「あわれみ深い大祭司」 ヘブル2章14~18節
お祈りします。天の父なる神さま、御名が崇められますように。聖霊によって神の言葉を私たちの内に照らし、今日もまた、御言葉の内に生けるキリストと出会うことができますように。人となられた救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!
はじめに
私は子どもの頃は体が丈夫で、スポーツ好きでしたので、性格にもずいぶん影響して、牧師になっても、若い頃は明るく元気な牧師でした。牧師が明るいのは良い事ですが、時折り言われたのは、「先生には病む人の気持ちは分からないでしょう」と。そう言われると、言葉を返せなかったのを覚えています。
その後、宣教師になって、多少なりとも病むことを経験しました。異文化のストレスで心も体も病み、宣教師二年目に帰国療養したこともありました。あれ以来、以前には分からなかった人の痛みが多少分かるようになった気がします。まあ、それが年を重ねるということなのかもしれませんが。
そうは言っても、人の痛みがすべて分かるようになるというのは土台無理な話です。花田兄が二月十日に手術を受けられましたね。コロナ禍ですので、奥様も付き添えず、たった一人で手術室に向かいました。どんなに心細かったかは、ご本人しか分からない。唯一の慰めは、キリストが共におられるという、このことだけだと思います。
1. すべての点で
この朝は使徒信条二番目の項目、人となられたキリストを思いめぐらします。「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」という部分です。なぜキリストは、人となる必要があったのか。
17節「したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。」
17節は、実はヘブル書全体の中心とも言われる個所です。中でも特に「すべての点で兄弟たち(つまり私たち人間)と同じようにならなければなりませんでした」という部分に今朝は注目します。
すべての点で私たちと同じようにならなければ、というのですが、なぜでしょう。そのヒントが、少し戻って11節にあります。「聖とする方も(これは私たちを聖くするキリスト)、聖とされる者たち(これは私たち信仰者)も、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせず」とあります。言いたいのは、こういうことです。元を辿れば、イエス・キリストも私たちも、共にひとりの神から出た神の子どもであった。だからイエスさまと私たちは、元々は兄弟姉妹であった。しかし人間は罪を犯し、元いた場所から転落してしまうのです。そして、争いや憎しみ、悲しみの中を生きていく、そんな生き物になってしまったのでした。
人間は、元はイエスさまと兄弟姉妹だった。しかし、そこから落ちてしまった。そのように落ちてしまった人を、キリストは上にいて、遠い場所からでも、不思議な力で助けることが出来たと思います。でも、そうした方法をイエスさまは取りませんでした。むしろ私たちと同じ人となって近くに身を置き、寄り添いながら助け、救おうとされたのでした。
17節には「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」とあります。これは、私たちの近くに身を置いて救うキリストを知る上で、とても大事な言葉です。
「大祭司」とは、本来は神の宮の礼拝を取り仕切る最高の地位にある人のこと。それになぞらえてヘブル書は、キリストを「大祭司」と呼ぶのですが、この大祭司は、普通の大祭司と違う。この方は、その高い地位から降りて来る、「あわれみ深い大祭司」でした。イスラエルの歴史には大勢の大祭司がいましたが、「あわれみ深い」と形容されるのはイエス・キリストただお一人です。このお方は、高い所から下って、人に近く寄り添って下さった。この意味の大きさを深く噛み締めたいと思います。
アメリカの航空宇宙局(NASA)が司令塔となって1961年から72年まで続いたアポロ計画というのがありました。人を月に送る計画ですが、アポロ11号が1969年に初めて着陸して以来、全部で6回の月面着陸に成功しました。中でも71年のアポロ15号は最大の成功と言われ、宇宙飛行士たちは月面に三日間滞在したのです。その15号の操縦士だったジェームズ・アーウィンという人がいます。三日の間、彼は何度も月から地球を眺めたそうです。本当に地球は美しかったと。そのように地球を眺める中、アーウィン操縦士は神の語りかけを聴くという不思議な経験をします。そして彼は宇宙飛行士を辞めて、伝道者になったのでした。実はアポロの飛行士たちの中から、何人か伝道者になった人がいるのですが、アーウィンもその1人。彼はその後、生涯にわたって語り続けます。神の子が地上に降り立ったことの偉大さを思えば、人が月面に降り立ったことなど、ほんの小さなことに過ぎない。
神の子は、確かに地上に降り立った。そして病を知る者となり、試みを受け、最後は十字架で死の苦しみを経験します。十字架前夜のイエスさまの苦悩の祈りを見ていると、あれほどの苦しみを、実は私たちは誰一人として経験していないのだ、ということに気づかされます。そして何よりもキリストは、ここにいる私たちがまだ経験していない「死ぬこと」を味わい、それを克服したのでした。そう、この大祭司は知っている。神の子でありながら、私たち人の悩みと苦しみを、すべて知っているのです。
2. 助けるために
なぜキリストはここまでなさるのでしょう。天から下り、人となって私たちが味わったことのない苦悩を経験された。なぜ
… 。16節、18節に答えが出ています。一言で言えば、私たちを「助ける」ため。
今日の個所によれば、私たちは三つの苦しみに囲まれています。それは「罪」と「死」と「悪魔」。まず「罪」ですが、17節終わりにこうあります。「それで民の罪の宥めがなされたのです」。
聖書が言う罪は、世間で言う「犯罪」よりももっと深いもので、人間を縛っている自我、人間の自己中心な姿のことです。そうした自我に縛られていますので、人は生きていると醜いものを吐き出していく。そのため神は、その人間の「罪」を裁かなければならないのですが、キリストは人となって、私たちの身代わりに神の裁きを十字架で受けて、罪の問題を解決してくださったのでした。それが17節の言う「罪の宥め」ということです。イエスを信じるなら、そこには「罪の解決」があります。
二番目の苦しみは「死ぬこと」。15節「死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々」とありました。死の恐怖は、どうしようもないほどに人間を縛っています。私たちにとって死は、逃れようのない「苦しみ」です。けれどもキリストは、人となって死を味わい、しかも最後は死に打ち勝ち、キリストを信じる者に永遠のいのちを約束してくださいました。信仰問答の名作、ハイデルベルク信仰問答42番は、キリストを信じる者には、死はもはや恐怖ではなくなったことを、このように教えています。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。
これはどういうことでしょう。キリストのおかげで、信仰者はもはや死を恐れる必要がない。私たちが死ぬ時、罪が死滅し、自我に縛られた生活は終わりを告げる。そして、永遠の命が始まるのだと。そうです。かつては「恐怖」でしかなかった「死」の意味が、キリストのおかげで変わった。信仰者にとって「死」は、今や「罪の死滅」と「永遠の命への入口」となった。これは大きな慰めだと思いませんか。
さあ、最後の苦しみは「悪魔」です。目には見えないけれど悪魔はいます。14節「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし」。悪魔は、「死の恐怖」を武器に人を縛り、自己中心な生き方、すなわち「罪」へと人間を引っ張っていく。しかし、キリストは十字架により、その悪魔を力なき者にしてくださった。
キリストの救いは、このように罪・死・悪魔から人を解放します。この救いはまことに豊かですので、今日はとても語りつくすことができません。ですから今日は1つのこと、すなわちイエスさまが私たちの近くに寄り添い、助けて下さるのだと、このことをしっかり心に刻みたいと思います。
16節にこうありました。イエスは「アブラハムの子孫を助け出してくださる」。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。キリストを信じる信仰者は皆、アブラハムの子孫です。そのようにキリストは、信仰者を助け出してくださる。しかも、この「助け出す」という言葉がいいのです。これは近くにいて、手を取って引き上げる、というニュアンスのある言葉。いいでしょう。キリストが私たちの手を取ってくださる。そのように近くに寄り添うためにイエスさまは人となり、悪魔からの罪の誘惑と戦い、十字架に死に、人の味わう苦しみのすべてを経験されたのでした。そして、そのような戦いの中で絶えず、「あわれみ深い、忠実な大祭司」であり続けてくださったのです。
3.「近さ」を覚える
今日、最後に覚えたいのは、私たちに寄り添うキリストの「近さ」です。この方は自ら試みを受けて苦しんだので、私たちに寄り添い、どこまでも近くいて、人の痛みを知っています。
昔、神学生だった頃、出身教会の年配の婦人から尋ねられたことがあります。「齋藤さん、イエスさまは、『すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた』とあるけれど、私たち老人の老いの苦しみだけは分からなかったでしょうね。十字架で死んだのは三十代だと言われますし。どうですか」と。酒井さんという方で、体力の衰えと戦いながら日々を送っておられました。私は「さあ、どうなんでしょうねえ」と、酒井さんを励ましたかったけれど、言葉が見つからなかった。
その後私は新潟で牧師となりました。そんなある日、ヨハネ黙示録を読みながらハッとしたのです。迫害の中でつかまって、パトモスという島に流された老使徒ヨハネ(90を超えていましたが)、そのヨハネを呼ぶ、懐かしい声がしたという個所に目が留まりました。黙示録によると、それは「人の子のような方」で、髪は白い羊毛のように、また雪のように白かった、、。私はここまで読んで、酒井さんを思い出したのです。答が見つかった!囚われの身になった老人ヨハネを励ますために現れたイエスさまは白髪でした。愛する弟子の年老いて行く姿を見守るイエスさまは、御自身もまた白髪になっておられた!「酒井さん。答えが見つかりました!」と、今は御国にいる酒井さんに伝えたい思いですが、酒井さんは笑ってこう言うでしょうね。「齋藤さん、ありがとう。でも、もう分かってますよ。私はイエスさまのすぐそばにいるのですから」と。
イエスさまは、私たちに寄り添い、近くを歩むために人となられた。それが神の子が地上に降り立った理由だったのだと。この慰めを握りながら、この一週を歩んでいきたいと願います。お祈りします。
天の父なる神さま、あわれみ深い忠実な大祭司をお送りくださり、感謝します。私たちが地上の生涯の戦いの中にあっても、このお方を見上げて歩んで行けますように。聖霊が内にあって、私たちを強めてください。人となられた神の子、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン!
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