スキップしてメイン コンテンツに移動

世の光として(マタイの福音書5:14〜16)

「世の光として」
マタイの福音書5:14~16

皆さんご存知のように、マタイの5章から7章は、「山上の説教」「山上の垂訓」と呼ばれているとても有名な聖書箇所です。イエスさまは、山に登られると、そこに腰を下ろし、弟子たち(恐らく12弟子だけではなく、広い意味の弟子たち)に教えを語り始めたのです。出だしはあの有名な「幸いシリーズ」でした。「心の貧しい者は幸いです」というあの教えです。そして最後「義のために迫害されている者は幸いです」と教えられ、そのことについてすこしばかり補足説明したあと、今日の箇所、「あなたがたは地の塩です。」「世の光です」と話されたのです。

 今年の年間聖句は「あなたがたは世の光です。」としましたが、別に「地の塩です」でもよかったのです。けれどもアドベントからクリスマスにかけて、今年は「光」について、私自身さんざん語って来ましたので、その流れで「光」にこだわってみました。

 

 イエスさまは「あなたがたは世の光」だとおっしゃいました。皆さんがイエスさまにこんな風に言われたらどう思うでしょうか。「〇〇さん、あなたは世の光です」「いやいや、私なんかまだまだ」「光なんて、とんでもない!」言ってしましそうです。けれども、この「あなたがたは世の光です」というみことばは、努力目標でも、「こうありなさい」という命令でもなく、単なる事実の宣言なのです。少なくともイエスさまは、私たちのことを「世の光」と見なしているということです。またこの冒頭の「あなたがたは」という言葉は、ギリシャ語を見ると、強調的表現で「あなたがたこそは!」「あなたがただけが!」と言ってもいい表現です。イエスさまを信じている私たち、イエスさまとつながっています。そして私たちは聖霊を心に住まわせています。そしてそんな私たちについて、イエスさまは、「世の光」と呼んでくださったのです。なぜなら、イエスさまご自身が、「私は世の光です」(ヨハネ9:5)と言われているからです。アドベントには、「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)と学びました。「全ての人を照らすまことの光」、それこそイエス・キリストご自身です。ですから、そのイエスさまとつながっている私たちには、光が流れ込んできます。こうして月が太陽の光を反射して光るように、私たちは光り輝くことができるのです。なぜなら私たちは光の子どもだからです。(エペソ5:8

 

 こうして、イエスさまは「あなたがたは世の光です」と言われた後、光の性質、特長について語っています。光の特徴の一つは、「隠れることができない」ということです。確かにそうです。ろうそくの火のような小さな光でも、一旦火が灯れば、それは隠れることができません。ただし意識的に隠しては輝くことはできません。15節にあるように升の下に置けば、光は外に出ることはできません。それどころか酸素不足で、光は消えてしまうでしょう。また、光の特徴のもう一つは、光は自分のためにではなく、まわりを照らすために存在しているということです。確かに、私たちは夜になると、電気(照明)をつけます。なぜでしょうか。部屋を明るくするためです。部屋を明るくしない照明があったとしたら、それは壊れているか、もはや照明ではないわけです。光は、自分のためにではなく、まわりを照らすために存在するとは、そう言うことです。

 

 光の目的は何でしょうか。それは何度も言うように、まわりを照らすことです。まわりを明るくすることです。16節「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」私たちが光を隠さないで輝かせるのは、人々の注目を自分に集めるためではありません。また、良いことをすることによって、自己満足に浸るためではありません。私たちの良い行いを通して、神の御名があがめられるためです。これは、私たちクリスチャンの生きる目的に関わって来ることです。有名なウエストミンスター小教理問答の問一にはこうあります。問い「人の主な目的は、何ですか」答え「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」私たちはすでに光ですが、それを隠すことなく、まわりを照らす目的は、神の栄光をあらわし、神の御名がほめたたえられるためです。言い換えると、人々が私たちが放つ光を見て、その光のもととなっておられる神を見出し、神をほめたたえるためです。

また、そのために神さまは私たちによい行いをもあらかじめ備えてくださると、約束してくださっています。エペソ2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

  それでは、「よい行い」とはどういうことでしょう。旧約聖書では、ざっくり言いますと以下のようなことです。孤児ややもめの世話をする。寄留の外国人を差別しないで親切にする。生活困窮者には衣食の提供をし、病人を介抱する、などです。新約聖書にもだいたい同じことが書かれています。例えばⅠテモテ5章10節には「良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助けるなど、すべてのよいわざに励んだ人」とあります。神さまは、私たちが光によってまわりを照らせるように、これらのよい行いをも備えてくださるのです。

 

  1974年スイスのローザンヌにおいて、ローザンヌ世界宣教会議が開かれました。世界の福音派クリスチャンが集まっての世界的会議ですが、この会議で特に注目されたのは、これまでの「宣教は伝道である」ことから「宣教は伝道と社会的責任である」と、その宣教理解をより「ホーリスティック(全体論的)」にとらえ直したところにあります。当時は画期的なことだったのですが、イエスさまが、「あなたがたは世の光です」とおっしゃったことを思えば、当たり前のことなのかもしれません。


  2022年、私たち新船橋キリスト教会の年間聖句は、「あなたがたは世の光です」としました。今私たちの教会は、二つの地域支援活動を行っています。フードシェアとフードパントリーです。これらの働きは今年も継続していきます。今もコロナの感染拡大が収まらないので、それに伴って、経済的な不安定な生活を強いられている人が、この地域にたくさんいらっしゃるからです。私たちは、世の光です。光が地域を照らすのは、当たり前のことです。そして全ての栄光が主に帰されるようにと私たちは願います。

※よい機会なので、この後、この二つの地域支援活動について、説明します。


コメント

このブログの人気の投稿

7月16日主日礼拝

兄息子への愛                                         日 時:2023年7月16日(日)10:30                場 所:新船橋キリスト教会                                         聖 書:ルカの福音書15章25~32節   1 ルカの福音書15章について  ルカの福音書15章では、イエスさまが3つのたとえをお話しになります。そのうちの3番目に「2人の息子のたとえ」があります。今日は、兄息子のたとえを中心にお読みいたします。  イエスさまが3つのたとえをお話しすることになったきっかけが15章1節から3節に書かれています。取税人たちや罪人たちがみな話を聞こうとしてイエスの近くにやってきました。その様子を見ていた、パリサイ人たちや律法学者たちがイエスを批判します。「この人、イエスは罪人を受け入れて一緒に食事をしている」と。そこで、イエスはパリサイ人たちや律法学者たちに3つのたとえ話をしたのです。  その結論は、最後の32節に書かれています。   「 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」 イエスさまが3つのたとえをとおしてお語りになりたかったのは、「取税人や罪人がイエスのもとにきたことを喜び祝うのは当然ではないか。」ということです。1番目のたとえでは、失われた羊、2番目のたとえでは失われた銀貨が見つかりました。3番目のたとえでは、弟が死んでいたのに生き返りました。大いに喜ぶのは当然です。イエスさまは、3つのたとえを用いて、神さまから離れてしまった魂、すなわち、取税人や罪人が神さまのもとに帰ってくることの喜びがいかに大きいかをパリサイ人や律法学者に伝えることで、彼らの批判に答えたのです。 2 兄息子の不満   さて、3番目のたとえでは、前の2つのたとえとは違うところがあります。それは、25節から32節に書かれている兄息子の存在です。兄息子は、いつも父親に仕えていました。弟が帰ってきたその日も畑にいました。一生懸命に仕事をしていたのでしょう。ところが、兄息子が家に帰ってきますと、音楽や踊りの音が聞こえてきました。なんと、弟が帰ってきたというの
  闇から光に! 使徒の働き26:13~18 パウロの回心の記事は、使徒の働きで3回出てきます。前回は9章と22章でした。この3つの記事は、全く同じというわけではなく、それぞれ特徴があり、強調点があります。例えば、前のパウロの回心の記事では、アナニアが登場し、アナニアを通してパウロに神からの召しと使命が告げられたことになっていますが、今回、アナニアは登場しません。そして復活のイエスさまご自身が、パウロに直接語りかけ、福音宣教の使命を与えられたということが強調されています。今日は、私たちもイエスさまの直接的な語りかけを聞いていきたいと思います。12~13節をお読みいたします。   このような次第で、私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいましたが、その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。   パウロは、祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコに向かい、クリスチャンたちを迫害しようとしていたとあります。昔、「親分はイエス様」という映画がありました。やくざだった人が救われて、人生の親分が、組長からイエスさまに変わったという映画です。パウロも、ダマスコに向かう時には、祭司長たちから権限と委任を受けていたのですが、ダマスコ途上で救われて、親分が変わりました。イエスさまが、彼の親分になり、パウロに権限と委任を与えるお方になったのです。 さて、パウロがダマスコに向かう途中に、天からの光を見ました。私はパレスチナには行ったことがありませんが、インターネットで調べてみると、雨季と乾季があり、乾季の時には、昼間は灼熱の太陽が照り付け、非常に乾燥しているとありました。今、日本は真夏で、太陽がぎらぎらと照り付けていますが、「真昼に天からの光」と聞いて皆さんどう思うでしょうか?しかもそれは太陽よりも明るく輝いて、パウロと同行者たちの周りを照らしたというのです。想像を絶する明るさ、輝きです。そうでした。神は天地創造の初めに、「光よ、あれ!」とおっしゃったお方でした。第一ヨハネの1章5節では、「神は光であり、神には闇が全くない」とあります。神は光そのものです。全き光である神を前に、人は立っていられるでしょうか。罪や汚れを持つ人間が、一点の影も曇りもない神の前に立ちおおせる

マルタ島での出来事(使徒の働き28:1~10)

「マルタ島での出来事」 使徒の働き281~10 さて、2週間もの漂流生活が守られ、船に乗っていたパウロたち囚人も、ローマの兵士たちも、水夫たちも、276人全員が無事に島に打ち上げられました。この島の名はマルタ島。地図で確認しましょう。イタリアは目と鼻の先。もちろん嵐に巻き込まれて、漂流してここまで来たのですから、順調に船旅をするよりも時間はかかりましたし、失ったものも多かったと思いますが、それでもほぼ直線距離で、ここまで運ばれて来たようです。本来はクレタ島で冬の間を過ごして、それから船出するつもりでしたので、予定よりも早く、パウロが目指すローマに着くことになりました。11節を見ると、航海に適した時期になるまでもう3か月間マルタ島で過ごさなければいけなかったのですが、3か月後にクレタ島を出るのと、このマルタ島を出るのとでは、大きな時間差があります。しかも島の人たちは親切で、パウロたち一行にとてもよくしてくださり、また船出するときには、必要な物資を用意してくれたということですから、クレタ島の良い港や皆が冬を過ごしたがっていたフェニクスという港よりも快適に冬を過ごせたかもしれません。 神さまの導きは不思議です。私たちから見たら、嵐のように苦労が多くて、遠回りで、足踏みをしているようにしか見えない人生でも、神さまは、着実に導いてくださっている。前に進ませてくださっているのです。神さまは良いお方。私たちに良いものしかくださいません。皆さんは星野富弘さんを御存じだと思います。不慮の事故で、首から下が全く動かなくなり、口で筆を加えて、絵や詩をかいている詩人であり、絵描きです。彼の書いた「渡良瀬川」という詩をご存じでしょうか。少し長いですが、お読みいたします。 私は小さい頃、家の近くを流れる渡良瀬川から大切なことを教わっているように思う。 私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の頃だっただろう。 ガキ大将達につれられて、いつものように渡良瀬川に泳ぎに行った。 その日は増水して濁った水が流れていた。 流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、私はやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅いところで、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心に向かって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。 ところがその時、どうしたはずみか中央に行き