「幼子のことを語った」(ルカ2:36~38)
お祈りします。
「私の目があなたの御救いを見た」。天の父なる神さま、私たちは、クリスマスの喜びを胸に抱きつつ、今日も神の言葉に聴いています。聖霊が私たちを照らし、この礼拝の内に再び、キリストと出会うことができますように。暗闇に輝く光、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。 アーメン!
1. シメオンの光の陰で
38節(読む)
38節冒頭、「ちょうどそのとき」とは、いつのことでしょう。「ちょうどそのとき」、、それは前の頁に登場する老人シメオンが、神の宮で幼子イエスに出会った、「ちょうどその時」でした。
25~26節(読む)
シメオンは「正しい、敬虔な人」だったと聖書は記します。しかもただ正しくて敬虔だっただけでなく、何と「キリストを見るまで」死ぬことがないとのお告げまで、彼は受けていた。 シメオンは、相当な高齢だったと思われますが、そのシメオンが、ついに神の宮で幼子イエスに出会っていく、「ちょうどその時」、アンナもその場に居合わせたのでした。
シメオンが幼子に出会う場面は感動的です。彼は思わず幼子を抱き、神をほめたたえる。 今日の招きの御言葉でもありますが、シメオンは語ります。「私の目があなたの御救いを見た」と。 そして、神を賛美した後、幼子の将来についても語っていく。 これはなかなかにドラマチックな場面です。そして、「ちょうどその時」、そこにアンナがいたのです。
イスラエルの律法、掟は、まことに大事な事柄については、それを確かなものとするために二人の証人が必要だ、と求めています。救い主キリストが世に来られたという、この一大事を証しするために、神は老人シメオンを一人目の証人に選んだのでしょう。 そして、今日の聖書箇所に登場するアンナ、今日は、私たちのアンナと呼びたいのですが、このアンナが二人目の証人でした。こうやって二人で証ししているのです。まことに救い主が、人となり、しかも最初、幼子として地上に来られたのだと。
しかしこのアンナ、二人目の証人と言っても、登場の仕方はまことに地味でした。 そう、シメオンの輝きの陰に隠れて、本当に目立たない。長さにしてわずか3節。 うっかりすると読み飛ばしてしまうかもしれない。 アンナは、はっきり言えば全くの脇役でした。シメオンがひまわりなら、アンナは、道端に咲くタンポポのよう。地味で、注意しないと見落としてしまうほど。
このアンナの出身は北イスラエルの十部族の一つ、アシェル族です。この部族はマイナーな部族で、北イスラエルが列強アッシリアに滅ぼされて以来、行方がよくわからなくなっていた、別名「失われた部族」の一つです。そんな彼女の背景もまた、どことなく悲哀を感じさせます。 このアンナ、なぜか「女預言者」と呼ばれます。 女預言者って何でしょう。そんな職務は、実は正式には存在しないのです。 旧約最後の預言者マラキ以来、預言者と呼ばれる人物は四百年以上途絶えていましたので、一瞬、「アンナという女預言者」と聞くと、私たちの注意は引くかもしれない。しかも新約聖書で「女預言者」と呼ばれるのはアンナだけ。それだけに、これは何? と思ってしまいますが、正直言って謎です。アンナの存在があまりにも地味で、私たちにはその意味を解く確かなヒントは一つもないのです。
2. アンナの人生
いずれにせよ、シメオンが光なら、アンナは陰。そんなアンナの存在を地味でいよいよ目立たないものにしているのが、やもめとして生きてきた、彼女の人生でした。
36節b~37節
アンナという名前、これは日本語に直すと、「めぐみ」さんです。日本では、クリスチャンホームでよくつけられる名前の一つですが、このアンナにも「恵み多い人生を歩むように」との親の願いが込められたのでしょう。(ちなみに私たちの教会の牧師は、千の恵みです。勝った!という感じですが)とにかく、アンナは「めぐみ」さん。親は願いを子どもの名前に込めていく。
しかし、アンナの実際の人生はどうだったでしょう。少なくとも一読した限りでは、めぐみ多い人生を生きたとは思えない。
私たちのアンナは、結婚生活わずか七年で夫を亡くします。そして、おそらく20代の頃からもう60年以上にわたってやもめ暮らし、おそらく一人で生きてきた。でも、彼女は信仰の人でした。夜も昼も神の宮を離れず、日々礼拝と祈りに心を注いできたのでした。しかも、祈りに集中するため、日常的に断食していたようですから、まさに祈りの人、と呼ぶのに相応しい、そんな私たちのアンナであったと思います。
そうです。このようにアンナはまことに信仰深い女性。でも、そのように言いながらも、私を含めて多くの人が密かに、このアンナに対してふと、ある思いを抱いてしまうのではありませんか。「アンナさん、もっと違う生き方がなかったのですか」と。 そう、「信仰に熱心なのは素晴らしい。でも、他に生き方はなかったのですか」と。 60年以上、やもめのまま、ただ礼拝と祈りだけに打ち込んできた。ここまで来ると、たとえ口には出さずとも、熱心を通り越して、「愚か」、あるいは「哀れ」と、アンナを見ながら、そう感じる人もあるかもしれない。
ごめんなさい。「愚か」あるいは「哀れ」は少し言い過ぎだったかもしれません。でもどうでしょう。私たちの中に、アンナの信仰に感心はしても、アンナのようになりたい、、と同じ生き方を願う人があるでしょうか。一人で生きながら、日々をただ祈りと礼拝にささげ、何の変化もない毎日を84になるまで繰り返してきた。 ただ礼拝者として、道端に咲くタンポポのように、密やかに目立つことなく生きてきた。こんなアンナの生き方が、彼女の存在を、いよいよ地味で目立たぬものにしていると思います。 さらに言えば、聖書も寡黙ですね。アンナについて多くを語ることをしません。だから私たちは、アンナが何を祈っていたのかわからない。何のために、どうしてこのような生き方を続けているかも分からない。 それゆえ、「愚か」あるいは「哀れ」と、感じてしまう人もあるのです。 アンナは、このまま一生を終えてしまうのだろうかと。
3. 祈りは届いた
しかし、そんないつもの生活、礼拝と祈りの生活を繰り返す、そのアンナに、「ちょうどそのとき」が訪れたのです。 日々を礼拝者として生きていたからこそ、夜も昼も祈り続けていたからこそ、幼子イエスに遭遇するという、千載一遇の恵みを、私たちのアンナは手にしていくのです。
「ちょうどそのとき」。これは、ひたすらに、目立たぬ祈り手、礼拝者として生きてきた、アンナに対する、神の答えであったと信じます。「ちょうどそのとき」という、このタイミングが、アンナの祈りに対する神の答えでした。神はいつも見ておられたのです。礼拝者として生きる彼女の姿を。そして聴いておられた。日々捧げられる私たちのアンナの祈りを。
皆さんは、イエス・キリストが十字架にかかる前夜、ナルドと呼ばれる高価な香り油をイエスさまにささげて注いだ、一人の女性の話をご存じでしょうか。讃美歌にもなっています。「ナルドの壺ならねど、ささげまつるわが愛、みわざのため 主よきよめて、受けませ」という歌です。 この香油を捧げる女性は、十字架に死ぬ主イエスの準備として、自分の持てる最高のものをささげたのでした。ところが、ところが、それを見ていた弟子たちは憤慨するのです。これは何なる無駄かと。しかし、イエスさまはそれをいさめ、彼女の思いをしっかりと受け止めていったのでした。
この油を注ぐ話が物語るように、主が人を見つめる目線は、天と地ほどに、私たちと異なっているのです。「人はうわべをみるが、主は心を見る」という聖書の言葉もありますね。 私たちの神は、一人の小さな礼拝者の祈りを決して軽んじることのないお方。それが、たとえこの世では評価されない生き方であったとしても、小さな礼拝者の祈りを、神はしっかりと受け止めて下さるのです。
私たちの神は、小さな信仰者の祈りを受け止めるお方。 このルカ福音書のクリスマス物語には、三名の祈り深い女性が登場します。 最初は、年老いて子を与えられたエリサベツ、そして幼子イエスの母となったマリア、そして私たちのアンナ。いずれも世間的には目立たない女性たち。しかし、それぞれの祈りを、それぞれに相応しく神はしっかりと受け止めていく。 三名の中でもアンナは、最も目立たない女性だと思います。だからこそ、余計に祈りに応える主の真実が輝くのです。主は、このような小さく、目立たぬ礼拝者の祈りも、決してないがしろにされることはないのだと。
結び
もう一度38節
アンナは、ちょうどそのときに与えられた出会いを、神の恵みと受け止めました。そして、神に感謝をささげていく。アンナは、やはり「めぐみさん」でした。彼女の人生には、神の特別な恵みが溢れたのです。そして、私たちのアンナは、この幼子イエスのことを「エルサレムの贖い」、つまり救いを待ち望むすべての人々に語っていきます。しかも一日や二日のことではない。生涯を終えるまで、語り続けていったのだと、そんなニュアンスを聖書は伝えています。
アンナは、「この幼子のことを語った」。 クリスマスストーリーは豊かで、その中には、様々な人々が登場します。有名どころでは、ザカリヤ、エリサベツの老夫婦、クリスマスの夜には羊飼い、そして、少し間を置いて東方の博士たち。 最後に老人シメオンと私たちのアンナ。 それぞれに大切な役割を担っていくのですが、実は、「幼子のことを語った」「語った」と言われるのは、このアンナただ一人。 ただアンナだけが、キリストのことを、出会ったのちも語り続けたと「記されている」。 それで、かもしれませんね。アンナが神の言葉を預かり伝える「女預言者」と呼ばれているのは。もしかしたら、そうかもしれません。
このアンナを通して最後に思うのは、礼拝者として生きることの素晴らしさです。生涯を礼拝者として、神に祈りを捧げながら生きる。もちろん、アンナのように夜昼、教会を離れず、ということは私たちには無理かもしれない。それでも、生涯を礼拝者として生きることは、素晴らしいこと。 もちろんこの世は、そんな礼拝者としての生き方を理解も評価もしてくれないかもしれません。中には、違う生き方もあるでしょう、と、疑問を投げくる人もあるかもしれない。 しかし、神は覚えておられる。私たちの礼拝を、私たちの祈りを、神は必ず受け止めてくださる。そして、そのように礼拝者として生きる人には、必ずやキリストと出会う、「そのとき」が用意されているのです。
だから、私たちも礼拝者として歩み続けたいと願います。この教会で皆さんとともに、礼拝者として生きていきたい。今年歩んできたように、来年もまた、礼拝者として皆さんと一緒に歩みたい。 ここで出会ったキリストを伝えていきたい。語られたキリストの言葉を、この幼子のことを、私たちも語り続けたい。そのような願いを新たにした、今年最後の礼拝のひとときです。お祈りします。
「ちょうどそのとき」。 天の父なる神さま、名もなき小さな礼拝者の祈りに耳を傾ける、あなたの真実に感謝します。どうか新船橋キリスト教会の礼拝を、私たちの祈りを、聖霊によってこの後も導き、支え、また引き上げてくださいますように。 生ける御言葉、救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!
コメント
コメントを投稿