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ことばは人となって(ヨハネの福音書1:14〜18)

「ことばは人となって」
ヨハネの福音書1:14~18

ヨハネの福音書の構成は大変ユニークで、他の共感福音書は、たいていイエスさまのなさったこと、語ったことを紹介しながら最後に、「ほら、このお方は本当に神の御子、救い主でしょ!」となるのに、ヨハネの福音書は初めから、どこを切っても「御子イエス・キリストは救い主です。さあ、これを受け取りなさい!」と迫って来る印象を受けるのです。また、この1章では、バプテスマのヨハネの出現と彼の証しについて語ろうとするのですが、記者ヨハネは、その証しの内容について語り始めてしまい、ついついそこに力が入ってしまい、ボリュームたっぷりに語られることになります。今日の箇所にある19節でも、「さて話は戻って…」とバプテスマのヨハネに話しを戻しています。15節「ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」」あれ?と思われた方もおられるでしょう。バプテスマのヨハネはイエスさまより、6カ月先に生まれています。ヨハネが「私より先におられた」というのはどういうことなのでしょう。それは先の2回のメッセージを聞いておられる方はもうおわかりでしょう。そうです。イエスさまは永遠のはじめから神と共におられ、神と共に世界を創造されたと私たちは学んできました。また、御子を通しての救いのご計画は、旧約聖書の時代からずっとあって、そこに向かって進められてきましたから、ヨハネはここで「わたしより先におられた方」と言っているのです。

 

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

「ことば」とは、永遠のはじめからおられた三位一体の神の一つの位格、創造のわざに参与されたそのお方です。その神が「人となった」とあるので驚きです。そうは言っても私たち日本人の神観は、「あそこにもここにも神がいる」という汎神論的な神観なので、この「神が人となられた」ということへの驚きや感動が少ないのが残念です。みなさん、これはすごいことなのです。これを神学用語で「受肉」と言います。実際この「人となって」のところを直訳すると「肉(肉体)をとって」という意味になります。その時に注意しなくてはいけないのは、この受肉というのは、神が神であることをやめて人になったとか、神性と人性が混ざり合ったとか、一方が一方より優位であるとか、そのようなことはないということです。イエスさまは、神100%のまま、人100%であられたのです。つまりどういうことでしょうか。神としてのあらゆる属性、全知全能や完全な聖さと愛を持ちつつ、完全な人となったということです。人として母の胎に宿り、産まれ、知性と身体において成長し、空腹や渇きを覚え、疲れを覚え、苦痛を感じ、時には涙し、喜び、怒り、憐れみ、試練に遭い、意志を持って神に服従し、最後は死んだのです。ただ一点、罪を犯さなかったこと以外は、まったくの人間になってくださいました。

次に「ことば」は「私たちの間に住まわれた」とあります。この「住まわれた」は「天幕(テント)を張る」というのが直訳です。天幕と聞くと、旧約聖書の出エジプト記に出て来る「幕屋」を連想します。神はエジプトで奴隷とされ、苦しんでいたイスラエルの民を救い出し、40年もの間彼らの旅を守り、導きました。神はイスラエルの民に幕屋(テント)を作るように命じました。そしてこう言っています。出エジプト記25:8「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」事実神は、イスラエルのただ中に住まれ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導き、昼も夜もずっと共におられたのです。神であるイエスさまも、人の間に住まわれました。人を罪から救うには、誰かが代表選手となって、人としての生涯を全く罪を犯すことなく生ききる必要があったからです。

今は亡き台湾宣教師だった寺田シマ子先生は、「住むことが宣教」という明言を残されました。そこに住んで同じお米を食べ、同じ水を飲み、そこで働き、生活する中で、はじめてそこに住む人々を理解し、共感し、ことばが通じるようになる、心通じ合う経験をするというのです。それは「神が人となって私たちの間に住まわれた」ということに通じるものがあるのかもしれません。

 

さて、神が人となって私たちの間に住まわれることによって、私たちはこの方の栄光を見た。とあります。さらっと書いてありますが、これもまたすごいことなのです。18節にも「未だかつて神を見た者はいない」とあるように、旧約の時代、神を見るなんてことはあり得ませんでした。私たち罪人が神を見ると、その圧倒的な聖さの前に、死ぬと言われていたからです。私たち人間には神を見る権利も、資格もなかったということです。ところがヨハネは、「私たちはこの方栄光を見た!」と言っています。「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」です。なぜ私たちは神の栄光を見ることができたのでしょう。それは、神が人となってくださったからです。神が神のままなら、私たちは絶対に神を見ることはできないし、神の栄光を拝することはできないのです。でも神は人となり、しかも赤ちゃんとなり、それも家畜小屋で産まれてくださいました。誰でも会いに行けるように。社会の底辺にいる羊飼いたちだって、着の身着のまま会いに行けるように、イエスさまは栄光の姿を隠して、人となってくださったのです。

「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。この恵みとまことという組み合わせは、新約聖書ではこことあと一回17節にしか出てきません。あとはすべて旧約聖書で使われているのです。「恵みとまこと」それは、父なる神さまの代表的な属性、ご性質です。18節にある「神を説き明かされた」というのは、この神の属性「恵みとまこと」がイエスさまを通して見えるようになり、説き明かされたということに他ならないのです。イエスさまは永遠のはじめから父なる神と共におられ、親密に結びついており、すべての点で神と等しいお方だからそれができるのです。こうして私たちはイエスさまを通して神の栄光を見、そしてイエスさまを通して、神の恵みとまことを見ることができました。

 

1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

神はモーセを通して人々に律法を与えました。それは何も旧約の神さまは意地悪で、人々に守ることのできないような規則を与えて、それが守れないからと言って罰そうとしておられるわけではありません。人は罪を犯します。けれども律法という規範がなければ、私たちは自分の罪に気付くこともできません。罪を測る物差しがないからです。私たちは物差しを当てられて、はじめて、ああ、自分は神の基準から外れている、自分は罪人だと気付くのです。そして神は、罪に気付かせるだけでなく、その罪の解決方法まで用意されたのです。犠牲の動物に自分の罪を負わせ、それを神に捧げて贖うことによって、罪を赦すと約束してくださったのです。実はこれが、最終的には、完全な犠牲、イエス・キリストの十字架の贖いのひな型だったわけです。旧約の律法にしても、その行為自体に効力があるわけではありません。結局は神の愛と憐れみと、そこにかける人の信仰によって、神がそれを罪の赦しに有効だと認めてくださるだけなのです。

そして今、神が人に与えた律法とは比べ物にならないぐらい、完全な救いの道が与えられました。イエス・キリストにおいて、救いが実現したのです。これが「律法」に対して「福音」と呼ばれるものです。イエスさまが私たちのたちのために十字架に架かって死んでくださることにより、その流された尊き血潮によって、私たちの罪は贖われ、イエスさまが3日後によみがえってくださったことによって、私たちに新しいいのちがもたらされたのです。かつての律法を守ることによって与えられる救いとは、比べ物にならないぐらい完璧な救いの道です。

 

三位一体の神さまは、また神の恵みは、永遠の初めからありました。でもそれは私たち罪人にとってあまりに遠く、あまりに高く、あまりに聖かった。ですから見たら死んでしまうと言われる神の前に、私たちはただ顔を伏せることしかできなかったのです。けれども2000年前、神は人となって、私たちの間に住んでくださいました。そしてその当時の人々は、イエスさまを見て、触れ、感じ、声を聞きくことができました。そしてそれを聖書を通して証ししています。こうしてイエスさまが昇天された後の私たちは、聖書を通して、また聖霊を通して、同じようにイエスさまを見て、感じて、御声を聴くことができるのです。見たら死ぬと言われたこの神に近づくことが許されました。それどころか神と親しく交わることができるのです。このお方は恵みとまことに満ちておられる神ですから、あらゆる良きものを無尽蔵に持っていらっしゃいます。そして私たちが、イエスさまの御名によって、それを願い求めるなら、何でも与えて下さるのです。愛がないですか?愛せない人がいますか?どうぞ主に求めてください。知恵に欠けていますか?主に求めてください。きよい生活を送りたいですか、離れたい罪の習慣がありますか?主に求めてください。平和が欲しいですか?主に求めてください。心を強くしたいですか?主に求めてください。


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