「ある夜の幻」
使徒の働き18:5~11
さてパウロは、コリントで天幕づくりの同業者であり、福音宣教においては同労者であるアキラとプリスキラと一緒に、働きながら宣教活動をしていました。伝道の拠点はユダヤ人の会堂です。そこで語ったことは、「イエスこそキリスト」というこの一点でした。後にパウロが当時のことを振り返って書いた手紙には、こうあります。Ⅰコリント2章1-2節「兄弟たち、私があなたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけれたキリストの他には、何も知るまいと決心していたからです」ユダヤ教界のサラブレッド、博学なパウロでしたが、彼はひたすらイエス・キリストの十字架と復活、そしてイエスこそキリスト、救い主だと、それだけを伝えたのです。
そしてそうこうしているうちに、シラスとテモテがコリントにやって来ました。やっと合流できたのです。マケドニアのベレアで二人と別れてから、ずいぶん月日が経っていました。その間パウロは孤軍奮闘でした。アテネのアレオパゴスの法廷で、大胆に福音を宣べ伝えるも、復活のくだりに来て、人々にそっぽを向かれ、わずかばかりの回心者を得ただけでアテネを去ることになったのです。そんな時を経て、二人にあったパウロは、どんなに嬉しく、心強く思ったことでしょうか。しかも、どうやら二人はマケドニア地方の教会から献金を預かって来ていたようです。太っ腹の女性実業家リディアのいるピリピ教会からでしょうか。(Ⅱコリント11:9)とにかくそのおかげで、パウロは天幕づくりのお仕事はお休みして、フルタイムで福音宣教のために働くことができたのです。
この言葉で思い出す場面がないでしょうか。そうです。イエスさまが十字架に架かる前の裁判です。ピラトは、「このお方には罪を見出せない」とユダヤ人に何度も言いましたが、もともと公正な裁判など求めていない彼らは、ひたすら「イエスを十字架につけろ!」と訴えるのでした。その勢いは、当時の占領国ローマの権威者であるピラトでさえもひるませるものだったのです。ピラトは群集に言います。「この人の血について、私には責任がない」この件については、私は言うべきことは言った。だから私は潔白だ。責任がない。という意味です。それに対してユダヤ人たちは言いました。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」と。福音を伝えなければ、それは私たち先に救われたクリスチャンの責任です。けれども何度伝えても、チャンスを与えても拒絶するなら、それはその人の責任です。神の愛は無限ですが、私たちに与えられている時間は有限です。チャンスもいつまでもあるわけではありません。パウロは衣のちりを振り払ったとあります。これは、本来ユダヤ人が異邦人に対してする行為でした。しかし今、ユダヤ人が神の救いから振り払われました。そしてパウロは言います。「今から私は異邦人のところに行く!」
こうしてパウロは会堂を後にしました。そして向かったところ、それが会堂の隣というのが面白いです。神の祝福も隣に移されました。会堂はもはや、もぬけの殻です。人々は相変わらずそこで礼拝をささげげていたかもしれない。聖書も朗読されていたかもしれない。けれどもイエスさま不在の会堂はただの建物です。福音の語られない会堂でなされる礼拝は空しいです。礼拝の受け取り手がいないからです。イエスさまは、会堂にはもういらっしゃいません。隣の民家にいらっしゃいました。そこはティオティオ・ユストという名のローマ人の家でした。彼は、パウロが語るメッセージで救われた人でした。そしてこれ以降、パウロの語る福音に耳を傾ける人々は、会堂ではなく、この家に集まりました。そしてこれまた面白いことに、この会堂の管理をしていた会堂司クリスポまでもが、救われて、会堂を後にし、隣家に集うようになってしまったのです。私たちも気を付けなければいけません。イエスさまのいない教会は、福音の語られない教会は、存在意味がありません。そこでささげられる礼拝は空しいです。反対にイエスさまのおられる教会は、そして福音が語られる教会は、必ず祝福されます。そしてぞくぞくと人々が集まります。信じましょう。
そんなパウロはある夜、幻を見ました。そこで主が直接彼に語られたのです。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
この幻で、主はまずは3つの命令を与えます。一つは恐れるな。二つ目が語り継げよ。そして三つ目が黙ってはいけないです。落ちこんでいるパウロにいきなり命令ですか?彼にさらにプレッシャーを与えるのですかと思うでしょうか。「もういいよ、やめてもいいんだよ。ちょっと休んでまた始めればいい」とは主はおっしゃりませんでした。今までしていたように、語り続けなさいとおっしゃるのです。しかし大丈夫です。神さまの命令にはちゃんとした後ろ盾、保証があるからです。
一つは神がともにおられるということです。この「わたしがあなたとともにおられる」という神の語りかけは、旧約聖書では、神に召された者への神の保証として語られます。イスラエルの民を連れてエジプトを出て約束の地カナンを目指せという使命を与えたモーセに神は、「わたしがあなたとともにいる」と保証し、背中を押しました。その他にもアブラハムやイサク、また預言者イザヤ、エレミヤを召したときにも、やはり同じ語りかけをしています。神がいっしょにいる。それはもう、必ずあなたに与えた使命を成し遂げさせてくださるという確固たる保証でした。彼に与えられた使命はすでに果たされたと同じ事なのです。
二つめは、「あなたを襲って危害を加える者はいない」ということです。パウロを口汚くののしったユダヤ人の隣家で活動していたにも関わらず、彼らはパウロに何も手出しはできなかったのです。それは12節以下を見たらわかります。それどころか今までで一番長く滞在することができました。11節には、「パウロは一年六か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた」とあります。
そして三つめは、「この町にはわたしの民がたくさんいるから」だというのです。ここで使われている「わたしの民」という言葉は、神の選びの民、イスラエルを指します。ユダヤ人はイエスを拒絶しましたが、異邦人たちがイエスを受け入れました。そして主は、「イエスを拒んだユダヤ人ではなく、イエスを受け入れたこの民こそ、真のイスラエルなのだ、新しい神の民なのだ」と言われたのです。「だからパウロよ、がっかりしなくていい。おまえの愛する同胞はここにいるのだよ」と。「わたしの民」はこの町にたくさんいるのだから、さあ、続けて福音を語り続けなさい。さらに神の民を発掘しなさいと言われたのです。
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