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エペソでの大騒動(使徒の働き19:21〜40)

「エペソでの大騒動」

使徒の働き19:21~40

第三次伝道旅行の主な宣教地はエペソですが、このエペソでの約3年に渡る伝道が、終わろうとしています。エペソでは、はじめこそはユダヤ人の会堂から追い出されたこともありましたが、その後は比較的順調で、パウロは、ティラノの講堂を拠点にして毎日のように聖書を教えることができました。こうして多くのクリスチャンが生まれ、彼らも育って伝道できるようになったので、エペソだけでなく、広くアジア全土に福音が宣べ伝えられていきました。こうしてパウロは、そろそろエペソを離れることを考え、次の伝道計画へ向かう準備を始めました。それは聖霊によって与えられたビジョンでした。パウロはまず、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行こうと考えました。なぜかと言うと、困窮しているエルサレムに支援金を送りたかったからのです。だからでしょうか、22節にあるように、先にテモテとエラストをマケドニアに送りました。そしてマケドニアで献金を集めさせたようです。そして自分も後を追ってマケドニア行って、献金を受け取り、エルサレムにその献金を携えて上って行くという計画だったようです。そしてパウロにはすでに次の伝道旅行の計画も立て始めました。それはエルサレムを出発してローマに行くというものでした。当時地中海一帯を支配していたローマに福音を携えて行くということは、パウロにとって「地の果て」の宣教だったのかもしれません。そしてそこがおそらく最後の宣教地になるのではないか…、そんな予感もあったかもしれません。

そんな今後の計画を思い描き始めたころ、エペソ伝道最後の試練とも言える出来事が起こります。23節「そのころ、この道のことで、大変な騒ぎが起こった」とあります。この騒動が起こったいきさつを説明する前に、この個所で何度も出て来る「アルテミス」「アルテミス神殿」について、少し補足説明をすることにしましょう。

「アルテミス」というのはギリシャ神話のゼウス神の双子の娘のうちの一人で、もともとは狩猟の女神、出産と肥沃の守護者であり、純潔と処女性の象徴として崇拝されてきた女神ですが、それが古く小アジアで崇拝されてきた土着の母神と混ざって、豊穣の女神としてアジア全土に広まっていったようです。この使徒19章の時代には、世界30か所以上で礼拝が行われていたというのですから、非常に力のある宗教だったことがわかります。そしてその総本山ともいえるアルテミス神殿が、ここエペソにありました。この神殿は巨大で豪華絢爛、古代の七不思議のひとつとも言われる建造物です。ですから、アルテミスの月(太陽暦の3-4月)には、盛大な祭りが催され、近隣諸国から多くの人々がこのエペソを訪れました。しかしながらその祭りの内容は、非常に乱れており、神殿売春を伴うようなものだったようです。

そんなアルテミス信仰の拠点ともいえるエペソで、多くの回心者が起こされたというのは、今更ながらすごいことだと思わされるのですが、クリスチャン勢力が増えるにつれ、アルテミス信仰を持つ人々が危機感を持つようになってきました。なにせ回心した人々が魔術の本などを焼き捨てて、その額銀貨5万枚(300万円)と言いますから、そちら側の人としては心中穏やかではないでしょう。そしてとうとうある日、デメテリオという銀細工職人組合の長のような人が、これは黙っておれんとばかりに立ち上がりました。デメテリオという名前は「デー・メトリオ」と言い「農業の女神(地母神)に属する男」という意味で、銀製のアルテミス神殿の模型やいわゆるアルテミスのご神体を作製して、銀細工人たちにかなりの収入を得させていました。このデメテリオが言いました。「皆さん。ご承知のとおり、私たちが繁盛しているのはこの仕事のおかげです。ところが、見聞きしているように、あのパウロが、手で造った物は神ではないと言って、エペソだけでなく、アジアのほぼ全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、迷わせてしまいました。これでは、私たちの仕事の評判が悪くなる恐れがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの神殿も軽んじられ、全アジア、全世界が拝むこの女神のご威光さえも失われそうです。」(25-27節)彼の主張をまとめると以下のようなことです。①我々が繁盛しているのはアルテミスのおかげ。②パウロが手で造った物は神ではないと人々を説得。③我々の仕事の評判が悪くなる④女神アルテミスの神殿が軽んじられ、ご威光失う。そしてこのデメテリオの演説を聞いて興奮した人々が一斉に叫び出しました。「偉大なるかな、エペソのアルテミス!」。そしてパウロの同行者マケドニア人ガイオとアリスタルコを捕えて、彼らを引いて劇場になだれ込みました。この劇場、なんと24,500人もの人々を収容できる大きなものだったようです。騒ぎを聞きつけた大勢のやじうまたちが次々とこの劇場になだれ込み、一種の集団ヒステリー、パニック現象が起こりました。32節を見ると「人々はそれぞれ違ったことを叫んでいた」とあります。実際、集会は混乱状態で、「大多数の人たちは、何のために集まっていたのかさえ知らなかった」のです。人々が劇場になだれ込んでいるとき、パウロは劇場の外にいました。そして自分がこの騒動の原因だと知った彼は、劇場の中に入って行こうとしました。しかし、人々は集団ヒステリー状態、あまりに危険な状態だったので、弟子たちをはじめパウロの友人でアジア州の高官たちも彼を引き止め、中に入って行くなとおそらく羽交い絞めにするようにして止めたので、パウロは中に入って行くのを断念しました。たまたま劇場の中にアレクサンドロという人がいました。彼は、イエスさまの十字架を無理やり担がされたクレネ人シモンの息子ではないかと言われています。そして彼がユダヤ人に押し出されて前に出ました。彼は勇敢にも手振り身振りで、集まった会衆に弁明しようとしましたが、彼がユダヤ人だとわかると、人々は彼を拒絶します。そしてまたも「偉大なるかな、エペソのアルテミス!」と二時間ほど叫び続けたのです。

この騒動がどうやっておさまったのかというと、町の書記官が立ち上がったからでした。彼は言いました。「エペソの皆さん。エペソの町が、偉大な女神アルテミスと、天から下ったご神体との守護者であることを知らない人が、だれかいるでしょうか。これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。」ここまで聞いて、あれほどパニックになって騒いでいた群集が静まりました。「そうだよ、偉大なのは我らがアルテミスだ。この神さまのおかげで俺たちはおまんまが食えてるんだ」というところでしょうか。書記官は続けます。「皆さんは、この人たちをここに連れて来ましたが、彼らは神殿を汚した者でも、私たちの女神を冒涜した者でもありません。」おそらくこの書記官は、ここ2年パウロたちのしていることを注意して見ていたのでしょう。そして何かあればすぐに乗り出して行って町から退去させるなり、罰するなりしようと思って見ていたのです。でも彼らは他宗教に失礼なことを言ったり、やったりなどはしていない。確かにそうでした。ただ自分たちが信じている神を宣べ伝えていただけなのです。書記官は言います。「ですから、もしデメテリオと仲間の職人たちが、だれかに対して苦情があるなら、裁判も開かれるし地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動を弁護できません。」こう言って、の集まりを解散させました。これにて一件落着~!遠山の金さんのようです。

さて、最後にこのエペソでの大騒動の原因、デメテリオがパウロたちに抗議をした中心的な理由は何だったのかを考えてみましょう。皆さんはもうおわかりでしょう。それは実は信仰の問題というより、自分たちの利益が損なわれることへの不安だったのです。デメテリオは「女神アルテミスの神殿が軽んじられ、ご威光失う」といかにも信心深そうに言っていますが、それは大義名分。彼らはただ、アルテミスを金儲けのために利用しているに過ぎないなのです。そして実は多くの宗教は自分の欲求を満たすために造り出され、利用されていると言えるでしょう。

月一回のバイブルクラスで私たちは羽仁もと子著作集「信仰篇」から学んでいますが、先週読んだところにこんなことが書いてありました。「人の信仰の対象(羽仁氏はこれを「ご本尊」と言っています)は、結局のところ二者択一なのだ」と。つまり「創造主」か「被造物」かだというのです。被造物が信仰の対象になるということは、つまり人や動物や物が神になる、あるいは、神が人や動物や物になるということです。そして、「結局、人が信仰の対象としているものは、①我儘②虚栄③趣味④金⑤世間⑥夫⑦子ども⑧思想⑨道徳⑩理想⑪幻。つまり人間及び人間の手や心で作り出しているもの」だと言うのです。確かにアルテミスは、人の願望や欲望の産物でした。そして羽仁もと子が言うには、一見良いもののように見える夫や子ども、思想や道徳、理想、幻(ビジョン)でさえ、ともすると自分の欲望を満たすための偶像になってしまうのだと言います。そして自分のこうあってほしい、こうしてほしいをそこに投影してしまうので、それらに過度に依存してしまったり、支配されてしまったりするのです。創造主は私たちの欲望の産物ではありません。このお方は永遠の初めからあるお方。私たちを造ったお方です。もちろんこのお方は、私たちの願いも聞いてくださいます。けれどもそれは人に動かされてそうするのではありません。神は人にコントロールされるお方ではありません。神が祈りを聞いてくださるときには、私たちを愛するがゆえに、ただ恵みによって、神がよしと判断されたものをくださるのです。私たちは正しく神を知る必要があります。そして神を偶像化することなく、自分の欲望を満たすために利用するのではなく、主として従い、心からの礼拝をささげましょう。


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