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剣を鋤に槍を鎌に(ミカ書4:1~5)

 「剣を鋤に槍を鎌に」

ミカ書4:1~5

 

預言者ミカの時代は、アッシリアが北イスラエルを滅ぼし、いよいよ南ユダ、エルサレムに迫ってくるという状況にありました。南ユダは、絶えず外敵による攻撃に悩まされ、戦争に次ぐ戦争で、人々は緊張と不安の中に置かれ、疲弊しきってていました。その上、国の指導者たちは腐敗し、私腹を肥やすことばかりに関心が向き、人々を顧みることをしません。また偽預言者が気休めの預言をし、神殿も貪欲な祭司たちによって汚されていました。ミカは3章までで、そんなイスラエルの指導者たちへの神のさばきを語っています。

ところが、4節になると一転、新しい幻、希望のメッセージが語られます。

 

「4:1 その終わりの日、【主】の家の山は、山々のかしらとして堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る。4:2 多くの国々が来て言う。『さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。」

終わりの日、戦いが終わり、真の平和が訪れます。その平和は、力を持った一国支配による平和ではなく、主が統治される平和であり、人々が神のことばを慕い求め、自発的に神に従うことによって生まれる平和だと言っています。

 

「4:3 主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。4:4 彼らはみな、それぞれ自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。まことに万軍の【主】の御口が告げる。」

そして主は、全世界の民を正しくさばき、争いごとを調停されます。こうして「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」のです。実は当時、ひとつのスローガンがありました。それは「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ!」というものです。戦争のために農民たちを武装させ、武器を調達するのが目的です。しかし今、再び剣を鋤に、槍を鎌に打ち直せと言います。つまり、武器はもういらない。そしてそれらを、人を傷つけ、殺し、破壊する道具ではなく、人のいのちを生かし、養うための道具に変えよと言っています。人間の持っている知識や技術を破壊のために用いるのではなく、人を生かすために、よいものを生産するために用いよと言っているのです。

「もう戦うことを学ばない」とは、なんと魅力的な言葉でしょう。私たちは知らず知らずのうちに戦うことを学ばされます。子どもたちは学校に入るとすぐに、どうしたらいじめのターゲットにならないか、ぼっちにならないためには最初が肝心。波風立てず、まわりに足並みをそろえ、目立たず、浮かず、上手に生きることを学びます。また、人生の勝ち組になるために、よく勉強をし、いい学校に入り、少しでも収入のいい会社に就職し…こうして私たちは、人を押しのけ、戦うことを学ぶのです。また国も互いに力を誇示し、そのために軍事力を保持し、人々を戦争へと掻き立て、あの国が悪い、この国が悪い、自国を守るためだ、自分たちは正しい…、そう言って人々に戦いを学ばせます。しかし来たるべき日には、「もう戦うことを学ばない」、「学ばなくてもいい」と聖書は言っています。「ぶどうの木の下やいちじくの木の下に座るようになり」とは、聖書の中でよく出て来る表現です、当時のパレスチナで農業を営む人々が思い描く平和の様子です。誰にも脅かされることなく、家族のために日々働き、十分な糧を得ることができる。貧しさのために、幼い子が兵士に取られることもなく、自ら雇われ兵士になる必要もない。そんな平和な世界を表しています。

中村哲さんという方のことはみなさんも知っておられるでしょう。ペシャワール会代表だった彼は、当初は医師として、医療活動を通して、内戦と干ばつに苦しむアフガニスタンで援助活動を行っていましたが、事態は全く改善しませんでした。病人が減らない原因は続く干ばつで人々の衛生環境が悪化し、農作物が採れないことによる栄養失調が原因であることは一目瞭然でした。またそこからくる貧しさのために、人々は傭兵(雇われ兵士)として、内戦に加わって行くのです。人々は言います。何も私たちは戦いたいわけではない、できれば農業をして家族を養って静かに暮らしたいのだ。しかしここは水もなければ緑もない。どうやって家族を養ったらよいのだと。中村哲さんは、はじめは水を得るために、井戸を掘り続けました。なんと1600本もの井戸を掘りますが、地下水が枯渇することを恐れた政府がこれを禁止します。しかし中村哲さんはあきらめることなく今度は、「緑の大地計画」を考えます。アフガンには高い山があり、実は雪解け水が豊富です。それをすぐに海に流してしまうのではなく、何とか砂漠に引いて来て、一帯を緑の大地に変えようという計画です。ご存知の通り、中村哲さんはクリスチャンです。神様は中村さんに特別の知恵を与えました。彼は故郷の福岡県朝倉市の山田堰にヒントを得、乾いた大地に堰を造り、用水路を引き、なんとその一帯を緑地化することに成功したのです。水路周辺約1万6千ヘクタールが緑化され、約65万人の自給自足が可能になりました。まさに人々が手に持つ剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す出来事でした。中村哲さんは、さらに他のところでも同じような用水路を造ろうと計画しますが、道半ばにして、武装勢力に銃撃されて殺されてしまいます。2019年12月のことでした。しかし彼は平和をつくった人として、今も現地の人からはもちろん、世界中で尊敬されています。

 

さて、4節終わりには「まことに万軍の主の御口が告げる」とあります。主が告げられた究極の平和は、まだ実現していません。ですからミカの預言は、後のバビロン捕囚帰還後のことを言っているのではなく、またエルサレム再建のことでもなく、終末的な預言であると言えるでしょう。そしてこのミカの預言は、実は信仰の告白なのです。私たちは目の前の現実に打ちのめされ、平和への希望を失いそうになります。家族崩壊、暴力、人と人、国と国との争い、インターネット上の誹謗中傷、コロナ禍でのさばき合いや、分断、自己中心、そして暴力がはびこるこの世界を前に、私たちは失望しそうになるのです。しかし、ミカは現代を生きる私たちにも語りかけています。目の前の現実に困難があっても、信仰をもって平和を目指すという信仰の告白をしていこう。神がその平和の実現を約束してくださっているのだからと。

いつ、神の約束された平和が実現するのでしょうか。実はそれは、イエスさまによってすでに始まっています。まだ完成はしていないけれど、イエスさまが始めてくださっているのです。5節にはこうあります。

「4:5 まことに、すべての民族は、それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、【主】の御名によって歩む。」

イエスさまは地上での生涯で、神の名によって歩んでくださいました。そして神に完全に従い通し、十字架の道を歩んでくださったのです。敵を愛し、あざける者のために祈り、神との完全な平和、人との完全な平和を貫いてくださいました。こうして徹底的に神の名によって歩んでくださったのです。イエスさまが私たちに見せてくださった平和は、強力な軍事力のもとに保たれている見せかけの平和ではありません。誰かが平穏な豊かな生活を享受するために、誰かが置き去りにされ、虐げられている平和でもありません。一人ひとりが尊重され、日々の生活が脅かされることなく、それぞれが神さまに与えられているいのちを最後まで全うできる平和です。私たちが、このイエスさまが始めて下さった平和の御足の跡をたどって生きるときに、私たちの通った後にも平和が生まれていくのです。

 

私たちはもう、心に武器を持つのはやめましょう。心の中に固く握っているその剣を鋤に変えましょう。槍を鎌に打ち直しましょう。憎しみを捨て、赦しと愛を持ちましょう。そうして、イエスさまが山上の説教でおっしゃったように、平和をつくる者にさせていただきましょう。中村氏は著書『天、共にあり』の中で、「平和とは観念ではなく、実態である」と言っています。平和を唱えることは簡単です。しかし私たちは平和のために何ができるでしょうか。もう一度神さまの前で自分自身に問うていきたいものです。

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