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受けるより与える方が幸い(使徒の働き20:33〜38)

「受けるより与える方が幸い」

使徒の働き20:33~38

私は牧師家庭で育ちましたが、子どものころよく聞かれる質問で、「牧師さんって、どこからお給料もらっているの?」というものがありました。「神さまから」とか、「教会から」とか、その年齢に合わせて適当に答えてきましたが、正直、普通のサラリーマンや自営業の人みたいではないことに、一抹のやましさというか、引け目を感じていたことも思い出されます。

さてパウロは、感動できなエペソ教会の長老たちへの告別説教の最後に、おもむろにお金の話しを始めます。パウロのような霊的な人が最後お金の話で終わるというのは、何とも解せないのですが、人々の関心事がそこにあることを知っているパウロは、そこに触れないわけにはいかなかったのでしょう。そういえば、旧約聖書でも預言者サムエルがサウル王に指導者の立場を譲り、引退する際にもお金のことに触れています。「さあ今、【主】と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません。」(Ⅰサムエル12:3~5)

こんなやりとりを見ても、霊的指導者がお金について「きれい」であるというのは、大切なことだということがわかります。パウロは言います。「私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。」 

 

みなさんご存知のように、パウロはエペソ滞在中のほとんどを天幕づくりという仕事をしながら生計を立てていました。ティラノの講堂の空き時間に、聖書を教え、それ以外は生活のために仕事をしていたのです。教会の働き人が生活を支えられることは当然の権利です。旧約の時代、祭司やレビ人は、自分の土地や財産を持たない代わりに、その生活が支えられるように制度的に保障されていました。民から生活費を徴収するように、律法で定められていたのです。ところが、異邦人社会では勝手が違います。「知者」と自称する人が、人々に知識を与えて謝礼を取る習慣がありました。ところが、外国から来た素性のわからない教師が、それが価値があるのかないのかわからない知恵を人々に授けて謝礼を要求するというのは、どうも胡散臭い、詐欺行為だとの批判もあったようです。ですから、パウロのような宣教師は、人々に誤解を与えないように、極力一般の仕事をしながら、それで収益を得ていたようです。ただ、コリントにいたころには、ピリピの教会からの献金を受けて、伝道に専念したことはありました。けれども現地の人からは謝儀をもらわない、その原則は貫いていたようです。34節にあるように、パウロは「私の両手は」と、自分の節くれだった、いかにも労働者のがさがさした両手を見せながら、自分の必要のために、それだけではない、自分の同労者たちのためにも働いてきたのだと主張したのです。こうしてパウロは、福音を伝えるのに支障をきたすことは、たとえそれが当然の権利だとしても、それを行使しない、捨てることができる自由を持っていました。Ⅰコリント9:13~15「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」19「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。」無報酬で働くのは奴隷です。けれどもパウロは、福音を宣べ伝える時に妨げになるのならば、喜んで自分の権利と自由を放棄し、奴隷になろうと言っているのです。

 

35節「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

パウロは、自分が食べていくためだけではなく、同労者を援助し、弱い者を助けることに、自分の働いた収入を使ってきたと言っています。そしてここで、有名なクリスチャンでない人でも良く知っているみことばを引用します。「受けるよりも与えるほうが幸いである」。ここで「主イエスご自身が言われたみことば」と言っていますが、実際は、イエスさまの言動が記されている福音書にはこのことばそのものは記されていません。けれども、同じような内容は、福音書のあちこちにあります。例えば、マタイ10:8「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます」そして何よりも、イエスさまは身をもって、与えることの幸いを示してくださいました。ピリピ2:6~8「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」神の子としての身分と権威、力を放棄し、十字架によってご自分のすべてを与え尽くされたイエスさま。こうして、受けるより与えることの幸いを身をもって示されたのです。

ところで「受ける」のギリシャ語の意味は「得る」「取る」「奪う」「当然の権利として受ける」と言うような意味があります。私たちは当然の権利として受けてもいいのです。拒む必要はありませんし、卑屈になる必要もありません。「受けるより与える方が幸い」の背後には、受けることは、もちろん幸いだという前提があります。しかし自分が受けるために誰かが虐げられていたり、搾取したりしているのであれば、それは奪うことになります。先進諸国は豊かさを享受していますが、もしその背後で、貧しい国の人々が虐げられているのであれば、私たちは黙って、豊かさを享受していいでしょうか。

 

そして「与える」のギリシャ語ですが、なんと新約聖書で9番目によく使われる単語だそうです。キリスト教はまさに「与える」宗教なのです。「与える」の原語の意味は、「ある主体が自発的にある人または物にある物を譲渡する結果」という意味ですが、もっと言うと「それが受領者(受け手)の自由に処分することのできる圏域に到達する過程を言い表すための一般的表現」だそうです。

私たちはどうでしょうか。与える時に「受け手が自由に扱える圏域に達して」いるでしょうか。ひも付きになっていないでしょうか。ある人が夫婦カウンセリングを受けたときに、「愛することは相手を自由にさせることだ」言われ、非常に考えさせられたと言っていました。与えることも同じです。受け取り手が自由に処分することのできる圏域に到達するように与えるというのは、実は簡単ではありません。私たちはよく「せっかく」と言う言葉を使うじゃないですか。夫に対して「せっかくこんなに尽くしたのに」と言います。子どもにも「せっかく育てたのに」、人に対して「せっかくあげたのに」「せっかくお世話したのに」「せっかく犠牲を払ったのに」と、自分の期待に応えてくれないと私たちは不満に思うのです。しかしここでもう一度イエスさまのことを考えてほしいのです。イエスさまは私たちを愛して、すべてを与え尽くしました。けれどもイエスさまは一度でも言ったでしょうか。「せっかく神の位を捨てて人となったのに」「せっかく苦難の道を歩んだのに」「せっかく十字架に架かったのに」「せっかく代価を払ってあなたを買い取ったのに」イエスさまはそうは言われませんでした。「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことば」を私たちは覚えたいです。イエスさまが、私たちに与えること自体に幸いを覚えてくださったように、私たちも見返りを求めずに与える時に、本当の幸いを経験するのでしょう。大きなチャレンジです。けれども私たちはイエスさまの弟子です。ぜひ受け手が自由に処分することのできる圏域まで与えましょう。

 

「こう言ってから、パウロは皆とともに、ひざまずいて祈った。皆は声をあげて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう」と言った彼のことばに、特に心を痛めたのである。それから、彼らはパウロを船まで見送った。

告別説教の最後にお金のことかと、はじめは違和感を覚えましたが、そうではありませんでした。エペソ教会のために自分の持てるものを与え尽くしたパウロは今、跪いて、これからは主がこの群れに与え続けてくださいと祈ったことでしょう。エペソ教会の長老たちはパウロの首を抱いて、何度も口づけし、別れを惜しみました。そして、与え尽くしたパウロの生涯は、晴れ晴れとした幸いに満たされて、エルサレム、そしてさらにローマへと進んで行くのです。

三浦綾子の「氷点」の中で主人公陽子の祖父がジェラール・シャンドリという人の言葉を引用して陽子に語ります。「一生を終えてのち残るのは、我々が集めたものではなく、与えたものである」パウロはなんと多くのものをエペソの教会に残したことでしょう。私たちが地上の生涯を終える時には、何かを残せるでしょうか。与えたものだけが残るのです。今からでも遅くない。与える人生を生きたいものです。

 

私たちにご自身を与え尽くしたイエス・キリストの父なる神さま。私たちはいつも受けるばかりで、与えることを知らないものです。また与えても、自分が期待する応答がないと不満に思うものです。「与える心」は私たちの内にはありません。それはあなたから流れ出るものです。どうぞ聖霊によって私たちに「与える心」をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン


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