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彼方の国より(マタイ2:1~12)


今日は主の「公現の主日」です。正確には1月6日が「公現日」や「顕現日」と言い、1月6日に一番近い主日を公現の主日と言うようです。この日は、東方の博士たちが、イエス・キリストを礼拝したのにちなんで、異邦人にもキリストが現れてくださったことを記念しお祝いします。こうしてこの後、公現後第一主日、第二主日と続いて、それが終わって、受難節、イースターと続くわけです。今日の説教題と説教個所を見て、お正月にクリスマスのお話し?と思った方もいらっしゃると思いますが、教会の暦(こよみ)からすると、今主日は東方の博士のお話をするのが一番ふさわしい日なのです。

 

1.     ユダヤ人の王としてお生まれになった方

さて、博士たちは東の国で不思議な星を見たので、エルサレムにやって来ました。博士とは言っても、天文学者というよりは、むしろ占星術師と言った方がいいでしょう。いわゆる星占いをする人です。しかも彼らは東の国に住んでいました。東の国と言えば、バビロニア帝国、アッシリア帝国、ペルシア帝国と、どれをとっても昔からイスラエルを苦しめ、制圧してきた国々です。イスラエルは歴史の中で絶えず、東の国の脅威にさらされてきたのです。

神さまの選びは不思議ではないでしょうか。キリストの誕生は、ほんの一握りの人にしか知らされなかったにも関わらず、遠く離れた東の国、歴史の中でイスラエルと絶えず敵対関係にあった国の、しかもイスラエルでは忌み嫌われ、禁じられてきた占い師たちに知らされるというのはどういうことでしょうか。これはイエス・キリストが、ユダヤという一国の救い主ではなく、世界の救い主であることを表しています。また、国や身分や職業や律法の枠さえ超えた救い主なのです。

こうして不思議な星を見た彼らは、星を頼りに西へ西へと旅をしました。途中盗賊や野獣などに襲われる可能性もありますから、彼らはキャラバン隊を組んで、たくさんの食料と生活必需品を積んで、ラクダに乗って長い時間をかけて旅をしたことでしょう。そこまでする目的は何だったのでしょうか。聖書を見ると、それは「ユダヤ人の王を礼拝するため」でした。これは驚きです。どうしてローマの属国である小さな国ユダヤに王が生まれたからと言って、遠く東の国から出向いていく必要があったのでしょうか。彼らは知っていたとか思えません。この「ユダヤ人の王」は、すっかり落ちぶれてしまったローマの属国の王であるだけでなく、世界を救い、治める王であるということを。彼らが見た星は、確かにそのことを示していたのです。この博士たちは、「ユダヤ人の王」と言いながら、そのお方はユダヤ人にとどまらず世界を救う王、いやそれ以上の存在、神だと知っていたのです。ですから彼らは、「私たちは礼拝するために来た」と言っているのです。

 

2.     幼子イエス・キリスト礼拝する

博士たちは、長旅をしてやっとの思いでエルサレムに到着しました。そして真っ先に、エルサレムにあるヘロデ王の宮殿に向かったのです。「ユダヤ人の王」ですから、しかるべきところにおられるという先入観からでした。ところが宮殿にそのお方はいらっしゃいませんでした。ヘロデ王は、「ユダヤ人の王」と聞いて動揺し、顔色が変わりました。そしてさっそく、祭司長や律法学者たちに命じて、キリストの生まれるところをリサーチさせました。聖書の預言によると、その場所はユダヤのベツレヘムということでした。ベツレヘムは偉大な王ダビデの出身地ということで伝統のある町でしたが、その当時は小さな町で、せいぜい100世帯ぐらいしかなかったと言われています。そして、小さな町とは言っても、外国人の彼らにとっては未知の世界、どうやって救い主を見つけ出していいものかと思いつつ、それでもベツレヘムの方向に歩き始めました。すると東の国で見たあの不思議な星がまた現れ、彼らを先導したのです。彼らは大喜びでその星について行き、とうとう幼子イエスさまがいらっしゃるところにたどり着きました。彼らは「家に入り」ました。家畜小屋ではありません。東の国で星を見て、準備し、長い旅をしてきたので、マリアとヨセフ、そして赤ちゃんのイエスさまは、すでに家畜小屋を出て、貧しくとも普通の家に住みはじめていたようです。後にヘロデ王が、幼子イエスさまを殺す目的で、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにしたことからも、2歳以下というのが、博士たちから聞き出した情報をもとに割り出した多少幅を持たせた年齢だったと言えます。

家に入った博士たちは、おそらくよちよち歩きのイエスさまに出会いました。そして、ひれ伏して幼子イエスさまを礼拝したのです。彼らにとっては、このまだ幼いイエスさまこそ「ユダヤ人の王」であり、やがて世界を救う「世界の救い主」だったのです。

3.     贈り物を献げる博士たち

こうして彼らはこの王に贈り物をささげました。黄金、乳香、没薬がその贈り物でした。これらは王、祭司、預言者というキリストの三職(三つの役割り)を表していると言われます。黄金は、まさしく高価な、王にふさわしい贈り物でした。乳香は、祭司が祭儀の時に香を焚く儀式を連想させます。私たちのためにとりなしをしてくださる大祭司キリストを表しています。そして没薬は、死体に塗られる防腐剤のような薬でしたから、まさしくイエスさまがやがて十字架に架かって死なれるという預言を意味しているのです。博士たちの三つの「宝」は、彼らが「世界の王」にふさわしいと思い、用意した贈り物だったのですが、それは、はからずもイエスさまの果たされる役割りを表す贈り物だったのです。

 

結論

12節「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

博士たちは、東の国へと帰って行きました。待っているのは以前と変わらない日常です。変わらない国、文化、家族、変わらない友人と変わらない仕事が待ち受けています。しかし救い主と出会い、礼拝した彼らの帰り道は、以前とは違う道でした。彼らが来たときは、ユダヤ人の王は、首都エルサレムの宮殿におられるはずだと、この世の富と力と権力を持ったヘロデのところへ行きました。しかし彼らが聞き従うべき相手は、今はヘロデではありません。夢で語られた神さま、聖霊の導きこそ、彼らが従うべきお方となり、道となったのです。

新年を迎えた私たち。年が新しくなっても、私たちの置かれている環境、日常生活は何も変わらないでしょう。けれども神さまの子どもとなり、「主(従う相手)」が自分や人、物質などではなくなり、主イエス・キリストになり、聖霊を通してイエスさまに聴く生き方に変えられるときに、私たちの一年は変えられます。すべては新しくなるのです。また私たちは毎週の礼拝ごとに新しくされ、毎日のみことばと祈りの時間ごとに新しくされるのです。それだけではありません。私たちには、もっと彼方の国、天の御国に望みを置く神の民です。その旅路には平安と喜びに満ちています。新しい年、みなさんも別の道から帰って行かれますように。お祈りします。


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