スキップしてメイン コンテンツに移動

ことば(光)は闇の中に(ヨハネの福音書1:1〜5)

「ことば(光)は闇の中に」(ヨハネ1:1-5
齋藤五十三師

 本日から教会の暦は、クリスマスを待ち望む四週のアドベント(日本語では待降節)に入ります。この季節を意識しながら、この朝はヨハネ福音書1章の御言葉に聴いていきます。

 お祈りします。

天の父なる神様、御名があがめられますように。神の国が来ますように。キリストの誕生を待ち望む季節の中で、私たちは今日も、生ける御言葉に聴いていきます。どうか聖霊の導きの中で、人を生かす命の光を今日も見出すことができますように。救い主、キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン!

 1.    初めに

 1節「初めにことばがあった。」

 ここを一読して、皆さん何を思われたでしょう。多くの方々がおそらく、聖書の一番初め、創世記1章1節と似ているな、とお感じになったのではないかと思います。 そうです。「はじめに神が天と地を創造された。」「初めにことばがあった。」 このように創世記1章も、ヨハネ1章も、ともに世界の初めから書き始めていくのです。

 キリストの生涯を描く福音書は、全部で四巻あります。読み比べるとそれぞれに特色のある書き方をしてますね。マタイ福音書は、イエス・キリストの系図、つまり名前の羅列から始まっていく。マルコ福音書は、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と切り出し、キリストの公の生涯にフォーカスしていくのです。ルカ福音書はどうでしたか。ルカはクリスマスの前のストーリー、ザカリヤ、エリサベツという老夫婦に子どもが与えられる、印象深い話から書き始めていきます。

 このように福音書の書き出しにはそれぞれ特色があるのですが、最も独特なのがこのヨハネ福音書です。何と世界の始まりから筆を起こしていく。 ヨハネはそうやって、世界の初め、つまり世界の根源まで遡りながら、大事な問いを投げかけていくのです。 この世界とはいったい何であるのか。人とはどのような存在か。そしてこの世界が新しく変えられるには、何が必要か、いや、もっと正確に言えば、「だれが」必要か。 ヨハネはこうした、物事の根源を問うような深いアプローチで書き始めていくのです。

2.「ことば」というお方

 「初めにことばがあった。」この書き出しを最初に読んだ時、皆さんはきっと一つの疑問を持ったのではなかったですか。この「ことば」とは何か。いや、もっと正確に言えば、「ことば」とは誰か。皆さんもお考えになったことがあるでしょう。

 この「ことば」は、「すべてのもの」を造られたとありますし、しかも、この「ことば」にはいのちがあったそうですから、これは私たちの口から普段発せられているような、普通の言葉ではありません。この「ことば」は「お方」です。ご人格をお持ちなのです。「ことば」と呼ばれるお方に、人格がある。実はこういう表現は、旧約聖書の中にも見られるのです。

 例を挙げればキリがないのですが、特に印象深いイザヤ書から。5511節には、神が語られたこういう御言葉があるのです。10節から読みます。「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。 (次です) そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰ってくることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」  雨や雪は、天から降ると潤いとなり、地に実りをもたらす。 それと同じように、神の言葉は、神の口から発せられると、神が願うことを成し遂げ、成功させるのだという。 一読してわかるように、これは普通の言葉ではありません。「ことば」自らが神の御業を行い、成し遂げる。そう、つまり生きているのです。4節が語るように、この「ことば」にはいのちがあるのです。しかも、この「ことば」は生きて働き、神を証しするのです。 皆さんもうお分かりでしょう。この「ことば」はイエス・キリストです。この後の1章18節には、「ひとり子の神(つまりキリスト)が、神を解き明かされた」とありますが、この「ことば」は、神を示し、神の御心を行うお方。そのため別名、「生ける御言葉」とも呼ばれてきました。

 1章1節には、「ことばは神であった」とあります。生ける御言葉は、父なる神を示すお方ですが、同時にご自身も神でした。 実は、キリスト教の歴史の中には、この生ける御言葉は、少し劣った神であった、との異端的な考え方が出てきたことが何度もありました。今もあります。 しかし、原文を注意深く読むと分かるのですが、ここはギリシャ語の強調になっていて、「ことばこそは神であった」と、父と等しい、紛れもない神であったことを明確に語っているのです。その証拠に、3節を読むとどうですか。この生ける御言葉は、すべてのものを創造した、造り主でもあったのです。父なる神の御業に加わって、ともにこの世界を創造してくださった。 だから、すべての造られたものが、この生ける御言葉によって生かされ、命を得ているのです。

 どうでしょう。このように読んでくると、生ける御言葉、キリストというお方のスケールの大きさに圧倒されるのです。「知らなかった!」と。 キリストはこんなにもスケールの大きなお方であったのか、と。考えたこともなかったと、そんな印象を抱く方もあるかもしれません。 でも、キリストが世界を創造したということは、新約聖書の他の箇所でも言われているのです。中でもコロサイ1章16節は有名です。「万物は御子によって造られ、御子のために造られました」と使徒パウロは言うのです。

 そうです。生ける御言葉は、この世界を創造された。 だから命の源でもあるのです。4節「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 世界中の生きとし生ける物のいのちは、すべて、造り主キリストのいのちから始まっていきます。しかもこのお方、命を造っただけでなく、その造った命と関わり続け、そこに光を灯していくのです。「このいのちは人の光であった」とある通りです。 生ける御言葉は、ご自分が創造した人と関わり続け、人々に光を与え続ける。 このお方は、造った後、造りっぱなしで放っておくお方ではなかったのです。心のこもった造り主とは、このようなお方だと思います。

 それは私たちの間でもそうですね。本当に草花を愛する人は、花が咲いたあとも、まるで我が子のように手をかけ続けるでしょう。 心を込めて家を建てる大工さんもそうです。建てた家の補修、メンテナンスに丁寧に対応する大工さんは、本物の物づくりだと思います。 そしてそのように、キリストのまた、ご自分が造られた最高の作品に心を注いで、光を示し続ける。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」とある通りです。 

3.光は闇の中に

 ところが、ところが、、でした。その世界に悲しい変化が起こったのです。ある時から世界は闇に覆われるようになってしまった。 いったい何が起こったのですか。闇はどこから来たのですか。  福音書を記したヨハネは、この点で寡黙です。多くを語ろうとはしない。 しかし、ヨハネ福音書において闇は「悪しき罪の力」を表す言葉なのです。それでは、闇はどこから来たのでしょう。 そうです。人が神に逆らい、罪を犯してしまったのでした。それで世界は変わり、闇に覆われるようになった。人間の堕落、と呼ばれる出来事です。1章5節が描くのは、実は堕落後の世界なのです。

 ご自分が心を込めて、愛をこめて造った世界が闇に覆われてしまった。 そんな世界の変わりように、生ける御言葉は何を思われたでしょうか。生ける御言葉がいったい何を思ったか。 聖書は多くを語りませんが、ヒントが一つあるのです。それはヨハネ11章の記す、主イエスの友人ラザロの出来事です。ラザロが死んで、彼の姉妹のマリヤ、またその周りの人々も皆泣いていたのです。罪が世に入り、闇となった世界では、人はやがて悲しい死を迎えねばならない。この現実に主イエスは「霊に憤りを覚え」ました。そして心を騒がせながら、35節はこう記します。「イエスは涙を流された」と。

 ご自分が造られた世界が闇に覆われてしまった。 その世界を見つめた時の、生ける御言葉の思いも同じだったと信じます。 この闇に覆われた世界にあって、多くの人が苦しみ悲しみ、涙している。それほどに闇は深く大きくて、すべてを吞み込み、まるで光が一切消えてしまったかのようでした。 今のコロナ禍の世界で、私たちも同じことを感じているのではないですか。この世の闇は深い。まるで神がおられないかのように。

 しかし、しかし、です。 その闇の中にも希望がある。 5節「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」 光は失われることなく、輝き続けていたのでした。それは小さな光であったかもしれない。しかし、それでも決して闇に呑み込まれることはなかったのです。小さいけれど、確かな揺るがぬ光。 そうです。生ける御言葉が、自ら光となったのでした。世界の初めからおられた「ことば」が、光となって、闇の中に輝き続けていたのです。 

 今日は、ヨハネ1章の書き出しという、印象深い箇所を思いめぐらしています。ここでさらに深く思いめぐらすため、1章1節の日本語聖書の歴史に少し触れたいと思います。皆さんは、明治初めの宣教師で、ヘボン式のローマ字で知られるヘボン博士をご存じでしょうか。彼はローマ字を広めた他、東京港区の明治学院大学を創設したことでも知られています。 ヘボン博士の初来日は、江戸時代の終わり、1859年でした。その時ヘボンはヨハネ福音書の日本語訳聖書を携えてきたのです。その翻訳はギュツラフ訳と言って、ドイツ生まれの宣教師ギュツラフという人が訳した聖書です。ヨハネ福音書とヨハネの手紙第一だけですが、日本語で最も古い翻訳聖書です。

 このギュツラフ訳、ヘボンが来る23年前にすでに完成していたのですが、宣教師ギュツラフを助けた三人の日本人がいたことは、あまり知られていません。 作家の三浦綾子さんが、ギュツラフ訳誕生を助けた、もと船乗りの三人、岩吉、久吉、音吉の三名を紹介しようと、「海嶺」という小説を書きました。映画にもなりましたね。

 時は1832年10月、江戸幕府にまだ力があった頃です。この三人は、お米を船で江戸に運ぶ途中に嵐で遭難。何とそのまま14か月も太平洋を漂流し、最後にアメリカ西海岸に漂着するのです。その後、囚われの身になったり解放されたりと、数奇な人生を辿りながら、やがてイギリスに渡り、最後にアジアのマカオにやってくる。そこで日本に福音を届けたいと願う宣教師ギュツラフと出会い、日本語を教えて、翻訳を手伝いました。そうやって生まれたのがギュツラフ訳聖書です。

 そのギュツラフ訳、ヨハネ1章1節の翻訳の際に、ずいぶんと苦労したようです。この御言葉の意味するところを宣教師が岩吉、久吉、音吉の三人に説明し、ああでもない、こうでもないと議論を重ねたのでしょう。そして、最後にたどり着いた1章1節の訳文がこれでした。「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル(繰り返し)」。生ける御言葉を、「カシコイモノ」賢きお方、と訳した。「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」。 この訳文はなかなかの名訳だと私は思っています。それから23年後、この聖書をヘボンが携えて来日、プロテスタントの歴史がそこから始まっていったことに、神の御業の不思議を思わずにはいられません。 

結び

 生ける御言葉は、まことに賢きお方でした。このお方は、闇で覆われた世界に光を灯してくださった。そして、灯すだけでなく、世にくだり、この世を救おうとしたのです。9節「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」 何と賢きお方でしょう!

 アドベントは、この生ける御言葉、賢きお方を迎える心備えの四週間です。祈りつつ、御言葉を思いめぐらしつつ、生ける御言葉を迎える準備にいそしみたいと思います。お祈りします。 

1、5節(読む)

天の父なる神さま、感謝します。どうかこの生ける御言葉を私たちの内に、この教会の内に住まわせ、この地域にあって、この光を掲げながら、このお方にこそ希望があることを私たちが語り続けることができますように。生ける御言葉、闇に輝く光、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン!


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

飼葉桶に生まれたキリスト(ルカの福音書2:1~7)

「飼葉桶に生まれたキリスト」(ルカ 2:1-7 ) 齋藤五十三 1.     ローマの平和の中で 6-7 節(読む)  今お読みした二節は待ちに待った救い主がちょうど生まれた場面なのに、拍子抜けするほどにあっさりしています。取り分け、この誕生前後のストーリーが華やかでしたから、なおのこと奇妙な感じなのです。このすぐ前のルカ1章には、何が描かれていましたか。そこには有名な絵画にもなった処女マリアへの受胎告知がありました。「マリア。あなたは神から恵みを受けたのです」と語る御使いの姿は、実に印象深いものでした。その他にも1章にはマリアの歌があり、ザカリアの預言ありと絵になる光景の連続なのですが、いざ、イエスさまの誕生となったら、実にあっさりとわずか二節。まるで華やかな前奏を聞いた後、いざメロディーに入ると、わずか二章節で終わってしまうかのような肩透かしです。  でも冷静に考えれば、救い主誕生に華やかな期待を抱いていたのは、聖書を読んでいる私たちだけなのかもしれません。世界はローマを中心に動いている時代です。ひとたび皇帝の勅令が出ると、すぐにローマ世界の民が一気に大移動していく。そんな騒がしさの中、救い主の誕生はすっかりかすんでしまうのです。そう、イエスさまの誕生は歴史の片隅でひっそりと起こった、まことに小さな出来事であったのでした。  しかも、生まれた場所が場所です。ギリシア語の原文を見れば、ここで言う宿屋は最低限の安宿で、そこにすら場所がなく、我らが救い主は何と飼葉桶に生まれていく。謙遜と言えば聞こえはいいですが、これは何とも寂しい、惨めな誕生でもあったのです。  それに比べて、圧倒されるのが皇帝アウグストゥスの力です。この時代はローマの平和(ラテン語ではパクスロマーナ)と呼ばれるローマの武力による平和が約 200 年続いた時代でした。平和でしたから人々の大移動が可能で、ひとたび皇帝が声を上げれば、多くの民が一斉に動いていく。パクスロマーナは、この皇帝の絶大な権力に支えられていたのです。  住民登録による人口調査は納税額を調べ、国家予算の算盤をはじくためであったと言います。いつの時代も権力者が考えることは同じです。日本では大昔、太閤検地と言って、豊臣秀吉が大勢の人々を動かし、いくら租税を取れるかと算盤をはじいた...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...