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まことの光(ヨハネの福音書1:9〜13)

「まことの光」
ヨハネの福音書1:9~13

先週は、五十三先生がヨハネの福音書1章1節から5節までみことばを紐解いてくださり、生けるみことばであり、私たちと関わってくださる人格としてのいのちの源、イエス・キリストについて語られました。ヨハネの福音書の書かれた目的ははっきりしています。20章31節にある通り、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」です。ヨハネはこの目的に向かって、出だしからいきなり攻めて来る、そんな直球勝負を感じる出だしでした。

続いて、今日は読みませんでしたが、6節から8節まではバプテスマのヨハネのことが書かれています。彼は光であるイエス・キリストを証しするために神から遣わされました。この「証しする」という言葉は、特にヨハネの福音書においては、「証拠・根拠」という意味で使われるそうです。しかもこの「証し」は単に、事実を述べるというだけでなく、証拠を突きつけ、「さあ、これが証拠だ!信じるのか?信じないのか?」そう聴く者に決断を迫ってくるような「証し」だと言うのです。ですから、イエスさまの先駆けとして現れたバプテスマのヨハネの出現は、当時の人々に少なからず衝撃を与えたようです。当時の一般の歴史書では、イエスさまの誕生の記事はほとんどないのですが、バプテスマのヨハネについてはいくつかの書物で取り上げられているらしいです。このように彼は、非常にインパクトのある人物ですが、この福音書の記者は、彼は光ではないと、ただ光について証しをするために来たのだと強調します。こうして、スポットライトは、バプテスマのヨハネから、光そのものであるイエス・キリストに移っていくのでした。 

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 

このすべての人とは、‘Anyone’つまりすべての国、すべての民族、すべての原語を持つ人々のことを表しています。まことの光が全ての人を照らすために、今まさに、世に来ようとしていた。「まことの光」と言うからには、偽物の光、見せかけの光もあるわけです。人は誰しも光を求めています。誰も暗闇にいたくありません。暗闇は怖いですし、寂しいです。けれどもなぜか「まことの光」に向き合おうとはしません。なぜでしょうか。自分の心の闇が、罪があぶり出されるからです。暗闇にはいたくない、でもまことの光には向き合いたくない。この矛盾を解決するために人は何をするのでしょう。自分で光を作り始めるのです。自分の暗い人生を照らしてくれる、さびしさを紛らわしてくれる、暖めてくれる、そんな偽物の光、見せかけの光、イミテーション、もっと言うと偶像を自分の手でこしらえるのです。なんて空しい行為でしょうか。「まことの光」は、太陽のようにすべての人を照らし、公平で、明るく、暖かいのに、人々はその光に背を向け、吹けば飛ぶような光にすがりついているのです。しかし今、「まことの光」が世に来ようとしていた。いや、すでに来られた。人が求めたからでもなく、人にその資格があるからではなく、ただ神さまの愛と熱心がそれを決断させ、まことの光であるイエス・キリストをこの世に送ったのです。 

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

「この方」とは、もちろんイエス・キリストのことです。先週の説教でも触れましたが、イエス・キリストは、創造のはじめからおられ、この地上のすべてのものを造られたのです。ところが人々は、この方を知らなかったというのです。知らないはずはありません。パウロはローマ書1章で言っています。「神の目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」神は被造物を通して、この自然と私たちに与えられた良きものを通して、絶えず私たちにご自身を現わして来た。知らないとは言わせないと言うのです。だいたいこの世界が曲がりなりにもこうして保たれていること自体、神の愛と恵みが注がれている証拠なのです。「すべての人を照らすまことの光」が照らし続けていてくださっているからなのです。

神はこうして「すべての人」を照らしているのですが、ここに特別に愛して、宝の民としていた民族があります。それがイスラエルでした。アダムの罪によって堕落してしまい、神と断絶してしまった人々を救うために、神は救いのご計画を用意されました。そしてその実現のために特別にイスラエルの民を選び、ご自分を彼らに現わされ(啓示され)、救いの約束を与え、示してこられました。ところが、彼らはどうだったでしょう。神の子イエスさまは、「ご自分のところに来たのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」とあります。イエスさまはそれがどういうことかを説明するために一つのたとえ話を語っています。

ひとりの地主が旅に出かけました。ぶどう園を残し、それを農夫たち(小作人)に貸して、彼らを信頼して管理させました。収穫の時期が来て、主人はしもべたちを送って、収穫による収益の中から主人の取り分を受け取るようにした。ところが、農夫たちは主人が送ったしもべたちを袋叩きにして、ある者は殺してしまったのです。主人は何度も、しもべたちを送りましたが、農夫たちはやはり同じ目に遭わせました。そこで最後に主人は自分の息子を送りました。息子なら良くしてくれると思ったのです。ところが農夫たちは「これは跡取りだ、殺して相続財産を我々のものにしよう」と相談し、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまったのでした。これが、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」ということです。これが神の特別の選びとご寵愛に対するイスラエルの報いでした。しかし、「まことの光」は、その愛の光は、それでもサンサンと人々を照らし続けました。そして光に向き合うように、それを受け取るように、光の中に飛び込んでくるようにメッセージを送り続けたのです。 

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった

「名」は人格を表します。ですから「その名を信じた人」というのは、「神を神として信じた人」ということです。さらに言い換えると、「この方を救い主として受け入れた人」、あるいは「このお方を寄り頼むに値するものとして信頼した人」ということです。神はそのような人には、「神の子どもとなる特権」をお与えになりました。この「特権」は、何かの功績で獲得するものでもなく、資格があるからその報いとして与えられるものでもなく、全くの神の恵みによって、一方的に授けられ、付与され、認められるものなのです。皆さんは乳児院をご存知でしょうか。何らかの理由で、親が育てられなくなった赤ちゃんが養育されているところです。中には特別養子縁組制度を利用して、養子として両親のいる家族のところに迎えられる子どもがいますが、なんとそのようなラッキーな子どもは、全体の18%ぐらいだそうです。大半の子どもたちは、そのまま養護施設に移り、18歳になったら、一人で社会に出て行かなければいけません。「神の子どもとなる」というのは、ちょうど養子縁組のようなものです。神はどういうわけか、私たちに目を留めてくださいました。普通私たちが養子を取るとしたら、こんな子を選ぶでしょうか。女の子なら目がぱっちりして色白で賢そうなかわいい子を選ぶことでしょう。しかし神の選びは、全く違います。価のない者を愛するのが神の愛なのです。そして神は、誰の目にも留まらないような一番の味噌っかすをご自分の子にしてくださいました。神さによって養子縁組された私たちは、13節にあるように「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれ」ました。「血によってではなく」というのは「血筋によってではない」ということです。当時の人々から言うと、霊的特権階級のアブラハムの子孫ということには関係なく、ということです。今で言うと、クリスチャンホームに生まれたとかそういうことには関係なく、ということです。「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」というのは、「人の求めや功績、行いによらず」ということです。そう、ただ御霊によって、私たちは神の子どもとして新しく生まれ、神の子どもになる特権を与えられたのです。

 

私たちは、光を求めているでしょうか。はい、誰もが光を求めています。しかし、「まことの光」を無視して、「暗い、暗い」と嘆いてはいないでしょうか。自分のために偽物の安っぽい、すぐに消えてしまうような光を作って、それに頼ってはいないでしょうか。吹けば消えるようなともし光を必死で守っていないでしょうか。どうか、「まことの光」に向き合ってください。私たちの心に潜む罪(闇)を照らし出されることを恐れることなく、真正面から、イエスさまの光を受けましょう。そしてまことの光であるイエスさまのふところに飛び込もうではありませんか。そこは暖かく、安心と幸せがあるふところです。私たちはそこに憩おうではありませんか。そして光の子どもにしていただいて、主と共に日々歩んでいきましょう。


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