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二人の犯罪人(羽化の福音書23:39~43)

 

「二人の犯罪人」

ルカの福音書23:39~43

 先週は、クレネ人シモンの視点から、イエスさまの十字架を見てみました。今日の個所では、イエスさまの両側で、同じく十字架刑に処せられた二人の犯罪人を見つつ、彼らの視点から、イエスさまの十字架を見てみたいと思います。

今日の記事は、非常にルカらしいと言えるでしょう。二人の犯罪人については、マタイやマルコもそれぞれの福音書で触れていますが、二人まとめて、「イエスをののしった」となっており、ルカほど詳細には記していません。この二人がそれぞれ、対照的な反応をし、異なる最後を迎えたことは、ルカだけが記しています。

またルカは、対比を用いて真理を語る手法をよく用います。有名なところで、「ラザロと金持ち」「マルタとマリヤ」「パリサイ人と取税人の祈り」などがありますが、ここでもルカは、イエスさまの両側にいた二人の犯罪人を対比させて描いています。

そして、最後に逆転が起こるというのも、「まさかこの人が!?」という人が、救われるというのも、ルカの福音書や使徒の働きのいたるところに出てきます。例えば、「放蕩息子」「ザアカイ」「不品行の女」、そして「パウロの回心」などです。そして、今日の個所でも、イエスさまと一緒に十字架刑に処せられた犯罪人が、最後の最後に、イエスさまから「あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と言われます。これまた、まさかの大逆転です!

 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。

これが一方の犯罪人の態度でした。どうしてこんな態度をとっているのでしょう。3つの可能性があります。一つは同調意識が働いたのでしょう。35節を見ると、まわりに立って眺めていた民衆や議員たち、そしてローマ兵たちは、嘲笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。そして、イエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていました。「ユダヤ人の王」「キリスト」「メシヤ(救世主)」「選ばれた者」、そんな肩書にはそぐわないこの憐れな男、そのギャップを彼らは笑ったのです。そしてこの犯罪人もそれに同調しました。彼はイエスと同じ十字架につけられている側ではなくて、民衆の側に自分をおいて、イエスを嘲弄したのです。あとで、もう一人の犯罪人が「おまえも同じ刑罰を受けているではないか」と指摘しますが、最もな話しです。自分だって死刑に処せられているのに、なお同じ立場にある人をあざ笑い、ののしる…、人の底知れない罪深さを見る思いです。

そして二つ目が、彼自身もイエスに失望したからでしょう。この犯罪人たちがどのような罪で処刑されているのかは分かりませんが、政治犯ではないかと言われています。当時ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。ユダヤ人は誇り高い民族ですから、彼らはそれを良しとはしませんでした。いつかローマから独立したいと思っている反乱分子は少なくなかったのです。イエスの代わりに釈放されたバラバも、反乱軍のリーダーだったと言われています。そしてこの二人の犯罪人も、反乱軍の一員として、何かテロ行為をしたのかもしれないのです。そう考えると、彼らもイエスに期待していた可能性があります。イエスさまが、いつかこのローマの圧政から我々を救い出してくれる。救世主として、立ち上がってくれる。そう期待していたのでしょう。それなのに何だ、このざまは、というところでしょうか。だから彼は、「おまえはキリスト(救世主)ではないか。自分とおれたちを救え!」と怒りをぶつけたのかもしれません。

ところが、同じ立場、同じ状況にあるもう一人の犯罪人は、全く違う反応をしました。

 

23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

「たしなめて言った」とありますが、原語はかなり強い表現で「𠮟った」とも訳せる言葉です。しかも大声で叱ったようです。三本の十字架の間隔がどれぐらいあったのかは分かりませんが、小さな声では隣りの隣りにいる犯罪人に聞こえるわけがありませんから、彼は「おまえは神を恐れないのか!」と大声で叱ったのです。

しかし、彼はいつ、イエスさまの側に立つようになったのでしょうか。それは、イエスさまのつぶやきを聞いたからではなかと思うのです。イエスさまは十字架上で7つのことばを話されましたが、その一つが34節のことばです。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』」この「言われた」という動詞の原語は、時制でいうと、未完了過去です。これは過去のある時点から過去の別の時点まで継続して行われている行為を表します。つまり、イエスさまは十字架上で、ご自身をあざけり、ののしることばを聞く度に、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っていたのです。ずっと、何度も。犯罪人はそれを聞いていたのでしょう。そして、それが彼の心を動かしました。「自分が何をしているかわかっていない」、それこそ自分の姿だと気付いたのです。罪状に書かれているような「これをした、あれをしたという」項目ではなく、自分の中にあるどうしようもない罪の性質を自覚したのです。そして、自分が罰せられるのは当然だ、でも、そんな自分たちを「赦してあげてください」と祈るイエスさまが、どうして十字架刑に処せられているのだ!この方は何も悪いことはしていない!彼はそう主張するのでした。こうして彼は、隣りで祈っておられるイエスさまに話しかけました。

 23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

彼は言います。「イエスさま、あなたが王として御国の位に就くとき」と。彼は他の民衆のように、「おまえが選ばれし王なら」とは言いませんでした。皮肉で「ユダヤ人の王」という罪状を掲げたりもしません。本当の意味での王、時間も空間も超えて、世界を統べ治めていらっしゃる王として、あなたが御位に就くとき…と告白しているのです。そして「そのときには、私を思い出してください。」と言います。自分の罪を思い知った今、その罪を償うには時間はない、これから善行を積むこともできない。それを思うと、彼はこの罪を赦してほしい、イエスさまが入られる御国に私も連れて行ってほしいなんて、とても言えない。彼は控えめに、「ただ思い出してほしい」と言うのです。するとイエスさまは答えます。

23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

「パラダイス」、この言葉は「楽園」という意味で、直接的には「エデンの園」を指しています。神さまが創造され、何もかもすばらしく良かった「エデンの園」。そこで神と人は、共に親しく交わり、語らい、麗しい友情がありました。そのパラダイスで、今日、あなたはわたしと共にいるのだと、おっしゃったのです。その言葉をきいたこの犯罪者は、どんな思いだったでしょう。彼のそれ以降の時間はどんな時間になったのでしょう。十字架にはりつけにされ、肉体の苦痛は想像を絶するものでした。しかし彼は、その苦痛の中でも、イエスさまと共に過ごせたこと、イエスさまに出会えたことを感謝したのではないでしょうか。そして、「今日、わたしと共にパラダイスにいる」というそのことばは、十字架にかけられているそのときから、すでに始まっていたのです。 

「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。私たちが、今どんな状況にあろうと、イエスさまがいっしょなら、そこはパラダイスなのです。

新聖歌268番「1.悲しみ尽きざる 浮世(うきよ)にありても/日々主と歩めば 御国の心地(ここち)す 2.彼方(かなた)の御国は 御顔の微笑(ほほえ)み/拝する心の 中にも建てらる/3.山にも谷にも 小屋にも宮(みや)にも/日々主と住まえば 御国の心地す/ハレルヤ! 罪 咎(とが) 消されしわが身は/いずくにありても 御国の心地す」 お祈り致します。


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