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マケドニアの叫び(使徒の働き16章6~10節)

 

「マケドニアの叫び」

使徒の働き16:5~10

 

2週間空きましたが、パウロの第二次伝道旅行に戻ります。パウロはシラスと一緒にシリアのアンティオキア教会から派遣され、伝道旅行に出ましたが、途中リステラでテモテと出会い、彼も同行させることにして、3人でこの伝道旅行を続けました。先の伝道旅行で生まれた教会を訪問し、彼らを励まし、エルサレム会議の決議事項を伝えた後に、パウロたち一行は、今度は福音の未伝地に入って行って、伝道しようとしています。

こうして彼らは、リステラを後にして、そのまま西に向かい、アジアに入って行って伝道しようとしました。ここ一体もローマの属州でしたが、エペソのような大きな都市もあり、パウロはまずはこの一帯を制覇せねばと、思ったのかもしれません。私たちの教会は今年のイースターには、「ちいき新聞」にチラシを折り込んで配布しましたが。以前は、地図を広げて皆さん総出でチラシを配ったのではないでしょうか。手配りは暑さ寒さの影響も受けますし、犬に吠えられたり、心ない言葉をかけられたりとなかなか大変ですが、地図を区画に分けて、配り終わったところから少しずつ色鉛筆で塗りつぶしていくのは、達成感もあり、楽しいものです。

ところがパウロが塗りつぶそうとしていた地域への伝道は、できなくなくなりました。6節「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。」どんな方法で聖霊は禁じたのかは、私たちにはわかりません。けれども神さまと親密な関係にあった3人ですし、シラスは預言者だといいますから、彼らははっきりとアジアに行くのは主のみこころではないと分かったのでしょう。そこで、一行は西に進むのをやめて、向きを変えて北上し、フリュギア・ガラテヤ地方を通って行きました。きっとパウロのことですから、「転んでもただでは起きない」精神で、道々も福音を宣べ伝えて歩いたのでしょう。こうしてミシア地方まで来ました。パウロたちは、ここまで北上したのだから、続けて北へ北へと向かおうとしました。そしてビティニア地方を目指しました。ところが、またしても「イエスの御霊がそれを許されなかった」のです。「聖霊によって禁じられる」と「イエスの御霊がそれを許されなかった」とではどう違うのかと思う方もおられると思いますが、この二つは同じことです。聖霊が彼らに分かるようなかたちで、そちらへは行くなと言ったのです。こうして彼らは、ミシアをそのまま西へと進み、とうとうトロアスまで来ました。トロアスは西の果てです。目の前に広がるエーゲ海を眺めながら、ここが今回の伝道旅行の最終地点かとパウロは思ったことでしょう。けれども神さまの導きは違ったのです。彼は幻を見ました。眠っているときに夢で見たのか、白昼夢のように、目覚めながら幻を見たのかは分かりませんが、その幻の中で一人のマケドニア人が、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのでした。マケドニアというのは、エーゲ海の向こう側、彼らにとっては未知の世界、ヨーロッパです。しかし彼らは、神のみこころを確信するや否や、ただちにマケドニアに渡ったのです。ちょっと待ってください。ここには「私たちは」とあります。「私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」とあります。そうです、なんと「使徒の働き」の記者ルカも、トロアスでパウロたち一行と同行したようです。

私たちは今日の個所から、3つのことを学びたいと思います。一つは、聖霊によって道が閉ざされることがあるということです。私たちは自分の人生に目標を持ち、計画を立てます。それは行き当たりばったりの人生より、人生をより良くすることを私たちは知っています。けれどもいつも計画通りに事が進むわけではありません。計画が途中で頓挫し、変更を余儀なくされることがあります。回り道をすることもあります。また計画を実行に移す段階になって、力不足だったり、予算オーバーだったり、健康を害したりして、実行を阻まれることもあります。けれどもそんなとき、私たちは自分がしようとすることの本質を問われます。自分はどうしてこれをするのか、どんな動機から、何を目標にしてこれをするのか。このことは神のみこころか、自分の思いか、いろんなことを考えます。そんな中で、私たちはもう一度試されるのです。今、私たちはコロナ禍にありますが、教会はその中で教会の持つ使命、本質を問われています。今までしてきた伝道活動、イベントができなくなり、集まれなくなり、愛餐がなくなり、礼拝さえ短縮して行っています。こうしていろんなことをそぎ落として、そぎ落としていく中で、教会って何なのか、何のためにあるのか、教会の使命は何なのかを問われているのです。聖霊は、時に私たちが行こうといている道を閉ざします。それは私たち困らせようとしておられるのではなく、私たちに立ち止まって考えさせようとしているのかもしれません。

さて次に、道が閉ざされたときに私たちはどうしたらいいのかを考えたいと思います。一つは、無理にこじ開けないということです。神が道を閉ざしているのに、無理に突き進んでも祝福されません。私たちの道と神のみこころが一致するときにその道は祝福され、多くの実を残すことができるのです。パウロたちはそれを知っていましたから、聖霊に禁じられた道を進もうとは思いませんでした。そしてもう一つは、開かれた道を進むことです。パウロたちもそうしました。すべての道が閉ざされたわけではありませんでしたから、彼らはとにかく開かれている道を前進しました。そこであきらめて引き返したり、その場所に留まったり、ましてや放り出してしまうことはなく、開かれた道を進んだのです。八方塞がりに見えてもどこかに出口があるはずです。自分の道に固執しないで、聖霊に第三の道を見させていただきましょう。そして3つ目は、神の時を待つことです。神さまは、今はその時ではないと言われているのです。パウロたち一行はアジアへの道を閉ざされましたが、だからと言ってアジアに福音が伝わらなかったわけではありません。パウロたちは第三次伝道旅行で、このアジアを舞台に、思う存分伝道しているのです。そしてアジアで一番の都市エペソでも福音が宣べ伝えられ、教会が建て上げられていきました。また、今回はビティニアに行くことはイエスの御霊が許されませんでしたが、ここには他の誰かが福音を伝えたようです。Ⅰペテロ1:1では、「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」と書いてあります。大丈夫です。私たちが心配しなくても、神様はちゃんと考えておられるのです。今日の招詞ではイザヤ書55章8~9節を読みました。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

こうしてパウロたちはマケドニアの叫びを聞きます。「マケドニアに渡ってきて、私たちを助けてください」という魂の叫びです。パウロはこの幻を見たときに納得しました。「ああ、神さまがアジアへの道、ビティニアへの道を閉ざしたのは、このためだったのか!」と。10節にある「確信したから」の「確信する」は原語では「結び合わせる」「組み合わせる」という意味を持ちます。人生の中で挫折をしたり、計画がうまく行かなかったり、道を閉ざされたりする中で、私たちは混乱します。神さまの導きが分からなくてつぶやきたくもなるでしょう。「主よ、なぜですか?」と涙ながらに問うこともあるでしょう。けれども、それでも神さまが開かれた道を進んで行くときに、いつかすべてが明かされる時が来るのではないでしょうか。「ああ、このためだったのか!」と分かるときが来ると思うのです。あの時の挫折、あの時の回り道、それらをつなぎ合わせて、結び合わせていくときに、確かな主の導きが浮かびあがってくるのです。

こうしてパウロは、マケドニアの人々の叫びに応えて、海を渡ってかの地に向かいました。そうです。そこはヨーロッパでした。こうしてヨーロッパに福音の種が蒔かれて行ったのです。

神さまの導かれる人生に無駄はありません。それがどんなに回り道に見えても、足踏みをしているように見えても、苦しくて、つらくて、傷だらけの道でも、それは無駄ではないのです。神のご計画、御手の中で全て意味があるのです。神はいつかその無駄に見える時間を、道のりを、手繰り寄せて、結び合わせて、「ほら。このためだったんだよ」と私たちに教えてくださることでしょう。


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