長かったコリントでの宣教が終わります。長かったとは言っても1年半。私が新船橋キリスト教会に赴任してから1年と10カ月経ちますから、そう思うとあっという間です。初めの頃こそ、ユダヤ人たちから会堂を追い出されるなどの衝突がありましたが、集まりを会堂の隣りのティティオ・ユストの家に移動してからは、比較的落ち着いて、自由に伝道をすることが出来ました。なにしろ今回は、「恐れないで語り続けなさい。…わたしがあなたと共にいるのだ。あなたを襲って危害を加える者はいない!」との神さまの守りの保証付きでした。パウロはコリントで合流したテモテやシラス、そして同業者であり、同労者でもあったアキラとプリスキラと共に、精力的に伝道に励みました。その甲斐あって、多くのユダヤ人、ギリシア人などの異邦人が救われました。教会形成に終わりはありません。第一次伝道旅行、第二次伝道旅行の中では、一番長い滞在期間でしたが、まだまだ、やるべきことがあった事でしょう。けれどもパウロが福音を運ぶべき宣教地は、たくさんありましたから、今日これから扱う出来事を最後に、パウロはコリントを後にすることになります。
12節「ところが、ガリオがアカイアの地方総督であったとき、ユダヤ人たちは一斉にパウロに反抗して立ち上がり、彼を法廷に引いて行って」
このガリオと呼ばれる地方総督ですが、彼は優秀ないわゆる「できる男」だったようです。彼は知的レベルの高い家で生まれました。父親は偉大な哲学者の大セネカでしたし、弟はローマのネロ帝の師にしてブレーンだった小セネカです。まさに「ローマの知性」とも言えるこの一家の血を受け継ぐガリオも知性的な人で、ローマの直轄地であるアカイア地方の総督まで上り詰めたのでした。彼の地方総督だった時期はAD51年7月~52年6月です。ガリオの名が記された碑文も見つかっていますので、まず確実です。このように歴史上の人物をしっかりと明記して、作り話ではないことを証明するところが、歴史家ルカらしい記述です。
さて、ガリオの裁判は見事なものでした(裁判はしないという裁判でしたが)。ユダヤ人たちは、多くの仲間がキリスト教に回心するのを腹立たしい思いで見ていました。そして今までは、一部のユダヤ人たちがギリシア人たちを扇動して、パウロたちを迫害し、その地方から追い出すというような手法が使われていたのですが、今回はユダヤ人たちが団結して、パウロに反抗しています。ひょっとしたら、パウロたちはギリシア人たちにすでに受け入れられていたために、彼らを扇動できなくなっていたのかもしれません。12節にある「一斉に」という言葉は、「一つ心で」とか、「心を合わせて」という意味です。本当に人間は、神に反抗するためにはいとも簡単に団結します。創世記でバベルの塔を造ったときもそうでした。人々は、「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう!」と言って心を一つしにして高い高い塔を、天に向かって建てたのです。
こうしてユダヤ人たちは一斉に、団結して、地方総督ガリオに訴えたことは何だったでしょうか。それは13節にあります。「この人は、律法に反するやり方で神を拝むよう、人々をそそのかしています。」「律法に反するやり方で神を拝む」とはどういう事でしょう。初代教会の信徒たちは、安息日ごとにユダヤ教の人々といっしょに礼拝することをやめてはいなかったので(イエスさまも、パウロも安息日ごとにユダヤ人の会堂で礼拝をささげていました)、礼拝の形式や式次第が律法に反していたわけではありませんでした。では何が「律法に反するやり方」だったとのでしょうか。
一つは、キリスト者たちは、イエス・キリストの御名によって祈りました。これはイエス・キリストが仲保者、大祭司となり、神へと、その祈りを繋ぎ、とりなしていることを意味します。そして二つ目に、彼らはイエス・キリストをほめ歌う賛美歌を歌っていました。それはユダヤ教の人々の知らない新しい歌でした。彼らは、父なる神さまだけではなく、イエスさまを賛美する歌を歌っていたのです。そして三つ目は、イエス・キリストの御名によって洗礼を授けていました。ユダヤ教にも「洗いの儀式」いというものがありました。それは悔い改めと信仰の刷新のしるしであり、異邦人の改宗のしるしでした。しかしキリスト者は、それをイエス・キリストの御名によって行っていたのです。イエスさまは昇天される時に弟子たちに大宣教命令を与えました。「あなたがたは、…父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい」と。そして使徒たちは、それ以後、三位一体の神の名で洗礼を授けるようになったのです。そして4つ目、キリスト者はイエス・キリストの十字架の死を記念して聖餐式をしました。ユダヤ教も過ぎ越しの食事をしていましたが、キリスト者は、聖餐式を通して、イエスさまの十字架の贖いによって、神が私たちの罪を見過ごして下さったことを記念したのです。そして最後、クリスチャンは、ユダヤ教の安息日(土曜日)に加えて、イエスさまの復活を記念して日曜日にも集まって礼拝していたのです。こうしてキリスト者は、あらゆることを通して、イエスこそキリスト、救い主だと告白していたのです。
これらのことを踏まえて、ユダヤ人たちが訴えたことは何だったのかもう一度考えてみましょう。ユダヤ教は、ローマの公認宗教でした。ローマの政府に対してクーデターを起こさない限り、信仰の自由は保証され、彼らは保護されていたのです。はじめはキリスト教もユダヤ教の一派と考えられていましたので、同じく公認宗教として守られていました。けれどもユダヤ教の信者たちは言うのです。彼らは、もうすでにユダヤ教ではない。彼らはイエスという独自の神を礼拝している。我々の律法とは違う方法で礼拝しているのだ。だから彼らをユダヤ教の一派と見なさないでほしい。彼らの信仰の自由を認めないでほしい。彼らを解散させ、懲らしめてほしい。ユダヤ人たちは一斉にそう訴えたのです。
それに対して、ガリオは何と答えたでしょう。14節後半「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなた方の訴えを取り上げるが、言葉や名称やあなたがたの律法に関する問題であれば、自分たちで解決するがよい。私はそのようなことの裁判官になりたくはない。」
キリスト信者を、不正な行為や悪質な犯罪のかどで訴えているのであれば、私も裁判をすることをいとわないが、彼らはそのようなことは何もしていない。それは単なるお前たち内輪もめだろう?自分たちの信仰の教理の問題だろう。そうであるならば自分たちで解決すればよい。そう跳ねのけたのです。このガリオの裁判を責任逃れと見る人もいるのですが、私はそうは思いません。パウロたちをちゃんと調べもしないで、ユダヤ人たちの訴えを鵜呑みにし、むち打ちにし、牢に投げ込んだピリピの長官たちに比べると、ずっと誠実です。何よりイエスさまに何の罪も認めなかったのに、ユダヤ人の「十字架つけろ!」という圧に負けて、イエスさまを彼らに引き渡したピラトよりはずっとましです。こうして事なきを得たパウロたちは、なおしばらくコリントに滞在して(18節)、平和のうちに旅立っていく事ができたのです。
さて、かわいそうだったのは、会堂司のソステネです。ユダヤ人たちは、自分たちの訴えが棄却された腹いせに、ソステネを法廷の面前で私刑、リンチにしたのです。どうして彼が八つ当たりされたのでしょうか。二つの理由が考えられます。一つは、この会堂司ソステネがこの訴えの発起人であり、責任者だったからでしょう。今回の訴えがうまくいかなかったのは、彼の戦略がまずかったからだとユダヤ人たちから責められた、という理由です。もう一つは、ソステネの前任者クリスポは、家族ごとイエスさまを信じて、会堂司を辞任しています(18:8)。その後継者としてこのソステネが会堂司の職に就いたのですが、ひょっとしたら彼もイエスさまを信じてしまった可能性もあります。実はもう一回このソステネという名前が出てきます。Ⅰコリントの手紙の1章1節に「神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから」もし、この人がリンチを受けたソステネと同一人物だとしたらどうでしょうか。ユダヤ教の重職にあたる会堂司の立て続けの背教に、ユダヤ人たちが腹を立てて、締め上げたということは、あり得ない事ではありません。そしてこの時も、ガリオは徹底して無視でした。宗教の内輪のもめごとには首を突っ込まないという主義を貫いたのです。
私たち日本人は、人と違うことを嫌います。「和」の精神を重んじ、なるべくまわりの調子に合わせて、波風立てずに平和を保つことを好むのです。それ自体は悪いことではありませんし、日本人の美徳とも言えるでしょう。けれども、パウロたち初代教会のクリスチャンたちは、「律法に反するやり方で」礼拝していました。人と違うことを恐れず、イエスを主キリスト(救い主)として告白し、礼拝していたのです。そして、どんなに批判されても、迫害されてもこの告白だけは譲りませんでした。私たちも違うことを恐れないで、「イエスは主キリスト」と告白していきましょう。大丈夫です。聖霊が私たちを励まし、助けてくださいます。
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