今日の個所でクレネ人シモンという人が出てきます。十字架の記事では多くの登場人物が出てきますが、このクレネ人シモンについては、マタイの福音書でも、マルコの福音書でも取り上げています。彼は、ほんの一場面出てくるだけですが、非常に強い印象を人々に残しているのです。
23:26 彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
イエスさまは、前の晩一睡もしていませんでした。裁判を受け、人々から乱暴に扱われ、鞭打たれ、弱り切っているのを見たローマ兵は、イエスさまには十字架を背負って丘を登る体力はないと判断しました。そして一人の男、たまたま過ぎ越しの祭りの巡礼のために、エルサレムを訪れていたクレネ人シモンを捕まえ、イエスさまの代わりに十字架を負わせ、イエスが歩く後ろからついて行かせたのです。おそらく十字架の柱部分は、処刑場、ゴルゴダの丘に置いてあり、彼が担いだのは横木だけだったのではないかと言われています。それでも40キロから50キロはあったようです。クレネ人といえば北アフリカ、今日(こんにち)のリビアあたりに住む人です。おそらくその風貌はユダヤ人とは違っていたことでしょう。エルサレムの住人やローマ市民には罪人(ざいにん)の十字架を担がせるわけにはいきませんから、どう見てもよそ者の彼に、白羽の矢が立ったのでしょう。とにかく彼は、ローマ兵の目に留まり、無理やりイエスの十字架を担がせられることになります。
23:28 イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。
クレネ人シモンが、イエスの後ろをついて歩いていると、民衆や女たちがその後に続きました。この女たちは、「エルサレムの娘たち」でした。イエスさまの女の弟子たちのほとんどは、ガリラヤの女性でした。ですから、この「エルサレムの娘たち」というのは、いつもイエスさまについて歩いて、身の回りの世話をしていた女の弟子ではなくて、いわゆる「泣き女」ではなかったと言われています。普通は、人が死んで、その遺体の入った棺桶を町から担ぎ出し、埋葬に向かうときなどに「泣き女」がつくのですが、イエスはまだ生きています。どうして彼女たちが、大声で胸を打ち叩いて泣き悲しみながら、イエスについて行ったかは分かりません。が、私はどちらかというと、いやな印象を受けます。イエスさまはまだ死んでいないからです。なんとなく、場を盛り上げるために騒いでいるような気がしてならないのですが、どうなのでしょうか。
イエスさまは、先頭をよろよろと歩いていたのですが、振り返り、間にいるクレネ人シモン越しに、女たちに語りかけました。「わたしのためではなく、むしろ自分自身と子どもたちのために泣きなさい」と。母親にとって、子どもが苦しんでいる姿を見ることほどつらいことはありません。代わってやりたいと思うほどです。「『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る」というのは、辛い、苦しい日々が、子どもたちの世代に訪れるという予告です。その時、あまりの辛さに、子どもなど産まねば良かったと思うほどだというのです。そしてイエスさまは、だから今は泣くんじゃない。その時までにあなたたちの涙をとっておきなさいと言っているのです。
23:30 そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。23:31 生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」
やがて神のさばきの日が来る。イエスさまは、そうイエスさまのあとをついて来る人々に忠告されました。当時のユダヤは、ローマの属州でした。ローマの支配は、ユダヤ人にとっては不本意なことでしたが、そのおかげで当時のエルサレムは平和を保っていました。しかし、イエスさまはこの時、預言します。エルサレム崩壊の時が来る。その苦しみは山々が崩れ落ち、丘が覆ってくる方がましだと思うような、ひどい苦しみなのだと。そして31節の「生木」と「枯れ木」の例をあげながら、「正しい人が地で報いを受けるなら、悪しき者や罪人はなおさらのこと。」(箴言11:31)と、無実のご自身が苦しむなら、罪あるあなたがたは決して神のさばきを逃れることはできないだろうとおっしゃるのでした。事実、この後、西暦70年には、エルサレムを巡って攻城戦が起こり、ユダヤ人の反乱軍とローマ帝国の間に、いわゆるユダヤ戦争が起こりました。そして、3年後には、ローマ軍は、エルサレムを陥落させ、エルサレム神殿は、木っ端みじんに破壊されたのでした。
さて、十字架を担ぎながら、イエスさまの後ろについて歩いていたクレネ人シモンは、どんな思いでこれらのやり取りを聞いていたのでしょうか。イエスさまは、女たちの同情を辞退し、むしろ、エルサレムの人々に同情し、忠告を与え、その将来を憂えたのでした。そして、もう一度前を向くと、ひたすら処刑場であるゴルゴダの丘に向かう道を黙々と歩かれたのです。彼は、間近で、本当に間近でイエスさまの様子を見、その息遣いを聞き、語られる言葉を聞いたのです。それはイエスさまと寝食を共にした弟子たちにも許されたなかったことでした。彼は死刑場に到着し、さてこれでお役目ご免とその場を立ち去ったとは思えません。乗り掛かった船、最後まで見届けようと腹をくくったのではないでしょうか。そして十字架に釘付けにされ、ローマ兵に嘲弄(ちょうろう)されながらも黙し、むしろ彼らの赦しを請うイエスさまの姿に胸を打たれたことでしょう。そして、このお方は本当に神の子であったと確信したに違いありません。
そして後に、このお方が復活したという噂を聞きました。それだけではない。ひょっとしたら彼は、過ぎ越しの祭りの50日後に行われる五旬節の祭りのときまで、エルサレムに留まっていたかもしれないのです。可能性は大いにあります。五旬節にはあの出来事が起こります。そう聖霊降臨(ペンテコステ)です。聖霊が弟子たちの上に降り、そこに集まっている人々の国のことばで、イエスさまの復活を語るそのメッセージを彼は聞きました。彼はこの時、クレネ語で福音を聞いたかもしれないのです。彼は、イエスさまは確かに神の子だと信じました。そして十字架と復活の意味を知りました。イエスさまは、人の罪をその身に負って十字架で死なれた。しかしイエスさまは復活された。そのイエスさまを信じる私たちは、イエスさまと同じ復活の恵みに与かることができると、彼は信じたのです。
彼は喜び勇んで、この良き知らせを携えて田舎に帰りまさした。そして家で待つ妻や子どもたちに、自分が見たこと、聞いたことをすべて伝えました。その結果、彼と彼の妻、そして二人の息子、アレクサンドロとルフォス(マルコ15:21)もイエスさまを信じ、その後、初代教会で大いに活躍したと言われています。
私たちも信仰の歩みの中で、不本意な十字架を負わされることがあるでしょう。しかしそんな時は、私たちの前をゴルゴダの丘を目指し、ひたすら歩かれたイエスさまを思い出したいものです。十字架を負うとき、実は私たちは、イエスさまの近くにいるのです。そしていつもより間近にみことばを聞くことでしょう。多くの説教者がこれを「強いられた恵み」だと言っています。だれでも十字架は負いたくありません。できれば避けたいものです。それでも十字架は、イエスさまの愛と真実を知り、みことばを間近に聞く恵みの時なのです。今、私たちは十字架を負っているでしょうか。イエスは、間近で語りかけられます。どうぞ主の御声に耳を傾けてください。祈ります。
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