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7月, 2022の投稿を表示しています

主イエスの名のためなら(使徒の働き21:1〜14)

「主イエスの名のためなら」 使徒の働き21:1~14 パウロたち一行は、20章で、エペソの長老たちと別れを告げて、ミレトスからエルサレムに向かいました。この時のパウロの同行者は、この使徒の働きを記しているルカ、そしてベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジア人テキコとトロピコの8人だったようです。ルカ以外は、パウロが伝道した地域で出会い、この宣教の働きに加わった同労者たちです。なんとも心強いことでした。   彼らはまずミレトスの港から船に乗って出航し、コスに直行しました。翌日コスからロドスに向けて約100㎞の道のりを進み、ロドスからさらにパタラに渡りました。そこでフェニキア行きの大きな商船に乗り換えて、南東に進路をとり、キプロス島を左に見ながら、650㎞を一気に進み、シリア地方のツロに到着し、そこで7日間停泊したとあります。この大型商船はここで積み荷を降ろし、メンテナンスなども行ったのでしょう。パウロたち一行は、7日間あるならばということで、ツロでクリスチャン仲間を捜しました。ステパノの迫害以来、エルサレムから散らされてしまったユダヤ人クリスチャンたちがここにもいるはずだと期待してのことでした。そして期待通り、クリスチャン仲間は見つかり、互いに励まし合うことができたようです。 しかしツロ滞在中、そこに住むクリスチャンたちは、聖霊によって、エルサレムでパウロに災いが降りかかると知らされました。ここで注意したいのは、聖霊はこれから起こる災いを彼らに告げはしましたが、パウロのエルサレム行きを止めるようにと導いたわけではないということです。しかし彼らは、この聖霊の御告げを受けて動揺し、パウロに繰り返し忠告しました。「今エルサレムに行くのは危険だ」「お願いだから行かないでくれ」「あなたを失うことは、教会全体の損失だ」「まだやるべきことが多くあるはずだろう」想像するにこんなことを言って止めたのではないでしょうか。どれもごもっともな話です。あけれどもパウロは、7日間の滞在期間が終わると、あっさりとそこを出て、エルサレムへの旅を続けました。ツロの人々は、家族総出で港に行き、お見送りをし、海岸でひざまずいて共に祈ってから、別れを告げました。そして、パウロたちは船に乗り込み、彼らは自分たちの家に帰って行ったのです。   パウロたち一

日ごとの糧、日ごとの信仰(マタイの福音書6:9~11)

「日ごとの糧、日ごとの信仰」(マタイ 6:9 ~ 11 )   1.      大きな神が、私たちの生活を  主の祈りは、神の子どもの祈り。 今朝は、「日ごとの糧」を求める第四の願いに目を留めます。    これまで私たちは、第一から第三の願いを通し、まことに大きな神さまを見上げてきました。   9-10 節(読む)  私たちが祈りをささげているのは、天の父なる神でした。私たちは、その偉大なお名前が賛美されることを願い、同時に、天の父が王として治める御国、神の国の訪れを願い、その大きな御心が天でも地でも実現するようにと、祈ったことでありました。  このように壮大な願いを口にした後の、本日の第四の願いです。それは、第一から第三の大きな願いに比べると、何か見劣りするようにも思える「日ごとの糧」の祈り。 そう、ギャップがあるのです。天に届くような大きな祈りから、急転直下に、私たちの生活に関する小さな祈りへと縮こまったかのような驚きとも言えるギャップ。  でも、実はこれこそが、大きな神が私たちの父であるという事実を物語っているのです。 大きな大きな天の父が、子どもである私たちを、いつも気にかけておられることが、このギャップに現れているのです。    私たちの親子関係も、基本はそうでしょう。 親子の繋がりは深いもので、普通の親はいつも子を気にかけている。 ある方がこう言っていました。子どもが小さい時、親はよく手をかける。 育ちざかりは食費に、教育、親は子どもに多くのお金をかける。そして、子どもが巣立って自立しても、それでもなお、思い続けるのが親。 手をかけ、お金をかけ、そして生涯、ずっと気にかけていく。それが普通の親の心遣いでした。 そうであるなら、天の父はなおさらでしょう。天の父は、地上のどんな素晴らしい父親にも優って愛が深い。 このお方はいつも私たちを、深く心にかけているのです。たとえ私たちが自力で生きていると思っていても、天の父はいつも私たちを支えている。 それが、この第四の願いの土台にある、天の父の心です。  そうした父の思いは、第三の願いの中ですでに現れていました。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。神のみこころは、地上のことも守備範囲。 そこに生きる私たちをも気にかけているのです。それは具体的で細

雲と火の柱(出エジプト記13:22)

受けるより与える方が幸い(使徒の働き20:33〜38)

「受けるより与える方が幸い」 使徒の働き20:33~38 私は牧師家庭で育ちましたが、子どものころよく聞かれる質問で、「牧師さんって、どこからお給料もらっているの?」というものがありました。「神さまから」とか、「教会から」とか、その年齢に合わせて適当に答えてきましたが、正直、普通のサラリーマンや自営業の人みたいではないことに、一抹のやましさというか、引け目を感じていたことも思い出されます。 さてパウロは、感動できなエペソ教会の長老たちへの告別説教の最後に、おもむろにお金の話しを始めます。パウロのような霊的な人が最後お金の話で終わるというのは、何とも解せないのですが、人々の関心事がそこにあることを知っているパウロは、そこに触れないわけにはいかなかったのでしょう。そういえば、旧約聖書でも預言者サムエルがサウル王に指導者の立場を譲り、引退する際にもお金のことに触れています。 「さあ今、【主】と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません。」 (Ⅰサムエル12:3~5) こんなやりとりを見ても、霊的指導者がお金について「きれい」であるというのは、大切なことだということがわかります。パウロは言います。 「私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。」     みなさんご存知のように、パウロはエペソ滞在中のほとんどを天幕づくりという仕事をしながら生計を立てていました。ティラノの講堂の空き時間に、聖書を教え、それ以外は生活のために仕事をしていたのです。教会の働き人が生活を支えられることは当然の権利です。旧約の時代、祭司やレビ人は、自分の土地や財産を持たない代わりに、その生活が支えられるように制度的に保障されていました。民から生活費を徴収するように、律法で定められていたのです。ところが、異邦人社会では勝手が違います。「知者」と自称する人が、人々に知識を与え

捜し求める神(ルカの福音書15:1~7)小池宏明師

「捜し求める神」              ルカの福音書 15 章 1-7 節 主イエスが語られた「いなくなった羊」のたとえと、直後の「失くした銀貨」のたとえ( 8-10 節)は、私たちの主なる神様がどのようなお方なのか、強調して伝えている。 1,熱心に、一生懸命、注意深く捜す神 神様をたとえている羊飼いは、100匹持っているから「一匹いなくなっても仕方ないや」と言うことはない。また神様をたとえている女の人は、ドラクマ銀貨一枚「やがて見つかるだろう」と放って置くことはない。熱心に捜し続ける主なる神様の姿が強調されている。実は、たとえに出て来る羊は、あまり賢い動物ではない。羊飼いに守られていないと、狼など獣に襲われて生き延びることができないのだ。また羊は迷子になり易い生き物だ。愚かな失敗を繰り返して道に迷う私たち人間のようである。また、ドラクマ銀貨一枚は一日働いた賃金に当たる。貧しい女性にとっては、とても大事な銀貨だ。パレスチナ地方における当時の家は、窓が無いか、とても小さな窓があるだけで、日中でも、念入りに捜すには、燭台の明かりが必要だ。銀貨は、どこかに転がっているだけで、持ち主が必死に捜していることに、気付くはずもないし、気付けない。私たち人間も、自ら気付いていなくても、主なる神様が私を捜し続けておられるのだ。 2,見つけたら、教会と共に大喜びする神 神様は、捜し求めて、見つけるまで捜して、必ず見つけ出して、大喜びする、そんなお方なのだ。そして、一人が救い出されたならば、天の御国においても、教会においても、共に喜びを分かち合いたいと願っておられるのである。私たち一人の罪人が、悔い改めて(方向転換して)主の元に立ち返るために、主は熱心に働きかけておられる。私たちが悔い改めに導かれることも主の御業なのだ。 私たちは、家族や友人にキリストの福音を証しするために執り成し祈り、主と共に大いに喜ぶ人生にありたい。 7/3  小池 宏明 牧師  ( 古河教会 )