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わたしたちは主のもの(ローマ人への手紙14:7~9)

わたしたちは主のもの

ローマへの手紙14:7~9 

コロナのせいでしょうか。昨年から今年にかけて、何度も訃報を聞きました。岡田姉のご主人が亡くなられたのは、私がこの教会に赴任する前でした。またこの夏には習志野台キリスト教会で長く牧会なさっていた中嶋基之先生が召されました。8月にはラザロ霊園で納骨式があり、私たちの教会からも有志が参列しました。また私の父も7月半ばに召されました。父は昨年の年明けぐらいから、急速に病気(核上性麻痺)が悪化し、入退院を繰り返すようになり、親族もほとんどお見舞いに行けないまま、天に召されました。訃報は悲しいものですし、生前、ああすればよかったこうすればよかったと後悔も少なからずありますので、キリスト者と言えども、涙涙のお別れになります。けれども不思議な平安があるのも事実です。どうしてでしょうか。それは故人が「主のもの」として召されたからです。生前ずっと故人手を引いてともに歩んで来られた主が、そのまま天の御国に連れて行ってくださり、これからもずっと共にいてくださると知っているからです。そしていつか私たちも地上の歩みを終えたら、同じ主に導かれて、御国で再会する希望があります。本日は、本来は午後からラザロ霊園で墓前礼拝が行われるはずでしたが、昨年に続いて今年も中止となってしまったので、今日はみことばを通して、キリスト者の生と死について、考え、教えられたいと思います。

 14:7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

クリスチャンってすごいなぁと思うでしょうか。自分のために生きない。自分のために死ぬこともない。神のために生き、死ぬのがクリスチャンなら、自分はクリスチャン失格だ。そう思われる方もいるかもしれません。けれども、このみことばはそういうことを言っているのではありません。また、クリスチャンはこうあらねばならぬという命令でもありません。これはクリスチャンの状態、単純な事実を述べているだけなのです。

実はここにある「自分のために」の「ために」は、原語をたどりますと、「~に向かって」と言い換えることもできる言葉です。「~目標をとして」とも言えるでしょうか。また、「~と向き合って」という意味も持ちます。つまり、私たちの中で誰一人、自分を目標にして生きている人はなく、自分を目標として死ぬ人もいないという意味です。また、もう一つの「~に向かって」という意味を取るなら、「鏡のように、自分と向き合って、自分を見ながら生きていくのではなく、死んでいくのでもない」ということになるでしょうか。実際いくつかの英語の聖書では、「ために」"for himself"ではなく、“to himself.”となっています。私たちはどこを目指して、誰と向かい合って生き、そして死ぬのでしょうか。自分の方を向いて、自分自身を見つめながら生き、死ぬのでしょうか。そうであれば、私たちは迷い、立ち往生し、失望するしかありません。自分を見つめながら死ぬのも同じです。空しさしかありません。けれども聖書は、私たちクリスチャンは、自分に向かって生きてはいない、死んでもいないと言っているのです。では何を見つめ、どこに向かって私たちは生き、死ぬのでしょうか。

 14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」これも、一見特別な立派な生き方で、私たちには達し得ないように見えるかもしれません。けれども実はこのみことばの「ために」も7節を同じく「~に向かって」「~と向かい合って」と読むことができます。つまり「私たちは、生きるとすれば主に向かって、主と向かい合って生き、死ぬとすれば主に向かって、主と向き合いつつ死ぬのです」と読めるのです。中世の教父アウグスティヌスは「人は神に向けて創られた。だから神のもとに憩うまでは、平安を得ることが出来ない」と語りました。彼は、人間は皆、行くべき方向を持っている、必ず何かに向かって歩み続けるのだと言っています。生きる時も、死ぬ時もです。ですからその方向がはっきりしないと、安心して前向きに生きることができないというのです。そして人が向くべき方向、それはだ主なる神さまだと言っています。「人は神に向けて創られた」とはそういうことです。ユダヤ的なたとえで、私たちの人生を手漕ぎボートに譬えることができるそうです。漕ぎ手は私たちです。向かいにイエスさまが座っています。私たちは、行き先を見ることはできません。見えるのは、イエスさまのお顔です。イエスさまのみことばを聞きながら、指示を仰ぎながら、私たちは舵を取り、ボートを漕ぎ、前進するのです。私たちの人生は、イエスさまと共なる手漕ぎボートなのです。

  続けてパウロは言います。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と。そうなのです。私たちは主のものとして生きることができますし、主のものとして死ぬことができます。私たちがイエスさまを信じ、心にイエスさまをお迎えした時に、私たちは主のものとなりました。パウロはガラテヤ書で「もはや自分が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と言っています。そうです。私たちは主に属するものとなったのです。ですから主は、私たちの人生のすべてに関わってくださいます。人生の一大イベント、受験の時、結婚の時、子どもを産んだ時、子育ての時、病気の時、人生の試練の時、老いを生きる時、そして死ぬ時はもちろん、私たちの日常生活の中でも主は共におられ、関わり、介入して下さっています。なぜなら、私たちは主のものだからなのです。

 14:9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。

キリストの死と復活によって、キリストはすべての人の主となりました。ある人は言うかもしれません。二千年以上前のイエス・キリストの死と復活が、今を生きる私たちと何の関係があるのかと。実は大いにあります。キリストの死は、私たちの罪の身代わりの死でした。本来私たちが、自分の罪ゆえに神に見放され、捨てられ、罰せられ、絶望の内に死ぬはずだったのです。しかし神は、私たちを愛するがゆえに、ご自分のひとり子イエス・キリストを代わりに見放し、捨て、罰し、見殺しにしたのです。こうしてイエスさまは、私たちの死をすべて引き受けてくださいました。そういう意味で、イエスさまの死は、私たちに大いに関係があるのです。

キリストの復活も同様です。神はイエス・キリストを復活させ、初穂として新しいいのちを与えてくださいました。初穂というからには、後に続く実りもあります。それが私たちなのです。私たちはキリストの復活によって、新しいいのちをいただき、死を乗り越え、新しい栄光のからだをもって復活させていただくのです。

このようにして神は、イエス・キリストの死とよみがえりによって、私たちの全人生に関わり、私たちの全人生の主になってくださいました。生きている時も「わたしのもの」と呼んでくださり、死んでもなお「わたしのもの」と呼んでくださるのです。神を信じない人、死後の世界はないと思っている人にとって、人生の終着点は死です。しかし、主のものとされた私たちの終着点は、復活のいのちなのです。

人は肉体の死を迎える時、その肉体は土に帰ります。しかしイエスさまを信じる人の魂は天におられるキリストのもとにあげられます。聖書ではその場所のことを「パラダイス」と言っています。そして、キリストのもとで憩い、神を賛美し礼拝しながら過ごすのです。けれども、そこは終着点ではありません。キリストが再びこの地上に来られる時、私たちは新しい栄光のからだをもって復活します。そしてその日、キリストは神の国の王としてこの地上に残っているあらゆる悪の力を滅ぼし、神の国を完成させるのです。そしてついには、神の国を父なる神さまにお渡しし、神が統治する神の国が完成するのです。

わたしが子どもの頃に歌った「ふくいん子どもさんびか」79番の歌詞が思い出されます。「福音の汽車に乗ってる 天国行きにー(ポッポー) 罪の駅から出ーて もう戻らない。切符はいらない 主の救いがある それでただ行く(ポッポー) 福音の汽車に乗ってる 天国行きにー」

イエスさまを信じたとき、私たちは福音の汽車に乗ります。それは汽車に乗ってしまえば、何もしなくても自動的に御国に連れて行ってもらえるということではありません。目的地は決まっているということです。終着駅は完成された神の国です。私たちはそこで栄光のからだをいただいて、主と共に生きるのです。もはや悲しみも痛みも、病いも死もありません。私たちはそこで、永遠に主を喜びつつ、生きるのです。


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