スキップしてメイン コンテンツに移動

神のみこころなら(使徒の働き18:18〜22)

「神のみこころなら」

使徒の働き181822

 

さてパウロたちは、地方総督ガリオのもとに引かれて行ってから、なおしばらくコリントに滞在ました。「なおしばらく」というのは「かなりの日数」という意味です。恐らく数ヶ月はコリントにとどまったのではないしょうか。なぜ、「なおしばらく」コリントに留まる必要があったのでしょうか。考えられる理由として3つあります。一つは幻でパウロに語られた言葉が実現するためでした。幻というのは、イエスさまが「わたしがあなたともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。」と語ったその幻のことです。その幻は確かに実現し、パウロたちは何の危害も加えられないまま、コリント宣教の日々を最後まで過ごしました。何も追い出されてコリントを出ていくわけでははないということです。また、もう一つの理由として、パウロはなるべく長くコリントに滞在し、教会の基礎をしっかりと作っておきたかったという思いもあったと思います。コリント教会は、コリント人への手紙を見てもわかるように、問題の多い教会でした。コリントでキリスト者として生きていくことは、簡単なことではなかったのです。ですから少しでも長く留まって、教会の土台を築き、キリスト者は何を信じているのかという教理をしっかりと教えたかったのでしょう。そしてもう一つは、当時はシリアまで行く地中海航路の定期便は、それほど多くなく、比較的穏やかな季節を選んで船が出ていたようです。ですからパウロたちは、その船の出航を待って、なおしばらく滞在したと考えられるでしょう。

こうしてパウロたちはコリントを発ちました。コリントの兄弟姉妹たちがお見送りに来てくれたのでしょう。彼らとの別れを惜しみながら、コリントを離れました。プリスキラとアキラも同行しました。ここでもプリスキラが先です。プリスキラはニックネームで正式な名前はプリスカなので、つまりルカはここでも「プリスカちゃんとアキラ」と呼んでいるのです。彼ら二人は次に碇泊したエペソにそのまま残ることになります。ひょっとしたら初めからそのつもりで、パウロと一緒にコリントを離れたのかもしれません。宣教のためには場所を問わない、身軽な信徒伝道者夫妻でした。今で言うと、テレワークが普及してどこでも仕事ができるようになったので、この際地方の無牧の教会の近くに引っ越して、教会の働き、伝道を担いながら生活しようという家族が現れてもいいのかもしれません。

そしてパウロは誓願を立てていたので、コリントの東ケンクレアという港に着いたときに髪を剃りました。ナジル人の規定から来るヘブル的な習慣として、このような誓願を立てるというものがありました。私たちで言う「願掛け」に似ているかもしれません。願い事を神に集中して求めるために、30日間禁酒、節食などをして祈るというものです。その間髪も髭も剃らなかったようです。これはあくまで彼らの習慣で、自主的なものです。とにかく、パウロはその請願の期間が開けたので、髭を剃り、髪を切ってさっぱりしました。請願の内容については何も書いていないのでわかりませんが、宣教の鬼パウロのことですから、コリント宣教に関わることではなかったかと想像します。

 

こうして、パウロとプリスキラ、アキラは、コリントを後にして、まずはエペソの港に寄港しました。エペソでは、パウロとプリスキラたちは別行動をとりました。それぞれ自分たちのミニストリー、宣教計画があったのでしょう。パウロは、二人を残し、一人で会堂に入って、いつものように、まずはユダヤ人相手に、聖書から論じ合いました。いつも通り、聖書が預言し、私たちが待っているメシアは、もういらっしゃったのです!そのお方は、イエス・キリストです!と声高に説教したのでしょう。

パウロはどこででも同じ手法で伝道しますが、聴衆の反応は様々です。このエペソのユダヤ人たちは、非常に反応が良かったようです。彼らはパウロに「もっと長く留まるように頼んだ」というのです。これはチャンスです!彼えらの心が開かれている間に、福音をもっと伝えたいと私なら思います。ところが、パウロは言うのです。「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と。そして別れを告げてエペソから船出したというのです。請われて福音を宣べ伝えられるなんて、めったにない事なのに、なぜ?と思うかもしれません。一つは、単純に船の碇泊時間の関係で長く留まれなかったと考えられます。次の船がでるまで、また数ヶ月も待つわけにはいきません。けれどもそれ以上に、パウロの伝道計画は、いつも神さまの導きに従うものでした。その時の状況や自分の思い、願いに左右されるものではなかったのです。「神のみこころならまた戻ってきます」ということは、「今ここにとどまることは神のみこころではない」ということです。パウロは一貫してそのような態度を貫きます。思い出してみましょう。パウロは16章でもリステラで、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので」計画を変更し、フリュギア・ガラテヤ地方に行きました。そして、ミシアということまで来ると、また進路変更を聖霊によって示されたので、それに従いました。その後、幻でマケドニアの叫びを聞いて、これこそ主の導き確信して、マケドニアに向かったのです。ヤコブの手紙4:15には、「あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。」とあります。私たちにも柔軟さが求められています。自分の願い、計画を握ってしまわないで、神の前にいつも開いておく必要があるのです。このことについては、また後で触れます。

 

こうしてパウロは、先にエルサレム、そしてアンティオキアに下って行きました。第二次伝道旅行の目的は何だったでしょうか。思い出してください。それは二つありました。一つは、第一次伝道旅行で救われた人々と教会のフォロアップでした。そしてもう一つはエルサレム会議の決議事項を伝えるということです。パウロは確かにこの目的を達成しました。しかしそれ以上に大きな収穫もありました。行く先々でユダヤ人もギリシャ人も多くの人々が救われて、教会が生まれていったのです。

こうしてパウロは、先にエルサレムに行って、エルサレム会議の決定事項は、確かに地中海沿岸のユダヤ人教会に伝えましたよと報告し、その後自分たちの派遣元であるシリアのアンティオキア教会に向かって、そこで宣教報告をしました。パウロの宣教は個人プレーではありませんでした。パウロはアンティオキア教会の兄弟姉妹に祈られて、宣教旅行に派遣されたのです。私たちの教団も現在6組の宣教師、宣教師家族を派遣しています。私たちの教会は国外宣教のために経済的にも支えていますし、毎週の祈祷会で祈りによっても支えています。ですから今年もぜひ、オンラインでもいいので宣教報告の時を持ちたいと思います。

 

さて、今日の説教題は「神のみこころなら」としました。私たちは人生に様々な計画を持ちます。それは良いことです。もうすぐ教会総会ですが、そこで一年の計画や予算が決議されます。先ほど引用したヤコブ書4章15節にも「私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」とあるように、将来を楽しみにして、あんなこともしてみたい、こんなこともしてみたいと期待し、計画、希望をもつことは悪いことではありません。私もやってみたいミニストリーがたくさんあって困ります。しかし、このヤコブ書のみことばの前に「主のみこころであれば」とついていることに注目したいと思います。私たちはある意味自由に、心の願い、計画、期待、希望を神さまの前に差し出すことができます。どうぞこの願いをかなえてくださいと祈ることができます。神さまはその祈りと願いを喜んで聞いてくださいます。ピリピ46節には「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。私たちは何でも、積極的に祈りましょう。願いましょう。けれどもそれを握ってはいけないということです。最終的には神のみこころだけが成るのです。イエスさまが模範を示されました。弟子たちに「主の祈り」を教えた時には、「みこころが天で行われるように、地上でも行われますように」と祈りなさいとおっしゃいました。イエスさまはご自身もゲッセマネの園で、それを実行されました。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」と祈ったのです。ですから私たちも、「あなたがお望みになることが成りますように」と祈るのです。私たちは思うかもしれません。神さまは、厳しくて、お堅いお方だから、そんな風に祈ったら、きっと自分の願いなんてかなえられないと。しかし、そんなことはないです。ローマ8章32節には、 「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」とあります。神さまの愛を信じてください。神さまは私たちによいものしかくださいません。神さまが私たちに与えてくださる計画はエレミヤ書29章11節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」私たちが、「みこころがなりますように」と祈れないのは、神さまの愛を知らないからです。先週の説教にもありました。私たちは神さまのことを知らなさすぎるのです。神さまがどんなに私たちのことを愛してくださっているか、私たちの将来をよいもので満たそうと思っていらっしゃるか、もう一度心に刻み、私たちの祈りを握ってしまわず、手のひらに載せて、「みこころならば…」と祈ってみましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

7月16日主日礼拝

兄息子への愛                                         日 時:2023年7月16日(日)10:30                場 所:新船橋キリスト教会                                         聖 書:ルカの福音書15章25~32節   1 ルカの福音書15章について  ルカの福音書15章では、イエスさまが3つのたとえをお話しになります。そのうちの3番目に「2人の息子のたとえ」があります。今日は、兄息子のたとえを中心にお読みいたします。  イエスさまが3つのたとえをお話しすることになったきっかけが15章1節から3節に書かれています。取税人たちや罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスの近くにやってきました。その様子を見ていた、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスを批判します。「この人、イエスは罪人を受け入れて一緒に食事をしている」と。そこで、イエスはパリサイ人たちや律法学者たちに3つのたとえ話をしたのです。  その結論は、最後の32節に書かれています。   「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 イエスさまが3つのたとえをとおしてお語りになりたかったのは、「取税人や罪人がイエスのもとにきたことを喜び祝うのは当然ではないか。」ということです。1番目のたとえでは、失われた羊、2番目のたとえでは失われた銀貨が見つかりました。3番目のたとえでは、弟が死んでいたのに生き返りました。大いに喜ぶのは当然です。イエスさまは、3つのたとえを用いて、神さまから離れてしまった魂、すなわち、取税人や罪人が神さまのもとに帰ってくることの喜びがいかに大きいかをパリサイ人や律法学者に伝えることで、彼らの批判に答えたのです。 2 兄息子の不満   さて、3番目のたとえでは、前の2つのたとえとは違うところがあります。それは、25節から32節に書かれている兄息子の存在です。兄息子は、いつも父親に仕えていました。弟が帰ってきたその日も畑にいました。一生懸命に仕事をしていたのでしょう。ところが、兄息子が家に帰ってきますと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。なんと、弟が帰ってきたというの
  闇から光に! 使徒の働き26:13~18 パウロの回心の記事は、使徒の働きで3回出てきます。前回は9章と22章でした。この3つの記事は、全く同じというわけではなく、それぞれ特徴があり、強調点があります。例えば、前のパウロの回心の記事では、アナニアが登場し、アナニアを通してパウロに神からの召しと使命が告げられたことになっていますが、今回、アナニアは登場しません。そして復活のイエスさまご自身が、パウロに直接語りかけ、福音宣教の使命を与えられたということが強調されています。今日は、私たちもイエスさまの直接的な語りかけを聞いていきたいと思います。12~13節をお読みいたします。   このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。   パウロは、祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコに向かい、クリスチャンたちを迫害しようとしていたとあります。昔、「親分はイエス様」という映画がありました。やくざだった人が救われて、人生の親分が、組長からイエスさまに変わったという映画です。パウロも、ダマスコに向かう時には、祭司長たちから権限と委任を受けていたのですが、ダマスコ途上で救われて、親分が変わりました。イエスさまが、彼の親分になり、パウロに権限と委任を与えるお方になったのです。 さて、パウロがダマスコに向かう途中に、天からの光を見ました。私はパレスチナには行ったことがありませんが、インターネットで調べてみると、雨季と乾季があり、乾季の時には、昼間は灼熱の太陽が照り付け、非常に乾燥しているとありました。今、日本は真夏で、太陽がぎらぎらと照り付けていますが、「真昼に天からの光」と聞いて皆さんどう思うでしょうか?しかもそれは太陽よりも明るく輝いて、パウロと同行者たちの周りを照らしたというのです。想像を絶する明るさ、輝きです。そうでした。神は天地創造の初めに、「光よ、あれ!」とおっしゃったお方でした。第一ヨハネの1章5節では、「神は光であり、神には闇が全くない」とあります。神は光そのものです。全き光である神を前に、人は立っていられるでしょうか。罪や汚れを持つ人間が、一点の影も曇りもない神の前に立ちおおせる

マルタ島での出来事(使徒の働き28:1~10)

「マルタ島での出来事」 使徒の働き281~10 さて、2週間もの漂流生活が守られ、船に乗っていたパウロたち囚人も、ローマの兵士たちも、水夫たちも、276人全員が無事に島に打ち上げられました。この島の名はマルタ島。地図で確認しましょう。イタリアは目と鼻の先。もちろん嵐に巻き込まれて、漂流してここまで来たのですから、順調に船旅をするよりも時間はかかりましたし、失ったものも多かったと思いますが、それでもほぼ直線距離で、ここまで運ばれて来たようです。本来はクレタ島で冬の間を過ごして、それから船出するつもりでしたので、予定よりも早く、パウロが目指すローマに着くことになりました。11節を見ると、航海に適した時期になるまでもう3か月間マルタ島で過ごさなければいけなかったのですが、3か月後にクレタ島を出るのと、このマルタ島を出るのとでは、大きな時間差があります。しかも島の人たちは親切で、パウロたち一行にとてもよくしてくださり、また船出するときには、必要な物資を用意してくれたということですから、クレタ島の良い港や皆が冬を過ごしたがっていたフェニクスという港よりも快適に冬を過ごせたかもしれません。 神さまの導きは不思議です。私たちから見たら、嵐のように苦労が多くて、遠回りで、足踏みをしているようにしか見えない人生でも、神さまは、着実に導いてくださっている。前に進ませてくださっているのです。神さまは良いお方。私たちに良いものしかくださいません。皆さんは星野富弘さんを御存じだと思います。不慮の事故で、首から下が全く動かなくなり、口で筆を加えて、絵や詩をかいている詩人であり、絵描きです。彼の書いた「渡良瀬川」という詩をご存じでしょうか。少し長いですが、お読みいたします。 私は小さい頃、家の近くを流れる渡良瀬川から大切なことを教わっているように思う。 私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の頃だっただろう。 ガキ大将達につれられて、いつものように渡良瀬川に泳ぎに行った。 その日は増水して濁った水が流れていた。 流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、私はやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅いところで、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心に向かって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。 ところがその時、どうしたはずみか中央に行き