パウロたち一行は、20章で、エペソの長老たちと別れを告げて、ミレトスからエルサレムに向かいました。この時のパウロの同行者は、この使徒の働きを記しているルカ、そしてベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジア人テキコとトロピコの8人だったようです。ルカ以外は、パウロが伝道した地域で出会い、この宣教の働きに加わった同労者たちです。なんとも心強いことでした。
彼らはまずミレトスの港から船に乗って出航し、コスに直行しました。翌日コスからロドスに向けて約100㎞の道のりを進み、ロドスからさらにパタラに渡りました。そこでフェニキア行きの大きな商船に乗り換えて、南東に進路をとり、キプロス島を左に見ながら、650㎞を一気に進み、シリア地方のツロに到着し、そこで7日間停泊したとあります。この大型商船はここで積み荷を降ろし、メンテナンスなども行ったのでしょう。パウロたち一行は、7日間あるならばということで、ツロでクリスチャン仲間を捜しました。ステパノの迫害以来、エルサレムから散らされてしまったユダヤ人クリスチャンたちがここにもいるはずだと期待してのことでした。そして期待通り、クリスチャン仲間は見つかり、互いに励まし合うことができたようです。
しかしツロ滞在中、そこに住むクリスチャンたちは、聖霊によって、エルサレムでパウロに災いが降りかかると知らされました。ここで注意したいのは、聖霊はこれから起こる災いを彼らに告げはしましたが、パウロのエルサレム行きを止めるようにと導いたわけではないということです。しかし彼らは、この聖霊の御告げを受けて動揺し、パウロに繰り返し忠告しました。「今エルサレムに行くのは危険だ」「お願いだから行かないでくれ」「あなたを失うことは、教会全体の損失だ」「まだやるべきことが多くあるはずだろう」想像するにこんなことを言って止めたのではないでしょうか。どれもごもっともな話です。あけれどもパウロは、7日間の滞在期間が終わると、あっさりとそこを出て、エルサレムへの旅を続けました。ツロの人々は、家族総出で港に行き、お見送りをし、海岸でひざまずいて共に祈ってから、別れを告げました。そして、パウロたちは船に乗り込み、彼らは自分たちの家に帰って行ったのです。
パウロたち一行はツロを出て、プトレマイスに到着しました。そこでも主にある兄弟姉妹たちにあいさつをして、彼らと語りあかして一晩を過ごし、翌日にはプトレマイスを出航し、50㎞離れたカイサリアに寄港しました。10節を見ると、「ここではかなりの期間」滞在したようです。エルサレムは、もう目と鼻の先。あとは陸路でエルサレムに向かうのみとなりました。パウロの計画では、五旬節までにはエルサレムに行くことになっていたので、逆算して、たぶんこれぐらいなら大丈夫だろうという期間を、このカイサリアで過ごしたと思われます。
カイサリアには、ピリポがいて、パウロたちは彼の家に宿泊をしました(8節)。ピリポは、エルサレム教会で御霊と知恵に満ちた人と呼ばれ、ステパノと共に食卓の世話に選ばれた7人の執事のうちの一人です。また使徒の働きの8章では、ピリポがエチオピアの宦官を救いに導いたエピソードも記されています。そして8章の40節で、「ピリポは、…すべての町を通って福音を宣べ伝え、カイサリアへ行った」とありますから、それ以来、このカイサリアに住んでいたのでしょう。また彼には預言をする未婚の娘が4人いたと記されています。娘が4人、いつまでたっても結婚もしないでいるとしたら、親としては複雑なものもあったかもしれませんが、「預言する」とありますので、彼女たちは神のことばの宣教のために生涯をささげた婦人伝道者、今の言葉で言うと女性教職になったということでしょう。それならそれで祝福です。パウロもⅠコリント7章で、「差し迫っている危機のゆえに、男(女)はそのままの状態にとどまるのがよい」と言っています。パウロの時代、まさに差し迫っている危機の時代でした。迫害の時代でもあり、爆発的に宣教の広がりを見せている時代です。このような時代に独身で宣教の働きをする女性の存在は、当時珍しくなく、またとても貴重だったと言えるでしょう。
さて、そこにアガボという人が登場します。アガボという名前には聞き覚えがあることでしょう。使徒の働き11章28節で「世界中に大飢饉が起こる」と預言し、果たしてその通りになったというあのアガボです。彼が今度はパウロについて預言します。11節「パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言います。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」この視覚に訴えるアガボの預言は、人々に衝撃を与えました。12節には「私たちも土地の人も」とありますから、先ほど名前を挙げた同行者たちも、カイサリアの兄弟姉妹もこぞって、パウロのエルサム行きに反対したのです。
さあ、私たちだったらどうするでしょうか。パウロがエルサレムで捕らえられて、殺されるかもしれないとわかりつつ、みすみす行ってらっしゃいと送り出すことができるでしょうか。彼らは「頼むから、エルサレムには上って行かないようにと懇願した」のです。ギリシャ語では、この「懇願した」は未完了形ですから、繰り返し懇願したことを表しています。4節でツロの兄弟姉妹が「パウロに繰り返し言った」というのも同じく未完了形です。とにかく、あっちでもこっちでも、人々はしつこく、何度もエルサレムに行かないようにお願いしたということです。
ところがそれに対してパウロはなんと答えたでしょうか。13節「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」
この説教を準備しているときに、「一死覚悟」というドキュメンタリー映画をYouTubeで観ました。日本統治時代の韓国で神社参拝強要に抗った牧師、朱基徹(チュ・キチョル、1897年~1944年)牧師の一生を描いた映画です。1938(S13)年6月末、日本基督教会大会議長であった富田満牧師が、神社参拝を拒否する朝鮮の長老教会を説得するために、東洋のエルサレムと呼ばれた平壌(ピョンヤン)を訪れました。警官護衛のもと富田は「神社は宗教でなく、国民儀礼であって罪ではない」と講演したのです。それに激怒したのが朱基徹(チュ・キチョル)牧師は、「神社参拝は十戒の第一戒を破ることになるのに、どうして罪にならないのか」と富田に反撃し、以来神社参拝反対運動に生命をかけることになります。当時反対を貫いた2000名が投獄され、200以上の教会が閉鎖され、朱基徹牧師以下50余名の牧師たちが殉教の死を遂げました。朱牧師は、電気ショックを受け、木刀で殴られ、生爪をはがされる拷問をうけました。しかも拷問の様子は家族に見せつけられました。そんな中、朱牧師の母親は、「ちょっとだけ、神社にちょっとだけ頭を下げれば…」と言って、あまりの苦痛に失神します。ところが朱基徹牧師の妻呉貞模(オ・チョンモ)は、夫である朱牧師に「韓国教会の一粒の麦になって、この教会に多くの実を結ばせるようにして下さい」とむしろ励ましたのです。それに対し、朱牧師も「私はこの死が一粒の麦となって朝鮮教会を救うことができればと願うだけだ。」と答えたというのです。彼は、1944(S19)年4月21日、49歳の若さで、平壌(ピョンヤン)刑務所で殉教します。
パウロはまさに「一死覚悟」の思いで、エルサレムに向かいました。しかし、まわりの人々はパウロを思うあまり、パウロの決意と意志をくじこうとします。これは私たちが「情」と呼んでいるものでしょう。時に私たちの「情」は私たちの信仰や信念を迷わせます。しかし、朱牧師の妻が「一粒の麦になってください」と言ったのは驚きです。なんて薄情な妻だと思うでしょうか。でもそうではない。朱牧師は、拷問の中でこうも言いました。「はじめのころは、自分でこの十字架を担いでいると思っていました。でもそのうちに、自分ではなくてイエスさまが私のそばにいて、代わりに私の十字架を背負ってくださっていることに気づいたのです」と。妻オ・チョンモは、そんな彼の言葉も聞いていたのでしょう。拷問を受け、苦しむ夫の背後に、人を愛し救うために十字架の苦しみを進んでその身に受けたキリストを見ていたのです。キリストの救いのための十字架なら、どうして自分がそれを止めることができるでしょう。
パウロは言いました。13節「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」パウロは、「主イエスの名のためなら」と言っています。パウロもきっと、傍らに立ち、ともに十字架を背負っていらっしゃるイエスを見ていたのでしょう。パウロは後にピリピ人への手紙1:21~22でこう告白しています。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」このパウロの一死覚悟に、人々は最後には「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだのでした。
私たちも時に、「信仰」と「情」の狭間で、心揺らぐことがあるでしょう。そんな時、「情」に流されることなく、「主のみこころがなりますように」と告白する者でありたいと思わされた今朝のみことばでした。
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