ルカの福音書 22:31~34
イエスさまが十字架にかかられる前夜の晩餐の席のことでした。イエスさまは、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされました。過ぎ越しの食卓というのは、ユダヤ人の一般家庭にとっては、信仰継承、教育の場でした。食事をしながら、なぜ過ぎ越し祭の食事では、種なしパンや苦菜を食べるのかを話し、神がどうやってイスラエルの民をエジプトから救い出したのかを語り伝えたのです。ですから、イエスさまも食事の席で弟子たちに向かって、大切なことを話されました。パンと杯を手に取りながら、新しい救いの約束について弟子たちに語られたのです。
しかしその食卓でイエスさまは聞き捨てならないことをおっしゃいました。それは、「わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にある」(21節)ということでした。弟子たちは、まさかそんなことがあろうかと互いに顔を見合わせます。そして、その議論はいつしか、「自分たちのうちでだれが一番偉いか」ということに発展していくのでした。
さて、弟子たちがそんな議論をしているとき、ペテロはどうしていたのかと想像します。おそらく彼は、自分は自他共に認めるイエスさまの一番弟子だから、別枠であろうと、腕組みをしながら、他の弟子たちの議論を他人事のように聞いていたのではないかと思うのです。そんな矢先、「シモン、シモン」とのイエスさまの語りかけがあります。ペテロは、「さあ来た!イエスさまは、とうとう私を弟子たちの中での最高位に任命するか!」と思ったかもしれません。しかしそうではありませんでした。イエスさまの口からは、「サタンがあなたをふるいにかける」「あなたの信仰がなくならないように」と、耳を疑うような言葉が出てきたのです。ペテロは唖然としたことでしょう。そして、慌ててその言葉を打ち消します。「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33節)しかし、イエスさまはとどめを刺すように言うのです。「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(34節)「いつか」とか「そのうち」ではなく、今日、舌の根の乾かぬ内に、あなたはわたしを裏切るのだと言われるのです。ペテロはもう、返す言葉も見つからないほど、ショックを受けたことでしょう。
イエスさまは、「シモン、シモン」と呼びかけられました。イエスさまがつけてくださったニックネーム「ペテロ」ではなく、「シモン」と呼びかけられたのです。イエスさまはかつて、「あなたはペテロです。わたしはこの岩(ペテロ)の上に、わたしの教会を建てます。」と言い、「 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。」とまで言われました。けれども今は、イエスさまから権威を委ねられた、教会の基としての「ペテロ」ではなく、「シモン」と呼びました。漁師として働いているところに、イエスさまがおいでになって、「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしてあげよう。」とおっしゃった、あの頃のシモンにイエスさまは語りたかったのでしょう。人は信仰生活が長くなってくると、自分の信仰に変な自信が出てくるものです。けれども私たちは、イエスさまの前ではいつまでも「シモン」でありたいものです。ただイエスさまに拾われ、呼ばれただけの「シモン」で、御前に出たいと思います。
さて、「サタンが願って、聞き届られた」とは聞き捨てならないことばです。神がサタンの願いを聞き届けるとはどういうことでしょうか。一つはサタンでさえ、神に願い、神の許しを得なければ、何もできないということです。神さまとサタンは決して並んではいません。両者は主権争いをしているわけではないのです。絶対的な主権は神にあります。サタンもそれを知っていて、神に許可を願い出ているのです。そしてもう一つは、全てのことは、災いでさえも、神の許しなくしては起こりえないということです。ある人はこう言います。「神がいるなら、なぜ悲惨な自然災害が起こるのか。いつまでコロナで人を苦しめるか。社会の不公平、差別、貧困、戦争がなぜ起こるのか」と。けれども覚えておきたいのは、それらの災いでさえも神の許しなくしては、起こりえないということです。そして、それがどんなに悲惨でも、神の主権の中で起こっていることであれば、そこには必ず希望があります。なぜなら、神は愛なるお方で、最終的には必ず正しいさばきをなされるお方だからです。それは私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。
31節最後、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける」とはどういうことでしょうか。農夫は麦を収穫すると、脱穀機で麦をこき、その後ふるいにかけて、風の吹くところでもみ殻を飛ばし、麦だけを残すのです。ふるいにかけられたのは、ペテロだけではありませんでした。「あなたがたを」と聖書は言っています。信仰者は、色々なことを通して振るわれます。それは避けられません。けれども私たちは、試練を通して、心の「もみ殻」、罪や不信仰を取り除いていただくことができます。そして振るわれた後には、純粋な信仰の「実」が残るはずなのです。
シモン、ペテロは、自他ともに認める一番弟子でした。ですから彼は、自分はどんなことがあろうともイエスさまについて行く、このお方のためなら、たとえ牢であろうと、死であろうと、覚悟はできていると自負していたのです。けれども人は自分を知らないものです。ある人が、人はだいたい三割増しぐらいで、自分をよく見ていると言っていました。その証拠に、私たちは自分では、「自分はバカだし、性格も悪いし、怠け者だし…」と言っていたとしても、他の人に「まったくそうだよね。君はバカだし…」と同じことを言われると、腹が立つものです。実際ペテロは、この日の夜に「イエスを知らない」と3度も否定します。こうして彼は自分の弱さを徹底的に思い知らされることになりました。
先週は大祭司であるイエスさまのことを学びました。大祭司の主な役割は、とりなしの祈りです。イエスさまは、まずは「祈ったよ」と言って、ペテロの立ち直りの保証をしてから、挫折の予告をしたのです。それは子どもが高い所から飛び降りるときに、お父さんが下で両手を広げて、「大丈夫、お父さんがここでキャッチするからね」と言っているのに似ています。
またイエスさまは、あなたが苦難に遭わないようにとは祈っていません。苦難の中でも信仰がなくならないようにと祈っているのです。つまり、むしろ信仰者が挫折して、自分の弱さを自覚し、悔い改めてイエスさまにお従いすることを望んでおられます。そういう意味で、信仰者の挫折は、挫折で終わらないのです!
「立ち直ったら」は「向きを変えたら」とも訳せる言葉です。そうです。私たちは向きを変える必要があるでしょう。限界のある弱い自分を見るのをやめ、人と比べることをやめ、私たちをとりなし、支えてくださるイエスさまの方を向き、イエスさまの恵みと憐れみに目を向けるのです。ペテロは失敗を経て、自分の限界を知らされ、復活の主イエスさまに出会い、そして立ち直って、やがては初代教会のリーダーとして、兄弟姉妹を力づけていくのです。
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