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解放と自由(使徒の働き16:16~24)

「解放と自由」

使徒の働き16:16~24 

「人身売買(人身取引)」というと皆さん何を思い浮かべるでしょうか。貧しい国々で行われている、親が子どもを売るというような、また人さらいが、子どもなどをさらって闇で売るというようなことででしょうか。そのようなことは確かに今も行われています。けれどもそれだけではありません。驚くほど安い賃金で、というより、奴隷状態で強制労働させられている人々も世界中には多くいます。例えば、日本人が大好きなりんごのマークのスマホの部品のために、インドネシアのスズ鉱山では、子どもたちが劣悪な環境の中で手作業でスズを集めています。また同じように例えばウイグル地区の人々の強制収容所の人々は、やはり部品製造のために長時間労働を強いられているということもわかっています。しかもこの人身売買は他国の出来事ではありません。日本でも行われています。主に性的搾取が目的で行われる、売春や風俗、接待と称した性的サービス業などです。

 昨年4月、吉本興行に所属するお笑いコンビ「ナインティンナイン」の岡村隆史氏が、ラジオ番組でコロナで風俗店に行けなくなったと嘆く男性リスナーのメールにこんな風に答えました。「今は辛抱。『神様は人間が乗り越えられない試練はつくらない』言うてはりますから」「ここは絶対、乗り切れるはずなんです。コロナが収束したら、もう絶対おもしろいことあるんです。それは収束したら、なかなかのかわいい人が短時間ですかれども、お嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」「……だから今は我慢しましょう。今のうちにがんばって仕事して風俗にいくお金を貯めましょう!」これどう思いますか?コロナで経済的に窮地に追い込まれた女性、しかも普段は風俗で働かないような女性が、自分のからだを売らざるを得ない状況が来る。そしてそれを岡村氏らは、手ぐすね引いて待っているということです。そして多くの風俗店はコロナ禍の今店を閉じていますから、今は「パパ活」と称して、多くの未成年を含む女性たちが、非常にリスクの高い仕事をしています。日本にも人身売買はあるということ、そして奴隷状態の人がいるということをまずは覚えたいと思います。

 

さて今日の聖書の個所には、若い女奴隷が出てきます。彼女は占いの霊につかれていました。この「占いの霊」というのはつまり「悪霊」のことですが、悪霊がこの女性に憑くと、彼女は恍惚状態になり、本来の声ではない声で、その人の未来などを語り始めるのです。日本でもイタコと呼ばれる人がいて、口寄せを行いますが、同じようなものでしょう。彼女に憑いていたのはピュソーンの霊だったと多くの人が注解しています。ピュソーンというのは、ギリシャ神デルフィーの神のみ告げを守っていた蛇(ドラゴン)の名前で、この蛇をアポロンの神が退治しました。この蛇ピュソーンの霊がその後もデルフィーの託宣の中で働いているとされていました。

とにかくこの占いがよく当たるものですから、大変人気で、雇用主というか、主人たちはぼろ儲けしていました。主人たちと複数になっていますから、複数の主人がこの一人の女奴隷にたかっていた。自分は働かないでぼろ儲けしていたというのですから、本当にあくどいじゃないですか。

 

ここでイスラエルの奴隷と他国の奴隷を比べてみましょう。旧約聖書の中には「奴隷」がよく出てきますが、他国の奴隷と全然違います。イスラエルの奴隷は、種々の権利が与えられ、慎重に保護されていましたし、主人に気に入られれば、主人の妻や養子、養女になることもできました。また外国人に売られる(転売)されることはなく、主人が義務を怠れば無償で自由の身になることもできたのです。時には自分の財産を持つことさえ許され、主人の財産を相続することもあったのです。全て神さまがイスラエルに与えた律法に定められています。ところがローマの奴隷は違います。何の権利も持たず、彼らは主人の所有財産にしか過ぎません。それこそ、当時のアメリカの奴隷制度のように、家畜と同じだったのです。

 

さて、この女奴隷がなぜか、パウロたちの後についてきました。そして、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けました。彼女の言っていること、いや、彼女に憑いている悪霊が言っていることは、確かにその通りです。悪霊は神さまのことをよく知っています。ヤコブ2:19 にはこうあります。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。」悪霊は確かな知識に基づいてこれを言っているのです。ではどうして、パウロたちはそれをやめさせたのでしょうか。

それは、実際にうるさかったからでしょう。「何日もこんなことをするので」とありますから、はじめのころは我慢していたのでしょうが、朝に晩に、所かまわずそばで叫び続けるので、ほとほと疲れてしまったということがあるでしょう。彼女が「いと高き神のしもべ」とか「救いの道を」とか言うと、人々は異教の神々、異教のご利益的な救いを思い浮かべるでしょう。そういう意味でも、彼女にパウロたちのことを紹介してほしくなかったというのがあるのではないでしょうか。そして、何よりもこの女性を悪霊から解放してあげたかったのでしょう。幾日もパウロたちにつきまとい叫ぶこの女性に、あわれみの心が湧いてきたのです。考えてみれば、彼女は二重の束縛の中にありました。悪霊からの束縛、そして彼女をいいように食い物にしている主人たちです。そして、パウロはある日、後をついてきている女の方に振り向いて、「その霊」に言いました。この「その霊に」というのが大事なところです。パウロはこの女性には何の悪感情も持ってはいない、むしろあわれんでいました。悪いのは悪霊なのだとしっかりと見抜いていたのです。そして言います。「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出ていけ!」するとただちに霊は出て行きました。「イエス・キリストのお名前」には権威があります。そして私たちクリスチャンは、水戸黄門のご印籠のように、「イエス・キリストの名」を用いる権限が与えられています。「これが目に入らぬか!」と悪霊につき付けることができるのです。こうして「ただちに霊は出て行った」とあります。彼女はきょとんとして、正気に戻ったのです。ぎらぎらした異常な眼光はもうありません。人としての人格が戻ったのです。

 

けれどもこれでめでたしめでたしではありませんでした。彼女は全く占いができなくなってしまいました。もともと演技だけでやっていたインチキのイタコではありませんでしたから、悪霊が去った今、そんなふりもできません。「彼女の主人たちは、金儲けする望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、広場の役人たちのところに引き立てて行」きました。この主人たちは一体なぜ、何を訴えているのでしょうか。

金儲けをする望みがなくなったということです。これが訴えの動機です。けれどもこの本当の動機を訴えてはいません。訴える理由にはなりませんから。「彼らはユダヤ人です。」と訴えています。神から特別の祝福と寵愛を受けている民族へのねたみでしょうか。歴史の中でユダヤ人は、かたや尊敬されつつも、嫌われ、迫害されるのです。「町をかき乱した」と訴えます。けれどもこれは当たりません。パウロは一言発して、女奴隷から悪霊を追い出しただけです。それがきっかけで騒動が起きたのではなく、儲ける望みがなくなった主人たちが大騒ぎをしたので、そのことが町をかき乱したのです。「ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝して」いるということ。これも当たりません。ローマはこの時、「宗教寛容策」をとっていました。ただ他の宗教の人を改宗させてはいけないとの規定はありましたが、これはもう「絵に描いた餅」で、ローマがこれほど多くの国、多くの文化圏に及んだ今は、実質意味をなしていない規定でした。ですから、これも当てはまりません。しかしながら、私たちクリスチャンは、独特の「御国の価値観」「神の国の風習」に従って生きていますから、私たちが神の国の旗印を掲げて生きていれば、いつの時代も摩擦は避けられないかもしれません。

そしてこの主人たちの理不尽な訴えに、群衆がまず扇動されます。福音書や使徒の働きを読んでいると、この群集というのはいつもやっかいです。自分の考えや意見を持たず、ちゃんと検証もせず、まわりに流されて騒ぐ群集です。彼らは、イエスさまが十字架にかかる前に「ホサナ、ホサナ!」と、イエスさまを来たるべき王、メシヤとしてエルサレムに迎えたのに、その数日後には、その声は「十字架につけろ!」に変わってしまったのです。私たちも他人事ではありません。このコロナ禍、なにも考えない「群衆」の一人にならないように気を付けなければいけません。自分で考えて、みことばに聞いて、祈って物事を判断したいものです。

そして長官たちは、「彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じ」ました。これまた、責任ある立場の長官たちも、群衆の声に押されて、何も取り調べもしないで、パウロたちをむち打ちの刑に処し、牢にぶち込んでしまったのです。群衆に押されてというのは、イエスさまを十字架につける裁判をしたピラトと重なります。実は後の方を読めばわかることですが、パウロたちはローマの市民権を持っていましたので、取り調べもしないで、むち打ちにされるというのは、とんでもない扱いなのですが、そんな弁明も許されないぐらい、強引に、有無を言わさずむち打ち刑に処したのでしょう。

そして長官たちは牢の看守にパウロたち二人を託します。二人とあります。後の方を見ればわかりますが、二人というのはパウロとシラスです。ルカとテモテはどうして免れたのでしょう。それは、パウロとシラスが、生粋のユダヤ人だったからのようです。訴えの中に「この者たちはユダヤ人で!」とありますから、ギリシャ人の父を持つテモテ、また伝承ではシリア人と言われるルカは、除外されたのでしょう。

さて、この命令を受けた看守は、一番奥の牢に彼らを収監します。それでも不安だったのか、足には木の足かせをはめるのです。けれども、この役を仰せつかったことが、後に祝福になります。それは来週見ていきたいと思います。

 

さて、もう一度、悪霊につかれた女奴隷に注目しましょう。彼女は私たちとは関係のない類の人でしょうか。私たちは自由な国におり、誰の奴隷でもないはずです。しかし、もし私たちが悪いとわかっているのにやめられない習慣があるのなら、またそれがないと心の安定が保てないものがあるのなら、私たちは奴隷です。また支配関係、依存関係にある人や組織はないでしょうか。もしあるなら、やはり「奴隷」だと言わざるを得ません。イエスさまは、そんな私たちを解放し、自由を与えたいと思っています。イエス・キリストの御名には力があります。権威があります。どうぞ、何か皆さんを縛っているものがあったら、イエス・キリストの御名によって祈って、解放を宣言してください。祈りましょう。


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