「負い目をお赦しください」(マタイ6:12)
齋藤五十三
(招詞 コロサイ3章12~14節)
本日は、献堂記念礼拝の特別なプログラムですので、説教は短めに準備しました。短い時間で語れる内容ということで、私が東京基督教大学で、最近学生たちに語ったチャペルメッセージから分かち合うこととしました。主の祈りの学びからです。
一言お祈りします。
イエス・キリストの父であり、私たちの天の父となってくださった神さま、主の祈りに目を留める御言葉のときを感謝します。聖霊が豊かに私たちの心を照らし、福音に生きることを助けてくださいます。救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!
初めに主の祈りの全体をお読みします。マタイ6章9節から13節。
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
二つ目は、神の子どもとして、人を愛する者へと成長させてください、という人間関係に関する祈りです。本日目を留める12節が、それに相当します。そして三つめは、神の子どもとして、罪から守られ、信仰の生涯を全うできるように、という祈りです。それが最後の13節です。
本日は、私たちが人間関係において成長するための祈り、つまり12節の祈りに目を留めますが、そこでは自分の罪の赦しと、人の罪を赦すことが祈られています。 エッ、人間関係に関する祈りは、たったこれだけなのか、と思う方もあるでしょう。そうです。たったこれだけです。人間関係に関する祈りは。 でも、これは人間に対する深い洞察に基づいています。人間関係というものが、突き詰めれば、罪の問題、特に人を赦すことができるかどうかに集約されていくからです。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」
「負い目」とは借金です。しかも、神様に負い目を赦してくださいと祈っている。つまりこれは神に負っている借金ですから、意味するところは私たちの罪です。すべての罪は、神への借金に等しい。神だけがそれを赦すことができるのです。
この祈りは、日本語ですと二つの文章です。しかし、原文は一文で、前半、後半の間には切り離せない繋がりがあります。すなわち神に赦された私たちには、今度は人を赦す生き方が必要になってくる。この人を赦す生き方は、主の祈りの直後、14-15節で再確認されます。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」
1. 恵みの赦し
このように、自分が「神に赦されること」と「人を赦すこと」は繋がっています。そのため、ともすると、人を赦すことは、神に赦されるための条件なのだろうかと、感じる人も多いでしょう。自分が赦されるためには、まず人を赦さなければならないのかと。 でも、それは違います。神はいつも一方的な恵みで、赦しを求める私たちを赦すのです。 この辺、マタイの気配りは行き届いていて、この正確な意味がマタイ18章21節以下で、一枚の絵のように描かれています。 こういう話です。 ある王様の家来が莫大な借金を王様に負っている。家来はひれ伏して、「待ってください」とお願いする。かわいそうに思った王は、恵みで赦していくのです。借金は無かったことにしようと。 このように神は、項垂れて祈るものを、まず恵みで赦してくださる。私たちの神は、豊かな赦しの神です。だから私たちは祈ることが出来る。「私たちの負い目をお赦しください」と。
しかし、私たちは赦されて、「ああ良かった」だけでは終わらないのです。すぐに後半が続きます。「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」 このように、赦された人は、その後の生き方を問われます。
マタイ18章の家来は、莫大な借金を赦された後にどうしたでしょう。何と彼は、自分が仲間に貸していた、その仲間のわずかな借金を赦すことができなかったのです。そして仲間を牢屋にぶち込んでしまう。 そのことが王の耳にまで届いて最後は王の怒りを買い、この家来は結局、赦しを取り消されてしまうのです。 そう。赦された者は、その後の生き方をよく考える必要がある。
なぜでしょう。 私たちが赦されるためには、何と、神の子キリストの尊い命が犠牲になっているからです。尊い犠牲が払われて、それで私たちは赦されている。ですから、もし私たちが、赦された後の生き方を軽んじているとしたら、それは、御子キリストの尊い犠牲を軽んじることに等しい。流されたキリストの命の代価を、バナナの叩き売りのように、安っぽく扱うのと変わらないのです。そもそも私たちは、王の前にひれ伏すただの罪人でしかありませんでした。「赦してください」と祈る者は、そもそも高ぶることはできないし、ましてや他の人のことをさばくこともできないのです。
本日の説教をここまで聞いて、中には、「この祈りをもう祈れない」と、心が痛くなっている人もあるでしょう。私も、この辺りがズキズキと痛んでいます。「七回を七十倍」と言われて、無理だ、と感じてしまう。私たちが人を赦す、その赦しは不完全です。
でも、逆説的ですが、「祈れない」と感じる人は、実は、この祈りに招かれています。「祈れない」と感じる人は、自分の罪や弱さを正直に認めている人だからです。12節後半には、「負い目のある人たちを赦します」とありますね。 祈り手は、自信をもって、ドヤ顔でこれを祈るわけではないのです。この祈りは、自信満々に、自分はあの人を赦した、と言って、胸を張る人の祈りではない。 むしろ自分の罪を知って、深い痛みを覚えながらも、人を赦せるようにと祈っていく。これは、神の前に項垂れている人の祈りです。 私たちの神は、胸を打ち叩いて祈る、へりくだった罪人を赦す神。もし私たちが、胸を打ち叩きながら祈るなら、神は、私たちの罪を赦すとともに、人を赦せる者へと私たちを成長させてくださるでしょう。少しずつ、しかし確かに成長させてくださるでしょう。
主の祈りは、「祈り」です。私たちは、「人を赦しました」と胸を張って神の前に立つわけではない。私たちは、自分の赦しを願い、同時に人を赦す者へと成長させる神を信じて祈り、アーメンと言って結ぶのです。
「アーメン」の意味を教える、ハイデルベルク信仰問答129番が思い出しました。「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれている」。
心に痛みを感じる人は、どうか神の前に進み出てほしいと願います。御心にかなう祈りは聞かれます。この祈りの中で私たちは、私たちを赦し、神の子どもを育てる神の恵みを経験するようになるのです。お祈りします。
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