「日ごとの糧、日ごとの信仰」(マタイ6:9~11)
1. 大きな神が、私たちの生活を
主の祈りは、神の子どもの祈り。 今朝は、「日ごとの糧」を求める第四の願いに目を留めます。
これまで私たちは、第一から第三の願いを通し、まことに大きな神さまを見上げてきました。
9-10節(読む)
私たちが祈りをささげているのは、天の父なる神でした。私たちは、その偉大なお名前が賛美されることを願い、同時に、天の父が王として治める御国、神の国の訪れを願い、その大きな御心が天でも地でも実現するようにと、祈ったことでありました。
このように壮大な願いを口にした後の、本日の第四の願いです。それは、第一から第三の大きな願いに比べると、何か見劣りするようにも思える「日ごとの糧」の祈り。 そう、ギャップがあるのです。天に届くような大きな祈りから、急転直下に、私たちの生活に関する小さな祈りへと縮こまったかのような驚きとも言えるギャップ。
でも、実はこれこそが、大きな神が私たちの父であるという事実を物語っているのです。 大きな大きな天の父が、子どもである私たちを、いつも気にかけておられることが、このギャップに現れているのです。
私たちの親子関係も、基本はそうでしょう。 親子の繋がりは深いもので、普通の親はいつも子を気にかけている。 ある方がこう言っていました。子どもが小さい時、親はよく手をかける。 育ちざかりは食費に、教育、親は子どもに多くのお金をかける。そして、子どもが巣立って自立しても、それでもなお、思い続けるのが親。 手をかけ、お金をかけ、そして生涯、ずっと気にかけていく。それが普通の親の心遣いでした。 そうであるなら、天の父はなおさらでしょう。天の父は、地上のどんな素晴らしい父親にも優って愛が深い。 このお方はいつも私たちを、深く心にかけているのです。たとえ私たちが自力で生きていると思っていても、天の父はいつも私たちを支えている。 それが、この第四の願いの土台にある、天の父の心です。
そうした父の思いは、第三の願いの中ですでに現れていました。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」。神のみこころは、地上のことも守備範囲。 そこに生きる私たちをも気にかけているのです。それは具体的で細やかで、だから当然、日ごとの糧と言った生活の必要も気にかけているのです。
天地を造った大きな神が、小さな私たちの食事のことさえ気にかける。 驚くばかりですが、それは、私たちの日常における心配の多くが、「食」の問題と関わっているからだろうと思います。
私たちの教会は、この地域の「世の光」でありたいと、一年ほど前に食糧配付の働き、フードパントリーを始めました。 今や二十数世帯、合計七十名以上の方々が利用しています。 パントリーの場合、個別に食料を取りに来られますので、牧師は、生活の苦労話を個人的に聞く機会もあるようです。 やはり私たち人間にとって、食べていけるかどうか、食生活のことは、本当に重要な課題なのだと思う。
イエスさまもそうでした。イエスさまも、集まって来る人々の食生活を気にかけておられました。五つのパンと二匹の魚による五千人の食糧配付がありましたね。 取税人や罪人と言った、孤独な人々と食事を共にしたのもイエスさま。また、十字架前夜に弟子たちに伝えた聖餐式の恵みも、「食事」という形で、私たちを支える恵みであったのです。 昔も今も、食事はとても大事な課題。 だからイエスさまはこう祈るように励ますのです。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。 そして、このように祈ることができるほど、天の父は、私たちの生活に深い関心を寄せておられるのです。
2. 日ごとの糧
しかし、ここに一つ、疑問があります。イエスさまはなぜ「日ごとの糧」、つまり一日一日、これを求めるようにと教えたのでしょう。 一か月分とか、一年分、五年分の糧のようにまとめた方が、私たちとしては安心。それなのに、大きな安心はくださらず、なぜ日ごとに求めることを教えるのでしょう。
イエスさまは、大きな安心ではなく、私たちが一日一日の糧を神に期待して生きるように励ます。なぜだろう。
そう考えてみると、この日ごとの糧の祈りは、信仰とはどういうものかを、よく教えてくれる祈りなのだと気付きます。信仰とは、一日一日、日ごとに新しくしていくもの。貯めて置けるものではないのです。今日、というこの日を、新たな思いで神に信頼していく。それが信仰生活。
すぐに思い出すのが、旧約聖書の天からのパン、マナの出来事です。出エジプトの民は、何もない荒野を旅したため、毎日、天から降るマナというパンで神に養われたのでした。 マナは、貯めておくことができない。貯めようとすると腐ってしまう。だから彼らは毎朝外に出てマナを集め、日ごとに神の養いを体で覚えていったのでした。
他にも似たような話はたくさんあります。預言者エリヤの話も印象的。イスラエルが飢饉になった時、川のほとりで暮らすエリヤのもとに、毎朝カラスがパンと肉を運んできた。エリヤもそのように、日ごとに神に養われました。新約聖書ではルカ21章、二枚のレプタと呼ばれる銅貨を献金した、貧しいやもめを思い出します。やもめは、献金するとき、それが手元に残った生活費のすべでなのに、二枚すべてをささげるのです。明日はいったいどうするの、、という話。 明日の生活のため、一枚を手元に残しても、誰も責めないし、神さまも責めないでしょう。それでも彼女は、二枚をささげた。 彼女はそうやって、明日の生活をも神の御手に委ねていくのです。これもまた、日ごとの信仰。
信仰は貯めておけるものではない。それは、日ごとに新しくしていくもの。
3. 日ごとに神を
だから私たちは、「日ごとの糧を、今日もお与えください」と神に祈り続けていく。 「今日もお与えください。」その中で私たちが学ぶのは、私たちが「何によって生きているか」ではなく、「誰によって支えられているか」という、事実です。私たちにとって大事なのは、「何によって」生活を支えるかではなく、「誰によって」どなたによって支えられているのか、という、神さまとの繋がり。この繋がりに気付けるかどうかは、大きな違いです。
私たちの命を支えているのは、食べ物でもなければ、物質やお金でもない。実は、生ける神ご自身なのだと。 この神との繋がりに気付かせてくれる祈り、それが、この第四の願いです。
私たち人間は、基本的に皆、近視眼的です。目の前のことしか見えない。 だから、もしまとまった糧、多くの貯えがあったりすると、すぐに安心し、祈ることすら忘れてしまう。 ルカ福音書12章に出てくる金持ちの話がありますね。畑が豊作で、「これから何年分もいっぱい物がためられた」と大喜び。そして神を見失うのです。しかしその夜、金持ちは神の語り掛けを聞く。「愚か者、おまえの魂は今夜おまえから取り去られる」と。
そうなのです。一年分、五年分のまとまった糧があると、人はすぐに安心し、祈りをやめてしまう。私たちのいのちを支えているのは、物ではなくて、天の父なのに、父なる神を見上げることを忘れてしまう。だから「日ごとの糧」です。私たちは日ごとに神に祈り、日ごとに神との繋がりを心に刻んでいくのです。
この所、暑い日々が続きます。私たち、食べ物を腐らせないように気を使うでしょう。 同様に信仰にも気を付けたい。信仰もまた生ものです。貯めておくことができない。 私たちは日ごとに神に祈り、御言葉に養われながら、同時に肉の糧にも支えられて日々を生きていく。 そう考えると、三食ごとの食前の祈りは、本当に大事な習慣です。毎食、食事の度ごとに、私たちは思い出す。私たちは自分で生活を支えているのではないのです。天の父こそが、私たちの生活を、日々を支えている。この繋がりを確認する必要があるのです。
こういう私たちの信仰は、今の時代の多くの人々にとって不可解なものです。 何事につけ「自己責任」を叫ぶ時代になりました。 すべては自分の責任。人に頼るなと、そういう声が巷に溢れています。 それは一見、まっとうな主張にも思える。 でも、本当にそうでしょうか。 パントリーや、フードシェアの働きを通し、また牧師が関わっている子ども食堂ネットワーク等を通して、この地域の方々の生活の様子が伝わってきます。苦労しながらも、ほとんどの方々は懸命に生きています。でも、日本の社会は決して人にやさしい社会ではなくなっている。人の頑張りにも限界があるでしょう。 「自己責任」を叫ぶ世の中の価値観とは裏腹に、私たち一人ひとりは決して強くはないのです。
私たちキリスト者は、そうした世の価値観とは、違う生き方をしている珍しい人々。私たちは、日ごとの糧を求めて、神に信頼しながら生きていくのです。 私たちは、糧や物質が十分満たされれば、豊かないのちを生きられるわけではないのです。「祈り」という神とのつながりを欠くならば、たとえ物が溢れていても、決して豊かな人生を生きることはできない。私たちにとって本当に必要なのは、日ごとの糧ではなく、生きて働いておられる神との交わりなのです。
小学生低学年の頃、友だちのお母さんが病気で亡くなるという、悲しい出来事がありました。 私はすぐに、自分の母親のことが心配になった。教会学校で覚えたてのお祈りで、懸命に祈ったのです。「神さま、私のお母さんを取り去らないでください」と、しばらくずっと祈っていました。母の存在の掛け替えのなさを、あれほど実感したことはありませんでした。 母は料理上手で、毎日の食事が生きがいだった食いしん坊の子ども時代。 でも、友だちのお母さんのことがあって心配したのは、食事のことではなく、母の存在の尊さ。実感でした。日々の食事ではなく、母との繋がりが、自分にとっては一番大事なのだと。 皆さん、これって当たり前のことと思われますよね。
でも、神さまとの繋がりについてはどうでしょう。母親との関係については当たり前と思えることでも、神さまとの関係については、悲しいかな、忘れてしまうことがある。だから、主の祈りがあるのです。 私たちにとって大事なのは、「何」によって支えられているかでなく、「誰」によって支えられているか。 私たちのいのちを支えるのは、天の父との繋がりです。 日ごとの糧は、私たちにとって最も大事なお方が誰かを教えてくれる、信仰生活の教材なのです。
「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈りながら、私たちは日ごとに信仰を新たにしていく。私のライフワーク、ハイデルベルク信仰問答の問125は、それを美しい言葉でまとめています。(週報参照)
問125 第四の願いは何ですか。
答 「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」です。すなわち、
わたしたちに肉体的に必要なすべてのものを備えてください、
それによって、わたしたちが、あなたこそ良きものすべての唯一の源であられること、また、あなたの祝福なしには、わたしたちの心配りや労働、あなたの賜物でさえも、わたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。
第四の願いを通して私たちが学ぶこと。それは、神こそがすべての良い物の唯一の源であるこそ。良いものはすべて神から来る。だから、どんなに良いものも、神の祝福がなければ何の意味もない。 そうやって、日ごとの糧を祈りながら、私たちは神との繋がりを堅くしていくのです。
結び
今日、食前の祈りが大切だ、と話しました。大切ですが、正直に言います。私は時折、忘れてしまうことがあるのです。皆さんも実はあるでしょう。 私たちは時に忘れます。そして、誰が私たちのいのちを支えているのかすらも、忘れてしまう。 しかし、神は一日たりとも、私たちの必要を忘れることはない。私たちが忘れても、神は決して忘れない。天の父は、子どものことを忘れないお方です。
ですから、今日も祈っていきたいと願います。たとえ貯えが豊かでも、私たちはこの祈りを止めることはしない。それは、一番大切なのが「糧」そのものではないからです。この祈りを通して私たちは、天の父との交わりこそが、私たちのいのちを支えていることを知るのです。お祈りします。
天の父よ、感謝します。あなたこそが私たちの養い主です。肉の糧にまさる御霊の糧、御言葉をこそいよいよ慕い求めていく。そのような神の子どもの集まり、神の家族として、私たちの教会を建て上てください。いのちのパンであられる、救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
齋藤五十三師
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