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復活の主の現れ(ルカの福音書24:36~43)

 

「復活の主の現れ」
(ルカの福音書24:36~43)

 復活のイエスさまは、すぐに天にお帰りにならないで、40日の間、地上で何度となく弟子たちに現れました。4つの福音書全体を見ると、復活当日に5回、それ以降に5回現れています。はじめの頃はエルサレムで、その後ガリラヤ地方で、最後は再びエルサレムに戻り、オリーブ山からイエスさまは昇天されました。この40日は、さながらイエスさまの集中講義の期間でした。イエスさまは、弟子たちに現れる度に、ご自分の復活を証明し、ご自身の復活は、聖書の預言の成就であると告げ、自分が昇天した後、弟子たちがこのみことばに立って、確信をもってイエスさまの復活の証人として宣教できるように準備をしたのです。 

24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

イエスさまは弟子たちの真ん中に立たれました。そうです。イエスさまはクリスチャンの交わりの真ん中に立ちたいと思っておられます。そしてイエスさまが真ん中に立たれるところに平和(シャローム)があります。イエスさまを隅っこに押しやるときに、諍(いさか)いや不調和が生まれます。私たち新船橋キリスト教会の真ん中にも、いつもイエスさまにお立ちいただきたいなと思わされます。 

24:37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。

これはどうしたことでしょう。ペテロが復活の主に会ったと証言し、クレオパともう一人の弟子もエマオの途上でイエスさまと共に歩いたんだと、イエスさまがパンを裂いたときに、それが分かったんだと報告会をしていたのです。そこにイエスさまが「平安があるように!」と入って来られたのに、彼らは怯えて震え上がり、幽霊を見ているのだと思ったというのです。イエスさまを「幽霊」だと勘違いして弟子たちが怯える場面、他の個所でも見たことがありますね。マルコの福音書でイエスさまが湖の上を歩いて渡るのを見かけた弟子たちが、幽霊だと思ったあの個所です。このマルコの福音書で「幽霊」と訳されている言葉は、ギリシャ語でファンタスマと言って、幻想とか幻覚を意味します。つまり弟子たちは、湖の上を歩いているそのお方をイエスさまだと認識できていなかったということです。それに対して、ここに出てくる「幽霊」はプニューマといって、これに相当するヘブル語は「ルーアッハ」といい、息とか風を意味する言葉です。つまり、弟子たちはこの彼らの真ん中に立たれたお方は、イエスさまだと認識していたのですが、それがイエスさまの「霊」、からだを持たない霊だと思ったということです。「~だと思った」というのは、ドケオと言って、「そう見えた」「そう思い込んだ」と言う意味があります。この記事を記したルカは、のちにこの言葉から派生したドケチズム(仮現説)という異端思想が出て来ることを知っていました。この説は、見える物と見えないものを分離させ、見える物を軽視します。ですからルカはここで、しつこいくらいイエスは霊だけではなく、肉体をもってよみがえったということを強調しているのです。 

24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」24:40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。

イエスさまはご自身の手足を見せました。そこには十字架の傷跡もあったでしょう。そして「さあ、さわってみなさい」と言うのです。そして「幽霊ならこんな肉や骨はないでしょう」と言いました。 

4:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

「喜びのあまり信じられず」というのは私たちも経験するところです。例えば主人が、仕事が終わって家に帰って来て、「宝くじ、3億円当たったよ」と言ったとします。すると私はどんな反応をするでしょうか。「あっそ、よかったね」と気にも留めないでしょう。信じられないからです。喜びのあまり信じられず…というのはそんな感じもしれません。そこでイエスさまはとうとう究極の?手段を用います。ここに何か食べ物がありますかと聞きました。彼らは焼き魚を差し出します。するとイエスさまはそれを取って、弟子たちの前でむしゃむしゃ食べ始めたのです。イエスさまがにやにやしながら、ああおいしい♪と食べている姿を思い浮かべているのは私だけでしょうか。

イエスさまの復活はからだの復活でした。霊魂不滅のように、からだから魂が抜けだしたようなものではないし、一度心肺停止したのに心臓がまた鼓動を始め、息を吹き返すような蘇生でもない、ましてや、たとえ死んでも私たちの心の中で生きているというような観念的なよみがえりでもないのです。イエスさまはからだをもってよみがえってくださいました。ですからイエスさまは、私たちのからだを軽視しません。私たちの信仰、魂、精神、人格だけでなく、からだにも、つまり私たちの実生活にも関心があります。私たちの健康、衣食住、休息、労働など、私たちの生活を大切に思っておられるのです。 

最後に私たちは、イエスさまが言われた、「まさしくわたしです!」という言葉に注目したいと思います。この「まさしくわたしです」との言葉は、ギリシャ語でエゴ―・エイミと言い、聖書の中のキーワードの一つです。英語では“I am who I am.”といって、「わたしはある」という意味です。旧約聖書で神が燃えさかる柴の中でモーセに現れたときに、神はご自身を指して、「わたしは『わたしはある』という者である」と自己紹介されました。それは自立自存の神、つまり何にも依存しない、ご自身で存在するお方という意味です。そして新約聖書、特にヨハネの福音書で、イエスさまはご自身を「エゴ―・エイミ」と言い表します。けれども、そこにはもう一つの意味が加わるのです。それは、肉体をもって地上にお生まれくださったお方という意味です。そして、イエスさまはからだをもってこの世に生まれて来てくださっただけではない、からだをもってよみがえってくださったのです。それはどうしてですか。私たちに復活のからだをお示しになるためにです。そしてあなたがたもこんな風に復活するのだよと示されました。イエスさまは、光り輝く神々しい姿では弟子たちには現れませんでした。それどころか、イエスさまはその手足に傷跡を残したまま復活なさいました。そして以前そうだったように、魚を食べて見せ、パンを裂かれ、弟子たちと食卓を囲まれたのです。そこにおられるお方はまさしく、弟子たちの知っているイエスさまでした。

イエスさまは初穂としてよみがえられました。イエスさまを信じる私たちもあとに続きます。イエスさまが「みなさい、わたしだ!」と言われたように、私たちも悟りを開いた仏や仙人みたいになってしまうのではなく、「私」という人格を持ったまま、新しい栄光のからだをいただいて、それが私という人格に結びついて、御国で、永遠に主とともに生きるのです。ハイデルベルク信仰問答にはこんな問いがあります。 

問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答 わたしの魂が、この生涯の後(のち)ただちに、頭(かしら)なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体(みからだ)と同じ形に変えられる、ということです。

私たちの復活の希望は、イエスさまにこそあります。そして復活のいのちはすでに私たちの中にあり、いつか、弱くて、病み、疲れて、朽ちていくこの体を脱ぎ捨てて、栄光のからだを着せられるのです!最後に「球根の中には」という賛美をご紹介します。 

「球根の中には」 讃美歌21 575番(詞/曲:ナタリー・スリース)

1.球根の中には 花が秘められ、さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。その日、その時を ただ神が知る。

2.沈黙はやがて 歌に変えられ、深い闇の中 夜明け近づく。
過ぎ去った時が 未来を拓く。その日、その時を ただ神が知る。

3.いのちの終わりは いのちの始め。おそれは信仰に、死は復活に、
ついに変えられる 永遠の朝。その日、その時を ただ神が知る。


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