スキップしてメイン コンテンツに移動

アキラとプリスキラ(使徒の働き18:1~4)

アキラとプリスキラ

                               使徒の働き18:1~4

私たちは、台湾宣教師になる前、8年余り、新潟の亀田というところで牧会伝道していましたが、実はこの教会は、信徒伝道者、佐々木博氏が開拓した教会でした。佐々木さんは、1938年、東京に生まれました。高校生の時、人生の目的を求めてさまよっていた時、池袋の駅から見えた十字架に望みを託し、初めて訪れた教会でイエス・キリストと出会ったそうです。その後、ビジネスマンとして新潟の地に転勤になり、新潟福音教会に出席するようになりました。ところが、隣町の亀田にはまだ教会が無く、家庭集会があるだけだと知り、佐々木氏はその家庭集会に出席するようになり、やがては、新潟から亀田に引越してきてその家庭集会を引き継いだのでした。その後結婚された佐々木さんは、奥さんのかほる姉とともに、別のアパートに引越し、新居のアパートで家庭集会が続けられました。その時初めて「亀田キリスト教会」の看板を掲げたそうです。そして2年経った1965年(昭和40年)にプレハブの教会堂を建てました。5人のスタートでした。そして2年が経ったころ、再び関東に転勤になり、新しい牧師にバトンタッチして、亀田を後にしたのでした。宣教師が開拓し、日本人牧師に引き継ぐのがお決まりパターンだった中で、この信徒伝道師夫妻による開拓は目を見張るものがありました。今日の聖書箇所には、アキラとプリスキラが出てきますが、彼らはまさに信徒伝道者でした。そしてパウロを手伝って、コリント教会の基礎を築いたのです。 

さてパウロはアテネを後にしてコリントに到着しました。テモテとシラスとはまだ合流できていません。この「使徒の働き」を記したルカだけはいっしょにいたようです。コリントも大きな都市でした。ユダヤ人も多く住んでいたようで、ユダヤ人の会堂もありました。そして18章4節を見ると、パウロはここでも会堂を拠点に伝道活動をしています。

さて、このコリントの町ですが、他の町と同様、異教チックな名前でした。太陽神ヘリオスのひ孫にあたるマラトンの子がコリントスだったということで、その名にちなんでつけられたのです。またコリントは、人口60万人ですが、そのうちの40万人が奴隷だったといわれています。非常に繁栄した町でしたが、裕福だったのはほんの一握りの人で、それは多くの虐げられている人々の上に成り立ったものだったことが分かります。また道徳的にも非常に乱れており、「コリント風に生きる」と言えば、まさに「飲む、打つ、買う」の放縦な生き方を指します。

そんなコリントに宣教を目的に訪れたパウロですが、以前ピリピ教会から送られてきた献金も底を尽きて、懐具合も寒くなってきたところでした。しかし、主の山に備えあり、とはこう言うことでしょう。「ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会いました。二人も新参者で、その頃ちょうどローマから引っ越して来たようです。しかもパウロと同業者。天幕づくりの技術を持ち、それを生業(なりわい)としていました。そして何より信仰が一致しており、彼らも何とかして、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたいと祈っていたのでしょう。三人は意気投合し、力を合わせて、このコリントの地で伝道を始めたのです。

  ところでここに出てくるアキラとプリスキラですが、「使徒の働き」で3回。パウロの書いた手紙の中で3回、計6回登場します。そして、彼らの名前が出て来る時は、必ず二人そろって出てくるのです。しかも6回中4回は、プリスキラの方が前に書かれています。ふと、私は横田早紀恵さん夫婦のことを思い出しました。お嬢さんのめぐみさんが北朝鮮に拉致されて以来、あきらめずに救済活動を続けているご夫妻です。つい先日ご主人の滋さんが亡くなりました。私はあのお二人を思い浮かべる時、どうしても早紀恵さんの方を先に思い浮かべてしまいます。皆さんもそうではないでしょうか。早紀恵さんは、人の心を打つ何かを持っている方だなと思うのです。プリスキラもそんな感じだったのではないでしょうか。パウロや使徒の働きの記者ルカが二人を思い浮かべる時、まずはプリスキラが出てきたのでしょう。プリスキラというのは、実は愛称で、プリスカというのが正式な名前です。パウロはそのあたり距離感を保って、手紙ではプリスカと呼んでいますが、ルカなどは思わずプリスキラ、つまり「プリスカちゃん」と呼んでいますので、そんなところからも誰からも愛され、慕われ、頼りにされるそんなプリスキラの人となりが見えるような気もします。

 彼らは、1年半から2年、コリントでパウロと共に伝道の汗を流し、その後エペソにもパウロといっしょに行きます。そしてエペソ伝道が終わると、パウロは船でカイザリアに向かうのですが、プリスキラとアキラは、そのままエペソに残り、伝道を続けるのでした。もちろん天幕づくりをして生計を立てながらです。そして、実はそこでアポロという人に会い、彼にキリスト教の何たるか(教理)を整理して教え、後にアポロは、パウロに並ぶ大伝道者として活躍するのでした。そして二人は、最後は再びローマにもどり、キリスト教への迫害が厳しくなる中でローマにあったいくつかの家の教会を支え、導いて行くのです

 このようにパウロやアキラ、プリスキラのような働きながら伝道活動をする人々のことを、「テントメーキングエバンジェリスト」と言います。彼らが天幕(テント)を作って生計を立てながら伝道していたことに由来する言葉です。要するに信徒伝道者のことです。実は世界には多くのテントメーキングエバンジェリストがいます。宣教師という身分では入れない、ビザが下りない国がたくさんあるからです。また経済的事情もあるでしょう。彼らは、宣教に行くときには、ワーキングビザでその国に入り込み、仕事をしながら福音宣教をします。国内でも冒頭に紹介したような佐々木さんの例もあります。

 パウロは何も牧師も働くことを勧めているわけではありません。パウロはコリント人への手紙9章で、教会の働き人は、経済的に生活を支えられる権利があると言っています。けれどもここコリントでは、苦労して天幕作りの仕事をしながら、その働きで得た収入で生活しています。そして教会の人の世話を受けることを極力避けて、宣教に励みました。なぜでしょうか。それはコリントのよくない文化のためです。ギリシア文化圏の社会では、自由民は働きませんでした。働くのは、奴隷と商人だったのです。初めにお話したように、コリントの人口は60万人、奴隷が40万人というのはそう言うことなのです。ですから、パウロが働きながら宣教する姿は、自由民であるキリスト者からは、なかなか理解されず、かえって軽く見られました。だからこそ、パウロは、コリントの人々に働くことの大切さ、人を差別することの愚かしさを教えるために、働きながら宣教したのです。

  パウロは、ローマ人への手紙の最後のところで、プリスキラとアキラにもあいさつを送っています。「16:3 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。16:4 二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。16:5 また彼らの家の教会によろしく伝えてください。」このあいさつ文を見ても、パウロがどんなに二人を信頼し、彼らの存在にどんなに助けられ、力づけられていたかがわかります。そしてそれはパウロだけではない。異邦人のすべての教会も彼らに感謝をしているというのです。

  先週は、「2021ミッション千葉」が行われました。今回は千葉宣教区が協力して開拓した上総キリスト教会の10年を振り返るということがテーマだったのですが、その中で、開拓調査委員会経験者の佐伯功(いさお)兄(波崎キリスト教会)が証しされました。とてもよかったのでその一部をご紹介します。

「新たな教会を生み出すことを目的に教団の機構改革があり、宣教区制が導入されることになりました。2004年に施行が始まったのですが、同盟の理念にある合議制を施行するため牧師、信徒議員が対等な立場で討議と決議をするように求められました。多くの信徒議員が、信徒の立場で牧師と対等に意見なんて言えるわけがないと難色を示しました。そんな中二人の信徒議員が立ち上がり、『私たちは乏しい者ですが、これを主のみこころとしてとらえ、1年しっかりと選挙区制の学びに取り組みます。どうぞ見守ってください。』と発言されました。この意見に牧師、信徒議員の多くの賛同を得て、私たち千葉ブロックは千葉宣教区へと見事に舵を切って行ったのです。宣教区制への施行が始まると、開拓伝道への願いが再び語られるようになりました。そんな中、組織された各委員会の中に、新しい教会を生み出す働きのため、2006年開拓調査委員会が発足されました。委員会は牧師と信徒議員が同数です。」「宣教協力は同盟教団の三本柱の一つであり、教団、宣教区存立理念の中核をなすものであり、千葉開拓における理念として、最も意識、自覚されるべきことです。千葉宣教区内の教会は、開拓途上の教会が多く、潤沢な経済力があるわけではありませんが、各教会の自覚的な責任ある協力を結集して開拓を推進するものでありたいと思います。」

そうでした。同盟教団はスカンヂナビアン・アライアンス・ミッション(SAM)の15人の宣教師が横浜に上陸した1891年11月22日に始まります。男性6人、女性9人は、伝道のために献身し訓練を受けた信徒たちで、按手を受けていわゆる正式な牧師、宣教師だったのは2人だけでした。その信徒伝道者の伝統は今も引き継がれています。信徒が教会を生み出すことに参与していくこの同盟教団のあり方は、他の教団には類を見ない、素晴らしい特色だと私は思います。どうか皆さんも誇りを持ってください。そして、信徒として教会を建て上げる働きに加わっていただきたいと思います。牧師と信徒、私たちはONE TEAMなのです!



コメント

このブログの人気の投稿

ただ、神によって生まれた(ヨハネの福音書1:9~13)

「ただ、神によって生まれた」(ヨハネ 1:9 ~ 13 )   1.      期待と悲しみ  9~ 11 節(読む) ここを一読して思ったのは、アウトラインの見出しにもあるように「期待と悲しみ」でした。「期待」とは、「まことの光が、世に来ようとしていた」という、光のメッセージがもたらす期待感です。光が来ようとしている。この闇の世を照らすために。  今の世の中もそうですが、イエス・キリストが人となって世に来られた時代も、暗い時代でした。闇が世の中、そして人々の心を覆っていたのです。その闇は、人の力ではどうしようもないほどに暗く、深かった。 しかし、すべての人を照らすまことの光、すなわちイエス・キリストが世に来ようとしているという。これは、期待に胸が躍る知らせではありませんか。  今、私たちが開いている新約聖書は、分厚い旧約聖書に比べれば随分薄いのですが、それでも 5 19頁と、それなりのボリュームを持っています。 その新約聖書をギュッと濃縮して絞り出すと、その内容は、一つのメッセージに尽きると言われます。それは、まことの神が人となって私たちのところに来てくださった。新約聖書のメッセージは、この一言に尽きる。その人となられた神とは、イエス・キリストです。  続く 10 節には、イエス・キリストの多彩な素顔が描かれています。「この方はもとから世におられ」とありますね。この方はもとから、つまり歴史の初めから、この世界を見守り続けていたのでした。どうしてそんなことができるのか、、と思いますが、聖書はこう教えます。「世はこの方によって造られた」と。 そうです。まことの光、イエス・キリストは、神として、この世界を造り、見守り続けておられたのでした。 そして、そのお方が今度は、この世界に人となって、私たちに寄り添うために来ようとしている。  けれども、そこに「悲しい出来事」が起こったのです。「世はこの方を知らなかった」と。 イエス・キリストは世界を造り、そこに生きる人々を見守ってこられたのに、世は、この方を知らない。 悲しい一言です。  11 節はさらに続けます。 「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」 イエス・キリストはご自分のところ、言うなれば我が家に戻って来たのに、人々は迎え入れてはくれなかった。何と

7月16日主日礼拝

兄息子への愛                                         日 時:2023年7月16日(日)10:30                場 所:新船橋キリスト教会                                         聖 書:ルカの福音書15章25~32節   1 ルカの福音書15章について  ルカの福音書15章では、イエスさまが3つのたとえをお話しになります。そのうちの3番目に「2人の息子のたとえ」があります。今日は、兄息子のたとえを中心にお読みいたします。  イエスさまが3つのたとえをお話しすることになったきっかけが15章1節から3節に書かれています。取税人たちや罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスの近くにやってきました。その様子を見ていた、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスを批判します。「この人、イエスは罪人を受け入れて一緒に食事をしている」と。そこで、イエスはパリサイ人たちや律法学者たちに3つのたとえ話をしたのです。  その結論は、最後の32節に書かれています。   「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 イエスさまが3つのたとえをとおしてお語りになりたかったのは、「取税人や罪人がイエスのもとにきたことを喜び祝うのは当然ではないか。」ということです。1番目のたとえでは、失われた羊、2番目のたとえでは失われた銀貨が見つかりました。3番目のたとえでは、弟が死んでいたのに生き返りました。大いに喜ぶのは当然です。イエスさまは、3つのたとえを用いて、神さまから離れてしまった魂、すなわち、取税人や罪人が神さまのもとに帰ってくることの喜びがいかに大きいかをパリサイ人や律法学者に伝えることで、彼らの批判に答えたのです。 2 兄息子の不満   さて、3番目のたとえでは、前の2つのたとえとは違うところがあります。それは、25節から32節に書かれている兄息子の存在です。兄息子は、いつも父親に仕えていました。弟が帰ってきたその日も畑にいました。一生懸命に仕事をしていたのでしょう。ところが、兄息子が家に帰ってきますと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。なんと、弟が帰ってきたというの
  闇から光に! 使徒の働き26:13~18 パウロの回心の記事は、使徒の働きで3回出てきます。前回は9章と22章でした。この3つの記事は、全く同じというわけではなく、それぞれ特徴があり、強調点があります。例えば、前のパウロの回心の記事では、アナニアが登場し、アナニアを通してパウロに神からの召しと使命が告げられたことになっていますが、今回、アナニアは登場しません。そして復活のイエスさまご自身が、パウロに直接語りかけ、福音宣教の使命を与えられたということが強調されています。今日は、私たちもイエスさまの直接的な語りかけを聞いていきたいと思います。12~13節をお読みいたします。   このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。   パウロは、祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコに向かい、クリスチャンたちを迫害しようとしていたとあります。昔、「親分はイエス様」という映画がありました。やくざだった人が救われて、人生の親分が、組長からイエスさまに変わったという映画です。パウロも、ダマスコに向かう時には、祭司長たちから権限と委任を受けていたのですが、ダマスコ途上で救われて、親分が変わりました。イエスさまが、彼の親分になり、パウロに権限と委任を与えるお方になったのです。 さて、パウロがダマスコに向かう途中に、天からの光を見ました。私はパレスチナには行ったことがありませんが、インターネットで調べてみると、雨季と乾季があり、乾季の時には、昼間は灼熱の太陽が照り付け、非常に乾燥しているとありました。今、日本は真夏で、太陽がぎらぎらと照り付けていますが、「真昼に天からの光」と聞いて皆さんどう思うでしょうか?しかもそれは太陽よりも明るく輝いて、パウロと同行者たちの周りを照らしたというのです。想像を絶する明るさ、輝きです。そうでした。神は天地創造の初めに、「光よ、あれ!」とおっしゃったお方でした。第一ヨハネの1章5節では、「神は光であり、神には闇が全くない」とあります。神は光そのものです。全き光である神を前に、人は立っていられるでしょうか。罪や汚れを持つ人間が、一点の影も曇りもない神の前に立ちおおせる