「神を見出す」
使徒の働き17章22~34節
パウロの説教の中心は、あくまでイエス・キリストの福音でした。そうなると、今日の説教の本論は、30節、31節の2節にだけになります。それまでは、いわゆる序論なのです。ずいぶんと長い序論ですが仕方ありません。何しろ相手は天地創造の神も、唯一神も知らない人々なのです。そう、日本人のように。かつて日本の教会では、アメリカの宣教団体キャンパスクルセードが広めた、「4つの法則」を用いた個人伝道法が流行りました。「4つの法則」の一つ目は、「神はあなたを愛してる」、2つ目が「人は罪を犯した」、3つ目が「イエス・キリストは人を救うために十字架に架かり私たちの罪を赦してくださった」、そして4つ目が「信じる者は新しいいのちを得る」というものです。ところが、しばらくすると、これはちょっと日本には合わないぞと議論になりました。なぜでしょうか。それは、日本人は「神」と言われても、創造主なる神に直結しないからです。そこに「神は愛です」と始まっても理解できないと言うのです。パウロもまさに、その状況でした。そこで、これはいっそ回り道をしてこの神について説明しようということになったようです。
22節「アテネの人たち、あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ています」パウロはそう語り始めました。今までにはなかった切り口です。先ほどまでは、町が偶像でいっぱいなのを見て心に憤りを覚えていたのに、それをぐっとこらえて、アテネの人々に敬意を払いつつこう言うのです。相手が日本人だったらこんな感じでしょう。「みなさんは大変信心深いですね。朝にはまだ暗いうちから起きて、ご来光に手を合わせ、そして、自分たちがご飯を食べる前に、炊き立てのご飯をまずは、仏様に供え、1日の守りをご先祖様にお願いしてから始められる。いや、なんて信心深いのでしょう」という具合です。そしてパウロは続けます。「ギリシャの神々は本当に多いですね。道を歩いていたら、人よりも神さまたちに会うことの方が多かったですよ。まあ、感心して見ていましたら、その中に『知られていない神に』という神が祭られていました。」 アテネには3,000もの神々があると言われています。日本は八百万の神々ですから、勝ってますね(笑) ウィキペディアで「日本の神」と打ってみたら、出るわ出るわ、スクロールしてもスクロールしても後から後から出てきます。なぜこんなに神々がいるのでしょうか。それは日本には、生活の場や自然の中にも神々がおり、もしその神を無視したり、ないがしろにしたりしたら、祟られるという考えがあるからです。アテネの人々もそうでした。もしある神に関心を示さないとその神を怒らせてしまうと恐れていたのです。ですから、考えられる限りのあらゆる神々を祭り、最後は漏れのないように『知られていない神に』という神を祭り、そこに祭壇を築いて、お供えをしていたのです。パウロは、この祭壇を見つけたときに、「これだ!これを切り口に話ができる」と思いました。聖霊が働いて教えてくれたのでしょう。そして、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう!」と切り込んでいったのです。これは何も、アテネの人たちが無意識のうちに天地万物を創造された真の神を拝んでいたということではありません。そうではなく、この「知られざる神」は、人に関心を示されないからと怒って祟るようなそんな神ではなく、もっと大きな神なのだ。だから今、私はあなたがたにこの神を教えてあげましょう。信心深いというのはいいことです。でも信じる方向、対象が間違っていたら意味がないでしょう。さあ、私にその神を紹介させてください。
先々週にはストア派について説明しました。ストア派は、自然の中に神々が宿っているという考え方を持っているということでした。しかしパウロは言います。本当の神は、自然を造られた神なのだと。ですからクリスチャンは「自然」という言い方をしません。「自然」は自然でできたわけではないからです。私たちは「被造物」と呼ぶのです。そして神は「自立自存の神」です。誰に造られたわけでもなく、ご自分で存在し、何にも依存しない、自己充足している神であり、足らないものは何もないのです。交わりにおいてもそうです。神は私たち人間が必要だったから造ったわけではないのです。ご自分を満たすために、ご自分の欠けを補うために、愛されたくて、造られたわけではないのです。別に人間がその交わりに入らなくても、三位一体の神の交わりはそれだけで麗しく、完全で完結しています。それではなぜ人を造られたのでしょうか。それはあふれ出る神の愛と喜びを人に分かち合うためなのです。そのために「神はすべての人に、いのちと息と万物を与え」られたのです。全ての良きものは神から与えられたものなのです。
17:26 神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
エピクロス派という人々のことも話しました。彼らは「神は人間の世界には無関心な超越したお方」だと言っていました。けれども真の神は、人に無関心ではいられません。罪を犯し、堕落し、神から離れて自分勝手に生きようとする人を、それでも愛して、関わり、歴史に介入される神なのです。
28節で、パウロは二つのギリシャの詩を引用しています。ギリシャの詩にも通じているとは、さすが博学のパウロです。一つは「私たちは神の中に生き、動き、存在している」もう一つが「私たちもまた、その子孫である」という詩の一部です。ここで言う神は残念ながら、ゼウス神なのですが、でも非常にいいところまで来ていると思いませんか。人は神のかたちに造られていますから、いいところまで行くこともあるのです。27節では「もし人が手探りで求めることあれば、神を見出すこともあるでしょう」とあります。人は哲学や宗教を通して神を求めてきました。しかしこの「手探り」という言葉は、目の見えない人が壁伝いに歩く様を表しています。ですから、人が求めてもいつも的外れ、29節にあるように「金や銀や石、人間の技術や考えで造ったもの」にしかたどり着けないのです。そしてモーセが金の子牛を指さし、「さあ、これがあなたがたをエジプトの地から連れ上った神だ。」といったように、間違った対象を神とし、真の創造主、父である神に背を向け、偽物の父親に「お父ちゃん」と呼んで、祟りを恐れて、それに仕えているのです。
17:30 神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。
もう言い訳はできません。なぜなら、天からの直接の啓示であられるイエス・キリストが、すでに私たちに与えられたからです。もう真っ暗な中、手さぐりで神を捜し求めなくてもよいのです。人の側から神を求める時代は終わりました。光はもう与えられたのです。神の側から救いの道を用意してくださいました。そして今は悔い改めの時です。イエス・キリストは、私たちのために十字架で私たちの罪の罰を受けてくださり、救いの道を開いてくださいました。私たちが神からさばかれないためです。ですから私たちは、今まで間違った方向に救いを求めていたことを悔い改めて、神が与えてくださった救いを受け取りましょう。
こうしてパウロの説教は終わりました。いや、ひょっとしたらまだ続けたかったのかもしれません。けれども、32節にあるように「復活」の話しをしたら、聴衆がざわついて、もう話せなくなりました。「ある人はあざ笑い」他の人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と適当にあしらいました。こうしてパウロはそこにいられなくなり、アレオパゴスを出て行ったのです。
しかし、34節にあるように、「ある人々は彼につき従い、信仰に入った」とあります。なんとアレオパゴスの最高の権威者、裁判官、アテネの名士ディオヌシオが救われました。そしてダマリスという女性。名士に並べて紹介されているのできっと影響力のある女性だったのでしょう。そしてここアテネでも教会が誕生したのです。
17:27
それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
私たちの神は、人に見いだされる神です。昔、子どもが小さいころよくかくれんぼをしました。子どもと「かくれんぼ」をするときに、親はわざと見つけやすい所に隠れるものでしょう。そして、子どもが「お母さん、みーつけた!」と言うと、「あらら、みつかっちゃった~」と言って出て行くものです。子どもに見つけられるのが嬉しいのです。神は私たちに見つけられるのを待っています。いや、私たちはもうすでに神に見い出されているのです。この日本にも、私たちのまわりにも、偽りの神々を恐れ、不安と暗闇の中で、手探りで神を捜し求めている人々がたくさんいます。そんな人々に、あなたを造られた神がおります。あなたは愛されていますよ、もう救いの道は用意されているのですよ。あなたもすでに神に見いだされています。「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」どうぞそれに気づいてくださいと伝えていく者でありたいです。
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