「悪魔の試み」
マタイの福音書4:1~11
教会の暦は、四旬節(レント、受難節)第三主日です。イエスさまの受難と十字架を覚える時期です。今日はイエスさまの最初の受難とも言える、荒野での誘惑の聖書箇所から学びたいと思います。
この記事は、マタイ、マルコ、ルカすべてに記されているのですが、どれもイエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた記事の後に書かれています。イエスさまが洗礼を受けられた光景を思い浮かべたことがあるでしょうか。3章の16,17節にはこうあります。「すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』」なんて美しい光景でしょうか。聖霊が鳩のようにイエスさまに降り、天から父なる神さまの声。麗しい三位一体の神さまの完全な一致と調和、愛の関係がここに描かれています。そしてその直後の悪魔の誘惑でした。これは三位一体の神の関係を壊そうとする悪魔の挑戦に他なりません。
さて、みなさんは悪魔の存在を信じているでしょうか。もし、信じていないとしたら、それこそ悪魔の策略にまんまと引っかかっている証拠かもしれません。「悪魔」の意味は、「中傷者、試みる者」です。最後にイエスさまは、「下がれ、サタン!」と呼びますが、この「サタン」は、「敵、反対者、攻撃する者」の意味です。悪魔は、神の子がこの地上に生まれ、まさに神の救いのご計画をその従順をもって実行しようとしているのを見て、何とか邪魔をして、その救いのご計画をとん挫させようとします。そのために、父なる神さまと子なる神さまの愛の関係、父なる神さまのみこころに従おうとするその御子イエスさまの決意をくじこうとします。そしてなんとこのことは、父なる神さまのみこころでもありました。ですから、「御霊に導かれて」と書かれているのです。この試みをイエスさまは乗り越える必要があった、そして父なる神さまは、イエスさまは必ず、この悪魔の誘惑に勝利されて、従順を貫いてくれると信じて、この場に送り込んだのです。
さて、荒野の四十日と聞くと、私たちは旧約聖書出エジプトを思い出します。イスラエルの民は、神の力強い御手に導かれ、荒野を40年旅します。そして彼らはいくつかの悪魔の誘惑を受けます。まず出てきたのは、「食べること」に関する誘惑でした。神は彼らにマナという完全食を与えました。それは味よし、食感よし、おそらく人が生きるために必要な栄養素が全て含まれていた完全食でした。水も食べ物もない荒野、飢え渇いて死んでも仕方がない状況で、こんな素晴らしい食べ物が与えられていたのに、イスラエルの民は、そのうち不平を言い始めました。民数記にはこうあります。「彼らは激しい欲望にかられ、大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。』」(民数記11:4-6)こうして食べ物に関する誘惑に負けました。
では、舞台をもとに戻して、イエスさまを見てみましょう。悪魔は40日の断食のあと、空腹を覚えていたイエスさまに、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と言いました。これはこういう意味です。「あなたは神の子です。一切の権能と力があるのでしょう。人は食べないと死ぬんですよ。さあ、あなたのその力を使って、石をパンに変えて食べたらいいでしょう。」悪魔は一見非常にまともなことを言っています。しかし、イエスさまは悪魔のわな、問題の本質を見抜きました。イエスさまは何も体のこと、物質的なことを軽んじているわけではありません。そうではなくて、これは私たちの必要を満たすのは誰なのか、また私たちの必要を何で満たすのかという問題なのです。神さまは私たちの必要をご存知で、その必要を満たすことがおできになります。ですから私たちはそれを信頼すればいいのです。そして人は、肉体の必要、物質的な必要が満たされれば、それで満足を得ることができると勘違いしがちですが、実はそうではありません。イスラエルの民はどうだったでしょうか。神は荒野で、彼らにマナを与え、それで十分だったはずなのに、イスラエルの民は、こんなの食べ飽きたと文句を言い、肉が欲しい、肉をくれと吠えるのです。私たちだってそうです。もっとたくさん、もっとよいものをと、がつがつしてはいないでしょうか。人の欲求、欲望は飽くことを知りません。そして、その欲望が満たされれば満たされるほど、実は心の渇きは増し、私たちの魂、心はどんどんやせ細って、栄養失調になって行くのです。私たちは神に似せて造られたので、物質的なものでは、また人が与えるようなものでは決して満たされないのです。神しか、神のみことばしか私たちを完全に満たすことはできません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というのは、そういうことなのです。
さて、一つ目の誘惑が失敗すると、悪魔はすぐに二つ目の誘惑を持ち出してきました。悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」イエスさまが聖書を用いて対抗するものですから、悪魔も聖書を用いて誘惑してきます。そして常套句を使います。「あながたが神の子なら」。さっきの誘惑でも悪魔は同じことを言いました。それは、神としての力があるなら、それを使えというものでした。今回の「神の子なら」は、「あなたが神の子なら、神はあなたを守るだろう。ここから身を投げたって死にはしない。本当に神はあなたを愛しているのか、試してごらん。」というものでした。
皆さんは愛を試されたことがあるでしょうか。例えば、子どもに「お母さんが私を本当に愛しているなら証拠を見せて!」と言われたらどう思いますか。私なら悲しくなります。こんなに愛しているのに、この子は私の愛を信頼していない、そう思うからです。イスラエルの民はどうだったでしょうか。荒野の40年で何度神を試みたでしょうか。代表的なのは、出エジプト記17章の出来事です。イスラエルの民がレフィディムというところまで来たとき、民の飲み水がありませんでした。民はモーセに食ってかかり、「われわれに飲む水を与えよ」と言いました。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言いました。けれども民は続けました。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」というのです。こうして神の民は、飲み水のことで神を試みたのです。主は私たちの中におられるのか、おられないのか、神がいるならなんでこんなことが起こるのかと問うたのです。このような問いを私たちはよく耳します。ひょっとしたら私たちの今の問いかもしれません。「神がいるならなんで世の中にこんな不条理なことが起こるんだ。」「なんで戦争があり、病があり、飢餓や貧富の差、暴力があるのか」多くの人が、神にそう問うのです。しかしこれは、神を試みることです。なぜなら、根底に神への不信感があるからです。神の愛と正義、神は善いお方だということを疑っているからです。確かに私たちは、世の中の矛盾、不条理を説明できません。なぜ神がこの状態を許しておられるのか理解できません。でも、私は神を信じます。神の愛を、神が善いお方であることを私は疑いません。そして神の守りと救いを信じるのです。それが二つ目の悪魔の試みに対してのイエスさまの答えでした。
さて、3つ目の誘惑です。悪魔は、神の子として父への従順を貫こうとしているイエスさまに言います。「あなた、神でしょ。神として君臨し、あなたの王国を築いたらいいじゃないですか。最終的には神の国を完成させたいんでしょ?そんなみじめな人間になって、苦しみで満ちた地上での生涯を送り、愛を注いだ人々に裏切られ、最後は殺されるなんて馬鹿げてる。あなたの父は、そんなやり方をするのかもしれないが、私の方法は違う。もっと簡単。もしひれ伏して私を拝むなら、この世のすべての王国とその栄華をすべてあなたにあげよう」
イスラエルの民も荒野で神ではないものを拝むという罪を犯しました。彼らは自分たちを導いてくれる神を捨てて、金の子牛を作り、「これが我々をエジプトから救った神だ」と言って、その前に跪いて拝んだのです。イエスさまは、この誘惑に対して、いい加減にしろとばかりに叫びます。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
出エジプトの時、神の民イスラエルは、このような3つの悪魔の誘惑について、連戦連敗でした。欲に負け、神を試み、偶像礼拝の罪を犯しました。けれども神の子イエス・キリストは、悪魔の誘惑にすべて打ち勝ってくださったのです。私たち人間は、アダムが罪を犯したとき以来、神との関係がすでに壊れています。そしてサタンは第二のアダムであるイエスさまもと父なる神さまとの関係も壊そうとしました。けれどもイエスさまは、人として、この誘惑に打ち勝ち、神さまとの関係をより強くして、完全に神に従い、受難と十字架の道を歩んで行かれます。
そして悪魔の誘惑はこれで終わりではありませんでした。あと少しで救いのわざが完成しようとするその時に、もう一度誘惑をします。4章11節には「すると悪魔はイエスを離れた」とありますが、ルカの並行記事には「しばらくの間イエスから離れた。」とあります。しばらく時間を置いて、悪魔は十字架上のやはり、イエスさまが究極に弱っていらっしゃるときにイエスさまを試みるのです。人々の口を通して、「神の子なら、十字架から降りて来ればいいじゃないか」と誘惑しました。この時も、もちろんイエスさまはそれをすることができたのにそれをしませんでした。十字架から降りて、敵を滅ぼし、地上の王として君臨し、ご自分の帝国を作ることもできた。しかし、イエスさまは、この試みにも勝利されたのです。そして十字架で私たちの罪を背負って死んでくださいました。父なる神さまとへのゆるぎない信頼関係は、最後まで揺るがず、従順を貫き通されたのです。そして、私たちの救いの道を完成させてくださいました。こうして私たちと神さまとの壊れてしまっている関係を回復させてくださったのです。そして私たちはイエスさまとつながることによって、イエスさまの荒野での勝利を自分のものとすることができました。私たちは足らないものがあっても、ほしいものが手に入らなくても、みことばによって満たされることを知っているので、がつがつして生きなくてもいい。神さまの愛を知ってるから、信じているから、神さまを試したりなんかしない。神さまだけを主とし、神さまだけを礼拝し、他のものに頼ったり、支配されたりしない。そして最後、悪魔の誘惑に勝利したイエスさまに「御使いたちが近づいて来て仕えた」ように、私たちもよみがえりの時、御使いに囲まれ、イエスさまが近づいて来られ、私たちの涙を拭い、その労をねぎらってくださることでしょう。祈ります。
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