ルカの福音書 24:1~9
ルカの福音書には、「捜す」→「見つかる」という話しがたくさん出てきます。「迷子の羊」、「失くした銀貨」、そして「放蕩息子」(15章)のたとえ話しでは、お父さんがお兄さんに言いました。「おまえの弟は、いなくなっていたのに見つかったのだ。」そしてザアカイのお話しの中でも、イエスさまが、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(19章)と言っています。ところが今日のお話しは、捜したのに見つからなかった。というお話です。最近探し物が多くなったという方は、共感できるかもしれません。統計によると、人は1日10分、一生だとなんと153日分もの時間を探し物に費やしていると言います。
さてここに出てくる女性たちは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア+αでした(10節)。男のほとんどの弟子たちが十字架を前にイエスを見捨てて逃げてしまった中で、彼女たちは、イエスさまが十字架刑に処せられるのを現場で目撃していました。(23:49「ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」)イエスさまが十字架で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時ごろでした。その後、アリマタヤのヨセフという人が、自分の所有する新しい墓を提供してくれたので、イエスさまはそこに葬られました。ユダヤ人の安息日の規定では、金曜日、日が沈んだら、もう出歩いてはいけないという規定がありましたので、それこそやっつけ仕事で、大急ぎでイエスさまの遺体に布を巻いて、墓に納めてしまったようです。そしてこの時も、ガリラヤの女の弟子たちは、その様子を星飛雄馬のお姉さんのように、陰で見守っていました。(55-56節「イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」)彼女たちはきっと埋葬の様子を見ながら、「あ、もっと丁寧に扱って」「しっかりお薬塗らないと」「いい香りの油を塗ってあげないと匂いが…」「血ももっときれいに拭きとってあげなきゃ…」とひやひやしながら見ていたのでしょう。でも、何しろ時間がないので仕方ありません。イエスさまのからだはそのままお墓に納められ、墓の前は大きな石でふたをされてしまいました。お墓のまわりには屈強なローマ兵たちが厳重に見張っています。女たちはその日はあきらめて、日が沈む前にその場を離れました。
安息日は、土曜日の日没で明けます。けれども今とは違い、外は真っ暗ですから、その時間からお墓に行くわけにはいきません。女性たちは日曜日の早朝、うっすらと空が白み始めるころに、準備しておいた香料や香油を持って墓に行きました。イエスさまのからだをきれいに拭き直して、いい匂いのする油を塗って、そしてきちんと布を巻き直してあげたかったのです。ただ彼女たちが心配していたのは、お墓の蓋を誰か開けてくれるだろうかということでした。彼女たちは道々、あの墓の蓋をどうやって開けようと話し合っていたようです。なにしろ男3人でやっと転がせるような重い大きな石ですから、自分たちだけで動かすのは到底無理です。番兵に頼むしかないからしらと話し合っていたかもしれません。思いが先行して、後先を考えないで行動に移してしまう姿は、自分を見ているようです。彼女たちが頼んだからと言って、ローマ兵がほいそれと墓の蓋を動かしてくれるとは、到底思えないのですが。
ところが!到着してみてビックリでした!そこにいた番兵はおらず、大きな石は脇に転がされていました。彼女たちは恐る恐る中に入りました。ところが、イエスさまのからだは「見当たらなかった」のです。「見当たらなかった」ということばは、原文では「見つからなかった」「見つけ出すことができなかった」という意味です。
当時のユダヤ地方の墓は、石灰岩をくりぬいて作られていました。中は二重構造になっていて、入り口すぐには比較的広い部屋、その奥に小部屋があり、そこに遺体が安置されたようです。彼女たちは、こっちの部屋もあっちの部屋も、とにかくくまなく捜しました。ところがどこにも見当たらないのです。彼女たちは途方に暮れてしまいました。おそらくこの状況がのみ込めず、呆然としてしまったのではないでしょうか。
すると「まばゆいばかりの衣を着た人が二人近くに来」ました。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せました。するとその人たちは言うのです。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか、ここにはおられません。」と。つまりこう言うことです。「あなたがたは捜すところが間違っています。」「どうしてこんなところを捜しているのですか。」「ここは死んだ者がいるところです。」「イエスさまはよみがえりました。」「生きています」そして、「まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。」と言いました。そうなのです。イエスさまは何度かご自身が、苦しみに会うこと、殺されること、そして3日目によみがえることを弟子たちに話しておられたのです。女性たちもその場にいました。代表的なのがルカ9章22節です。「そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。」こんなにはっきりと語っておられたのです。
彼女たちは、はっとしました。イエスさまのお約束を思い出したのです。でも実際復活のイエスさまにお会いしたわけではないので、飛び上がって喜ぶ…とはいかなかったようです。彼女たちは、とりあえず自分たちが見聞きしたことを他の男性の弟子たちに報告しました。ところが弟子たちの反応も微妙だったのです。24:11「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」とあります。当時、法廷でも女性は証言台に立てませんでした。ですから女たちの証言は、信じるに値しないものに思われたのかもしれません。でもペテロだけは、走って墓まで行って確かめますが、「驚きながら自分のところに帰った」とあります。そしてここにもイエスさまを見つけ出した感動や喜びがありません。
実は、見つけた喜びは、イエスさまが実際弟子たちに現れて下さったときにはじけます。41節「彼らが喜びのあまり」52節「大きな喜びとともに」と、やっと発見の喜びが出てきます。
考えてみれば、ルカの福音書の中で、捜しておられたのはいつもイエスさまの方でした。そして見つけ出してくださったのもイエスさまの方でした。私たちが捜しても的外れ、「生きている方を死人の中に捜」しているのです。私たちは迷子の羊のように、失われた銀貨のように、放蕩息子のように、ザアカイのように、イエスさまから離れ、迷うのは得意だけれど、自分で捜し当てることはできないのです。そう、イエスさまに見つけていただかないとだめなのです。
「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」とイエスさまはおっしゃいました。イエスさまはよみがえられて、今も生きておられます。そして今も失われた私たちを捜しておられます。そして出会ってくださろうとしておられます。私たちはもう見当違いのところを捜さなくていいのです。救いはここにあるのですから。
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