みなさん覚えておられるでしょうか。第二伝道旅行の終わりにエペソに寄ったパウロは、船の碇泊中に一度だけ、ユダヤ人の会堂で説教をする機会が与えられました。その時のパウロの説教が興味深かったせいか、人々はもっと長くエペソに留まって話を聞かせてほしいと頼んだのですが、パウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って、別れを告げ、エペソから船出したのでした。
そして今回、パウロは今度こそ腰を据えて伝道しようと、再びエペソを訪れました。そして毎週安息日ごとに会堂で「神の国」について語ったのです。ところが、はじめのころこそ喜んでパウロの話しを聞いていた人々も、これはちょっと伝統的なユダヤ教とは違うぞと気づき始め、ある人たちは、会衆の前でパウロの語るキリストの福音を悪く言い始めました。そこでパウロはとうとう会堂での宣教を打ち切ることにしたのです。たった3ヶ月でしたが、それでも今までに比べれば長い方なのでした。
この後、彼らが集まるようになったのはティラノと呼ばれる講堂でした。ティラノというのは人の名前ですが、この人が講堂の家主なのか、この講堂で講義をする先生の名前かなのかは不明です。ちなみに「講堂」という言葉は「スコレー」と言って「スクール」の語源になっている言葉です。ある資料によると、講堂は朝比較的早い時間にオープンし、11時には一旦終了。お昼休みに入り、休みは夕方4時まで続いたそうです。まあ、学問自体、金持ちの道楽みたいな時代ですから、そんなものなんでしょう。こうしてパウロは、朝早くから11時まで働いて、11時から夕方4時まで毎日講堂でバイブルスタディ―をし、夕方それが終わると仕事にもどるという、そんな生活をしていたようです。こうしてティラノの講堂では毎日聖書を教えられるので、伝道はどんどん進みました。そしてそんな宣教活動を2年も続けているうちに、アジアに住む人々が皆、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞くことができました。その人が信じるかどうかは聖霊のなせる業です。でも聞かせることは私たちにゆだねられています。私たち新船橋キリスト教会も、あらゆる機会を用いて地域の人々に福音を聞かせていきたいものです。
さて、このような福音のパンデミックは、ことばの伝道によるものだけではなかったようです。パウロの手によって、驚くべき力あるわざが行われたことも伝道が進んだ要因になりました。なんと彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛け(パウロは天幕職人だったので)を病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行ったというのです。こうしてみことばと、力あるわざによって、多くの人が信仰に入りました。
しかしながら、すべてが順調だったわけではありません。ユダヤ人の巡回祈祷師と呼ばれる人たちがパウロのまねをし始めたのです。彼らは悪霊祓いをして生計をたてていたプロの祈祷師(神官や巫女さんのような人たち?)でした。聖書には「ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子」とありますが、祭司の家系に「スケワ」との名前はないので、彼らがそう名乗っていただけという可能性が高いようです。とにかく彼らは、パウロがあまりに力あるわざを行うものですから、「どれ我々も主イエスの名とやらを唱えてみよう」ということで、悪霊につかれている人に向かって「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。この人から出て行け!」とやってみたのです。すると大変なことが起こりました。悪霊につかれた人が、彼らに向き直って言うのです。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ!」そして、その悪霊につかれている人は逆に祈祷師らに飛びかかり、皆をおさえつけ、打ち負かし、裸にして、傷を負わせ、その家から追い出したというのです。
今の時代、当時のようなリアルな悪霊に憑かれている人を見ることはほとんどありませんが、だからと言って、リアルな悪霊の働きがないわけではありません。特に占いやお祓いには気を付けてください。私が大学生ぐらいのときだったとき、母教会の教会学校に来ている小学生の女の子と彼女の友だちが、放課後コックリさんをやっていました。すると一人の女の子が、いきなり男のような低い声を出して、汚い言葉で叫び出したのだそうです。いっしょにコックリさんをやっていた子どもたちはこわくなってしまったのですが、教会学校のお友だちは、思い立ってその子を連れて教会にやって来ました。その時牧師の父は留守で、母だけが教会にいました。母は、はじめてことで驚いたのですが、聖書にあるように「主イエス・キリストの御名によって命じる、悪霊よ出て行け!」と祈ったそうです。するとその子は正気を取り戻し、元気に帰って行きました。確かに「イエスの名」には力があります。悪霊どもは「イエスの名」の権威の前に服従するのです。けれどもここで注意しなければいけないのは、「イエスの名」は呪文でもまじないもないということです。また、この名を使えば自動的にこうなる、というような方程式でもありません。イエスさまは、イエスさまを人格的に知る者、つまりクリスチャンに御名を用いる権威を託されています。イエスさまは弟子たちを伝道旅行に派遣するときに、彼らに病をいやし、悪霊を追い出す権威を授けられました。またイエスさまが天に帰られるときに、集まっていた弟子たちに、やはり同じ権威を授けたのです。そしてこのような権威は、私たちにも授けられています。ただ悪霊は今の時代、もっと巧妙に働いて、私たちをイエスさまから引き離そうとします。時に天使に扮して私たちを誘惑します。ですから私たちは、悪霊の働きを鋭く見分け、それこそ「イエスさまの名」による祈りによって、悪霊を遠ざけなければいけません。
さて、この出来事は、エペソに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡りました。そして「人々は恐れを抱き、主イエスの名をあがめるようになった」とあります。そして信仰を持った彼らは、今まで神ではないものを神とし、頼ってきた行為を告白し、自分たちが頼りにしてきた魔術の書物などを持って来て、皆の前で焼き捨てました。その値段を合計すると、銀貨5万枚、日本円では300万円にも及ぶ金額になったということです。なぜ焼いたのでしょうか。それはそれら魔術の書物が彼らにとってもはや無価値になったからです。また、一切の悪霊との関係を断ち切りたいと思ったからでしょう。彼らの以前の状態は、私たちの以前の状態と同じです。縁起がいいとか悪いとか、運気が上がるとか下がるとか、方角がどうだとか、名前の画数がどうだとか、今日のラッキーカラーだとか、星座がどうだとか、祟りだとか、そんなことに振り回されて生きていました。けれども、もうそんなものに支配されない。もうそんなものにおびえなくていい。救われた私たちには、この世のすべてを愛をもってご支配くださっている神のものとされたのですから、このお方に頼って生きて行けばいいのです。こうして悪霊に関係あるすべての物を処分した時に、本当の自由がやって来ました。そして今まで以上に、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていったのです!
最後にまとめとして「神の御名」のトリセツ(取り扱い説明書)について考えてみましょう。それは十戒の第三戒と主の祈りにあります。正確にはこの「御名」は、どちらも直接は「父なる神の御名」のことですが、イエスさまは、父の名において来臨し、人々にその名を知らせ、その名の栄光を現したお方ですので、イエスの名は父なる神の名に等しい権威を持っているというのが前提です。
十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりにとなえてはならない」です。ハイデルベルグ信仰問答問99では、この命令の意味を非常に的確に説明しています。「…要するに私たちが恐れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いないということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです」。最近の若い人たちは、誰かが何かすごい事をしたときに「神!」「神対応」と言います。そんな使い方にも注意したいところです。私たちは、神への恐れと敬虔によらないでは、神の聖なる御名を用いないようにしましょう。そして正しく御名を告白し、神に呼びかけましょう。
そして「主の祈り」です。主の祈りには6つのお願いがありますが、その先頭にくる祈りが、「御名をあがめさせたまえ」です。こちらの意味もハイデルベルグ信仰問答問122にきれいにまとめてあります。「第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、賛美できるようにさせてください、ということ。第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ賛美されるようにしてください、ということです。」神の名はあがめられ、賛美を受けるのがふさわしい。私たちは、「イエスの名」によって召し出され、救われた者として、私たちの言動を通して、神が栄光を受けるように、賛美されるように、あがめられるように生きていきたいと思うのです。
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