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天の父を知る(マタイの福音書6:9、7:9〜11)

「天の父を知る」(マタイ6:9、7:9~11)

齋藤五十三師

1.     天の父を十分には知らない

 本日の御言葉、マタイ7章9節から11節は、すぐ前の7節から8節の流れの中にあります

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 求めなさい、とイエスさまは私たちを励まします。「求めなさい。そうすれば与えられます」と。 原文のニュアンスを正確に伝えると、ここにあるのは粘り強さです。つまり、求め続けなさい。ただ求めるのではなく、ねばり強く、と。そういう励ましの中、イエスさまは11節で、天の父なる神がどのようなお方なのかを語っていくのです。 

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 このように7節から11節を通して読むと、一つのことに気づかされます。ここでは、私たちの信仰生活の中でも重要な、祈りの生活、祈り方が、問題にされているのです。

 簡単に言いましょう。私たちの祈りの在り方のどこかに課題があるのです。私たちには、祈ることにおいて、まだ足らないところがある。 だからイエスさまはここで「求め続けなさい」と励ましていくのです。 これは、実のところ、私たちが自分で思うほどには、祈り求めていないという現状の課題があってのことです。 ええっ、と思われるかもしれません。でも、実は、私たちは求めていない。イエスさまの目から見ればそうなのです。 自分で思っているほどには、求めていない。粘り強く、祈り求めではいない。その根本の原因は、天の父を十分には知らないということです。天の父が、どんなお方か。良いものを惜しみなく豊かに与える父であることを、私たちは十分には知っていない。それがあって、「求めなさい」と励ました後、イエスさまは9節以下で天の父を語り始める。 どうか一人一人胸に手を置いて考えて欲しい。自分は本当に天の父を知っているのだろうか。この父に本当に求めて来たのだろうかと。 

2.     日常生活の中で

  イエスさまはここで、天の父なる神がどのようなお方か、そのことを私たちに教えようと、あるたとえ話を出してきます。それは、普通、世の中の父親が自分の子どもに対してどのようであるのかという、きわめて日常的な話題でした。

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 これはイエスさまが得意とするたとえ話の一つです。でも、どうでしょう。 パンと石、魚と蛇が並んでいるこれらのたとえ話を見て、随分極端だなあと、思った方もあるかもしれない。でも、もしこれを極端なたとえだと思ったら間違いです。 そのように思うのは、当時のユダヤ人の食べるパンを見たことがないから。 ユダヤ人のパンは、石のように固かったらしい。見た感じも、石によく似ているんだとか。そう考えると、荒野の誘惑で、空腹のイエスさまに向かいサタンが、「石をパンに変えてみよ」とけしかけたのも、「なるほど」という感じがするでしょう。 魚と蛇も同様です。弟子のペテロやヤコブたち、彼らが昔、漁師だった頃に魚を獲ったガリラヤの湖では、まるでウナギのような、一見蛇にも似た、長い魚がよく取れただそうです。

 つまり、パンをくださいという子どもに、どこの親が石を上げるだろうか。 どこの親が魚の代わりに蛇を上げるだろうかという例えは、もともと、きわめて日常的な例え。ああなるほどと、これを聞いた誰もがよく分かるたとえ話だったのでした。イエスさまは、このようなたとえをキッカケに、天の父がどのようなお方かを教えていかれる。 

 この辺り、イエスさまは本当に上手だと思います。日常の中から、分かりやすい題材を用いては、神を信じるとはどういうことかを教えてくださる。 この他にもありますね。 空の鳥を見なさいとか、野の花を見てごらんとか、そういうイエスさまの話を聞いていると、私たちはハッとするのです。 普段の生活の中に、こんなにもたくさん、信仰について、神さまについて知ることのできるヒントが隠されているんだなあと。

 そういう意味で、信仰というのは、やはり日常的なことなのです。信仰生活は、何も日曜日の朝だけの特別な時間のことではない。また、聖書や書物を読んで知識を深めることだけが信仰の成長ではない。普段の生活、日常の中に絶えず、信仰を深めていくヒントがたくさん隠されている。神さまを知るためのいろんな手がかりは、普段の生活の中にもある。 

3.     目を上に上げて
とにかく、たとえ話の中でイエスさまは言われるのです。普通の父親というものは、自分の子どもが何かを求めれば、それが必要なもので、良いものなら、必ず与えるものだ、と。 これは、子どもをお育てになった経験のある方は、ウンウンと、実感としてうなずいてくださることだと思います。 親というものは、子どもに頼られると基本的には嬉しい。 子どもに頼られているんだなあと。 それで、これが欲しい、あれが欲しいと求められると、やっぱり嬉しいし、それをあげたいと思うのは親心。ましてや、意地悪をして石ころや蛇なんかを与えたりは決してしない。普通の親であれば。(ただ昨今、虐待など、いろんな問題のある親が、世の中でも問題になっていますね。私が申し上げるのは、あくまでも通常の親心の話です。)とにかく、親は、自分の子どもには、良いものを上げたいと思うもの。 

ただ、ここにある11節の言い方は、少し刺激的かもしれません。「あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもたちには良い物を与えることを知っている」と。 これを読んで、反発を覚える方もおられるかもしれません。 イエスさまは、私のことを「悪い者」と呼んでいるのか、と。 ここで言う「悪い者」、これは極道やヤクザ、いわゆる本物の悪人を指すわけではありません。 安心してください。ここで言う「悪い」とは、自分を可愛いと思う、自己中心的な思い。しかもそれは決して極端なものではなく、誰にでも当てはまる範囲の中でのことです。 つまり、イエスさまは、世の中の親は皆、基本、自分が可愛いいものだ、自己中心なのだと。 一般的によく、子どもに対する愛は、自己愛の現われだと言われますが、それで自分の子どもを特別に愛している。それが殆どの親なのだと。

 こういう説明を聞いても、それでもまだ、どことなく反発したい思いの人もいるかもしれません。 でも、冷静に考えるとやはりそうだと思う。普通の人というものは、やはり、その程度なのでしょう。 例えば、仮に飢饉で食べ物が不足すれば、よその子どもよりも、まず自分の子どもに食べさせたい。これは、普通の親です。もっと身近な例をあげましょうか。運動会や発表会で、わが子を応援しようと学校に行けば、自分の子どもが、よその子よりも可愛いと思うし、自分の子どもを特別に応援してしまう。これ、普通の親です。 やっぱり、人間は基本、自己中心。子どもに対する愛情もそう。私も含めて、、。 

 そういう人間の現実に気づかせた後、イエスさまは言葉を続けます。世の中のそういう自己中心で、不完全な親でさえ、自分の子どもには良い物を上げるのだから、と。 そして次です。 ましてや、天の父なる神さまなら、どうなのですか。考えてごらんなさいと。 こう言って、私たちの目をグンと上に、イエスさまは引き上げようとしていく。 

 たとえ話は、世の中の普通の親、世間一般の父親の姿から始まりました。普通の父親の姿は、「父」というものが、基本どんなものであるのかという点において、天の父を知るヒント、手がかりにはなるのです。 でも、要注意です。たとえヒントや手がかりになっても、世の中の父と天の父の間には、大きな違いがある。比べようもない違いがある。 だから世の中の普通の父親を見ながら、そのまま天の父を想像してもらっては困ります。 こんなもんじゃないんだからと。上を見上げてごらん。遥かにすぐれたお父様が天にはおられるよ、と。 それがイエスさまの訴えかけたいことであったのでした。 

 確かに、自分の肉親の父がどのようであるか。 それは、その人が、天の父をどのように思い描くかにも大きな影響を与えると言われます。無意識にではあるけれども、確実に、地上の父と天の父の顔がダブって見える部分がある。知らず知らずに重ねてしまう。でも、本日は口をすっぱくして言いたい。皆さん、天の父は、私たちが経験したことのない、素晴らしい、ただ素晴らしい、愛と恵みに満ちたお方なのです。特に昨今は、世の中も複雑で、幸福な父親と子どもの関係というものが、稀な時代になっていますね。父親との関係に傷を抱えている人も少なくない時代です。だからこそ、余計に私は言いたい。 天の父は、本当にすばらしい。私たちの想像や期待を超えた、はるかに素晴らしいお方なのです。

私も、自分の子どもたちが小さい頃によく話したものです。父である私を見て、天のお父様がこんなものだと思ったら大違い。天のお父様は、寒くなる駄洒落を言わないし、子どもとの約束も忘れない。そして、不用意なことを言って、傷つけることもない。私たちの話をうわの空で聞くこともない。

そうです。皆さんにも訴えたいと思います。天の父は、私たち、神の子どもが心の中で何を願い、何を悩んでいるか、いつも注意深く耳を傾けている。そして、必要なものを差し出したいと準備している。それが天のお父様。だからこそ、この父を、皆さんと一緒にいよいよ深く知っていきたいと願うのです。 

結び
 天の父を深く知る時に、私たちの祈りは自然と変わっていきます。天の父をどのようにイメージしているかによって、私たちの祈りは変わっていく。 お祈りというのは、元々はとてもシンプルなものです。祈りをあんまり難しく考えないでください。でも、もう一つ申し上げたい。祈りはシンプルなものですが、それでも、天の父を豊かに知るときに、私たちの祈りは変えられていく。祈りが深くなっていくのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」 まずは難しいことを考えず、すばらしい天の父を思い描きながら、単純に祈り求めたいと願います。天の父は、求める子どもたちに必ず良いものをくださる。 このことを心に留めながら、まずは単純に、幼子のように祈り求めてゆきたいと願うのです。

 

本日の結びとして、週報にあるハイデルベルク信仰問答の問120を一緒に告白したいと思います。 

問 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。

答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとなさらない、ということです。 

お祈りします。

天のいます、私たちのお父さま。どうか、いよいよあなたを深く知ることができますように。その中で、私たちが祈りの生活において、昨日よりも今日、今日よりも明日と、神の子どもとして一歩一歩成長していくことができますように。救い主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。


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