徒の働き28:23~31 私が使徒の働きを松平先生から引き継いだのは、使徒の働き11章からでした。それ以来、少しずつ皆さんといっしょに読み進めてきました。これだけ長く続けて読むと、パウロの伝道の方法には、一つのパターンがあることに、皆さんもお気づきになったと思います。パウロは、新しい宣教地に行くと、まずはユダヤ人の会堂に入って、旧約聖書を紐解いて、イエスが旧約聖書の預言の成就者であることを説いていくという方法です。このパターンは、ローマでも変わりませんでした。もちろん、パウロは裁判を待つ身、自宅軟禁状態ですから、会堂に出向くことはできませんが、まずは、ローマに11あったと言われるユダヤ人の会堂から、主だった人々を招きました。そして彼らに、自分がローマに来たいきさつ語り、それについて簡単に弁明したのでした。エルサレムのユダヤ人たちから、何か通達のようなものがあったかと懸念していましたが、ローマのユダヤ人たちは、パウロの悪い噂は聞いておらず、先入観からパウロを憎んでいる人もいないことがわかりました。パウロは安心したことでしょう。これで、ユダヤ人たちからありもしないことで訴えられたり、陰謀を企てられたりする心配ありません。そして、今度は日を改めて、一般のユダヤ人たちも招いて、イエス・キリストの福音について、じっくり語ろうと彼らと約束したことでした。 けれども、みなさん疑問に思いませんか。パウロは異邦人伝道に召されていたはずです。自分でもそう公言しているのに、なぜここまでユダヤ人伝道にこだわるのでしょうか。今までも、新しい宣教地に入ると、必ずユダヤ人の会堂で説教するのですが、うまくいった試しがありません。しばらくすると必ず反対者が起こり、会堂を追い出され、迫害につながっているのです。それなのになぜ、ここまでユダヤ人にこだわるか、その答えは、パウロが書いたローマ人への手紙の9章から11章までに書かれています。 パウロの同胞、ユダヤ人への愛がそこにあります。パウロは9章2-3節でこう言います。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」 凄まじいほどの愛です。そういえばモーセも同じような祈りをしま

イスラエルの望み(使徒の働き28:17~22)

さて今日の個所は、ローマに到着してから三日後から始まります。パウロはローマに到着すると、番兵付きながらも自分だけの家に住むことが許されました。当時ローマ市内には、11ものユダヤ人の会堂があったと言われています。パウロはさっそく、ローマに住むユダヤ人クリスチャンに頼んで、その会堂の長老たちなど、おもだった人たちを家に招いたのです。そして自分がエルサレムでユダヤ人たちによって告発されたことについての弁明と、これまでの裁判のいきさつについて語り始めました。 ここでのパウロの語りは、これまでのユダヤ人たちに対する少し挑発的な語りに比べると控え目で、ユダヤ人の誤解を解くことに終始しています。パウロは、自分がこのように捕らえられ囚人としてローマにやって来たのは、なにも、ユダヤ人に対して、また先祖の慣習に対してそむくようなことをしたからではなく、「イスラエルの望み」のためなのだと語っています。それこそパウロが伝えたい福音の中心だからです。旧約の預言者たちによって語られた「イスラエルの望み」、「救い主メシア到来の望み」が実はもう実現しているのだということです。パウロは実にこのことのために、今こうして、鎖につながれていたのでした。 パウロの弁明を聞いたユダヤ人のおもだった人たちの反応はどうだったでしょうか。彼らはまず、自分たちはパウロたちのことについてエルサレムからは何の知らせも受けていないこと、したがってパウロたちについて悪いことを告げたり、話したりしているような人はいないということ、ですから一番いいのは、直接パウロから話しを聞くことだと思っていることを伝えました。もちろん彼らの中には、パウロの悪いうわさを聞いていた人もいたでしょう。けれどもそうしたうわさ話に耳を傾けるより、本人から直接話を聞いた方がよいと判断したのです。彼らは言います。「この宗派について、至るところで反対があるということを、私たちは耳にしています。」実際、クラウデオ帝がローマを治めていたころ、キリスト教会とユダヤ人の会堂に集まる人々でごたごたがあって、「ユダヤ人追放令」が発布されました。そんなに昔のことではありません。彼らは、この宗派の第一人者であるパウロにから、直接話を聞いて、何が両者の違いなのか、ナザレのイエスを信じるこの宗派の何が問題なのかをつきとめたいとも思っていたことでしょう。 さて、パウロ

祝福の日・安息日(出エジプト記20:8~11)

「祝福の日・安息日」(出エジプト 20:8-11 ) はじめに  本日は十戒の第四戒、安息日に関する戒めです。この箇所を通して本当の休息とは何か(聖書はそれを「安息」と呼ぶわけですが)。そして人はどのようにしたら本当の休みを得ることができるかを、皆さんと学びたいと願っています。お祈りします。   1.        聖なるものとする 8-10 節(読む)  「安息日」とは元々は、神が世界を創造された七日目のことですが、この安息日を聖とせよ。特別に取り分けて神さまに捧げなさい、というのがこの第四戒の基本的な意味です。この安息日を今日のキリスト教会は日曜日に置いて、主の日として覚えて礼拝を捧げています。安息日という名前は、見てすぐに分かるように「休息」と関係のある名前です。でも、それならなぜ休息とは呼ばず、安息なのでしょう。安息とは何を意味するのか。このことについては、一番最後に触れたいと思います。  いずれにせよ第四戒の核心は、安息日を記念して、「聖とせよ」ということです。それは、ただ仕事を止めて休めばよいということではありません。この日を特別に取り分けて(それを聖別と言いますが)、神さまに捧げなさいということです。すなわち、「聖とする」とは私たちの礼拝に関係があるのです。  でもどうして七日目を特別に取り分け、神さまに捧げる必要があるのでしょう。どうしてだと思われますか。 10 節冒頭がその理由を語ります。「七日目は、あなたの神、主の安息」。この日は「主の安息」つまり神さまのものだ、と聖書は言うのです。この日は、私たちのものではない。主の安息、主のものだから、神さまに礼拝をもって捧げていくのです。   2.        七日目に休んだ神  七日目は主の安息、神さまのものである。でも、どうしてでしょう。その理由がユニークで面白いのです。 11 節に目を留めましょう。 11 節(読む)  神さまはかつて世界を創造された時、六日間にわたって働いて世界を完成し七日目に休まれました。だから私たちも休んで、七日目を「安息日」として神さまに捧げなさい、ということです。ここで深く物事を考える方は、神さまが七日目に休んだことが、なぜ私たちが休む理由になるのですか、と思われるかもしれません。そう思う方があったら、それは良い着眼です。