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ささげる恵み(第二コリント8:1〜5)

聖書箇所:Ⅱコリント8:1~5

説教題:「ささげる恵み」

主題:私たちは献げることで恵みを受け、クリスチャンとして成長していく

説教者:那須 孔明 実習生

 

2Cor. 8:1 

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがた

に知らせようと思います。

2Cor. 8:2 

彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあ                 ふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

2Cor. 8:3 

私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、

2Cor. 8:4 

聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。

2Cor. 8:5 

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、                私たちにも委ねてくれました。

 

始めに

 

 新船橋教会の皆さま、おはようございます。今日このようにして皆さまと共にみことばを味わう機会が与えられたことを感謝します。先週の週報にあった説教題を変更しました。説教題は「ささげる恵み」です。

 今日のみことばは献金について扱っています。

 「お金の話」と聞くと、身構える方もおられると思います。先々週の証でも話しましたが、私も教会に行き始めた頃、お金を搾り取られないかということが一番の心配事でした。

 しかし、聖書は、お金を取り扱うことを信仰の事柄として扱っています。ですから、この話題を避けて通ることはできません。

 私たちの信仰は献金によって試されます。献金の時間に財布に小銭が無くて、1000円を献金するか悩む。これは私の実体験ですが、似たような思いをされた方もおられるのではないかと思います。

 今日の聖書箇所を通して、共に献金について、献げることについて、神さまの語りかけを聞いていきましょう。

  1.マケドニアの諸教会に与えられた恵み

  コリント人への手紙の宛先であるコリント教会は、非常に問題の多い教会でした。パウロは、1コリント人への手紙でコリント教会を厳しい言葉で戒めました。そして、今、コリント教会は、問題を乗り越えつつありました。そしてここで、中断していた献金の計画を再開するように励ましています。

 このときに紹介しているのが「マケドニアの諸教会」の献金の例でした。

「マケドニア」とは、コリントの北方の地域を意味し、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会を指しています。

 パウロは、マケドニアの諸教会で起こったことを「知らせる」ことによって、コリント教会がマケドニアの諸教会と同じ恵みに与ることを願っています。

 2節以降を読んでいくとマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みとは、マケドニアの諸教会が献げた献金のことだ、とわかります。マケドニアの諸教会は、貧困に苦しむエルサレムの教会に対して献金を献げたのでした。

 そして、どのような状況の中で、マケドニアの諸教会が献金を献げたかということを知るとき、パウロがこのことを「知らせたい」と願った理由がわかります。

 もう一度、2節に目を留めたいと思います。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。」

 「極度の貧しさ」「苦しみによる激しい試練の中に合って」これが献金を献げた教会の実情か!と目を疑いたくなります。支援が必要なのはマケドニアの諸教会も同じではないか。と思うのです。

 「マケドニアの諸教会」がどのような経緯で立てられた教会かということが、使徒の働き16,17章に記されています。ここで注目したいことは、マケドニア地方での伝道、特にピリピやテサロニケでの宣教活動は、ユダヤ人たちによる激しい迫害を引き起こした、ということです。極度の貧しさに加えてユダヤ人からの迫害、教会の内にも外にも問題は山積みです。

 このようなマケドニアの諸教会の内情をパウロはよく知っていたことでしょう。Ⅰコリント16章から、ガラテヤ教会やコリント教会に対しては献金を呼びかけていることがわかります。しかし、マケドニアの諸教会のことは何も記されていません。パウロの目から見て、マケドニアの諸教会は献金できる状況にはなかったということでしょう。

 しかし、マケドニアの諸教会は献金を献げました。しかも、自発的に。

 極度に貧しかったということを考えると、その額は僅かだったはずです。それでも、マケドニアの諸教会が置かれていた状況から考えると力以上の献金だったのです。

 このマケドニアの諸教会の惜しみなく献げる姿を見るとき、私たちは脳裏にある人の姿が浮かんでは来ないでしょうか。

 2.献げる模範はイエスさま

 今日の聖書箇所をもう少し読み進めていくとこのような箇所があります。

 Ⅱコリント89

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

  イエスさまは神さまです、この方が天でどのような栄光を持っておられたか、私たちには想像することさえできません。しかし、確かなことは、イエスさまがその栄光を自分の豊かさのためにしか用いなかったなら、世界は今もなお罪の悲惨の中に取り残されていたということです。

 私たちは、主イエス・キリストの恵みを知っています。神のひとり子が人として生まれ、十字架で死なれ、復活されました。私たちを罪の悲惨さから助け出し、私たちに永遠のいのちを与え、神の子とするためです。

  イエスさまがこのように、貧しくなってくださったことで、私たちの罪は赦され、永遠のいのちが与えられたのです。また、神さまを父とよび、親しく交わることができるのです。聖霊が私のうちに住んでくださり、いつも私たちと共にいてくださるのです。

 もう少し、私たちの現実に沿って考えてみると、今日も太陽が登り、新しい1日が始まる。衣食住が与えられている。信仰が与えられている。教会が与えられている。与えられているものを数えればキリがありません。与えられたものを数えていくと、私たちは貧しいと言えるでしょうか?

 イエスさまの人生は、人間のために献げ尽くす人生でした。

 私たちが献げる前に、イエスさまが全てを献げてくださった。そのことによって私たちはすでに富むものとされているのです。

 なぜ、献げることが恵みとなるのでしょうか。それは、私たちの模範であるイエスさまの生き方が献げる生き方だったからです。そして、イエスさまは私たちに献げる恵みに与るようにと、招いてくださっているのです。

 使徒の働き2035

「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

  私たちが献げたとき、それは相手の必要を満たし、喜びをもたらします。それを通して献げた私たちも喜ぶのです。献金は、献げる私たちを分かち合う喜び、交わりの喜びで満たす神の恵みなのです。

 そして、献げる恵みを知るということは、命まで献げたキリストの姿に近づいていく、クリスチャンとして成長していくことに繋がっています。

 3.まず自分自身を

  パウロは、自発的に、力以上に献げた、マケドニアの諸教会の献金を喜び、評価しています。しかし、パウロにとって何よりの喜びは、この献金に先立ってマケドニアの諸教会の人々が献身をしていたということでしょう。

 「献身」とは、キリストを信じる私のすべてを神さまに差し出すということです。「神さま私を好きに使ってください」とすべてを献げることです。マケドニアの諸教会の献金が献身の現れだとするなら、「献身」は、牧師や宣教師だけに求められているわけではないとわかります。

 私は、「まず、自分自身を献げる。」この言葉に応答して献身することを決めました。神さまのために人生の全てをささげますと祈りました。神さまはその祈りを聞いてくださり、私を導き、神学生として、今日の主の日の説教者として、この講壇から語るようにと呼んで下さったのです。

 神さまが自分自身をささげて神さまに従いたいと願う人を軽んじることがあるでしょうか。

 みことばにはこのようにあります。

 Ⅱコリント910

「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」

  神学生としてこのことを痛感する日々を過ごしています。

 神学生になって、教会の献金から神学生のサポートを頂くようになりました。そして、献金を頂くようになって初めて、献金の重さに気が付くようになりました。他人の必要のためにお金を献げる、このことは言葉以上に難しいと思うのです。

 もし、献金したお金を自分のために使うならば、夕食のおかずを一品増やせます、欲しいものを躊躇せず買えます、旅行にだって行けるはずです。しかし、楽しみや豊かさを後ろに追いやって、献金を献げてくださっているのです。

 今年の一月、私は新船橋教会からの献金をいただきました。私は日本同盟基督教団の所属ではないので、みなさんに直接関わる形で将来働くという保証はありません。そんな私を支えてくださるのは、利益を度外視しています。人間的常識ではあり得ないことです。ゆえに、これは神の恵みだと思うのです。

 私は、献金を頂くたびに、献金を献げているお一人おひとりの献身に圧倒されます。そして、襟を正され、自分自身の献身の思いを新たにするのです。

 まとめ 

  献金を受け取った教会が恵みを与えられたというのではなく、献金を献げた教会が恵みを与えられたと語られる。私たちはここに、「献げる恵み」を見るのです。

 献金では、金額が問われているのではなく、私たちの信仰が問われています。できることなら、回ってきた献金袋に自分の体ごと投げ入れたい、しかし、実際そのようにはできませんから、このような献身の思いを持って献金を献げていくのです。

 パウロは、マケドニアの諸教会の献金を献げる姿を知らせることで、さまざまな問題を乗り越えつつあったコリント教会を励まし、成長することを促そうとしました。

 今日、このパウロの励ましに答え、私たちもマケドニアの諸教会に倣って、自分自身を献げ、献げる恵みを知ることによって成長していきたいと思うのです。

 そして、教会の中だけではなく、教会の外、私たちの生きている社会を見渡してみて欲しいのです。コロナによって貧富の差が目に見える形で表れ始めています。富むものはますます富み、貧しい者はますます貧しくされています。

 私たち新船橋教会は、フードシェア、フードパントリーの働きを通して、苦しみ、困難の中におられる方々に献身しています。しかし、この働きの実りは、困っている方々の実際的な助けになるということだけではありません。献げた私たちに喜びをもたらし、献げる恵みを実感する場となるでしょう。いや、すでに私たちは恵みを受け取っています。ハレルヤタイムに子供たちが与えられ、この活動を通して救われる方々が起こされているのです。

 私たちはすでに「献げる恵み」を体験しているということを心に留めておきたいと思います。そして、イエスさまから受け取った「献げる恵み」のバトンを握って、イエスさまに似たものへと成長させていただきましょう。祈ります。

那須孔明実習生




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