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互いに尊重し合う(使徒の働き21:15〜30)

「互いに愛し合う」
使徒の働き21:15~30

カイサリアでアガボの衝撃的な預言を聞いてから数日後、パウロたち一行はエルサレムに上りました。カイサリアの兄弟姉妹はやはり心配で、何人かはパウロの護衛を買って出るつもりで、同行したようです。そして、パウロが泊まる場所も、一般の旅館などよりも、信頼できる古くからのクリスチャン仲間の家の方が安心だということで、キプロス人ムナソンという人の家を手配してくれました。

 こうしてパウロたち一行はエルサレムに到着しました。恐らく緊張しながら、エルサレム教会に向かったと思うのですが、エルサレム教会からは、思いのほか歓迎を受けました。ここには書いてはいませんが、困窮するエルサレム教会のためにとピリピ教会から預かった献金を渡しているはずなので、その効果もあったのかもしれません。

こうしてパウロたちは翌日ヤコブの家に行きました。ヤコブは、イエスさまの兄弟であり、ペテロなど使徒からエルサレム教会を引き継いだリーダーです。パウロたち一行は、ヤコブの家に着くと、ヤコブとエルサレム教会の長老たちにあいさつをして、先回エルサレムに来たとき、あのエルサレム会議をしたときから今までに起こった出来事の一つひとつを、事細かに語り始めました。

マケドニアの叫びを聞いて、ピリピに初めて行った時のこと、紫布の商人、リディアとその家族の救い。占いの霊に憑かれた女性のこと。その占い師の悪霊を追い出すと、主人が怒って暴動を引き起こし、パウロとシラスは牢屋に入れられたこと。ところが不思議な平安の中で賛美をしていると、地震が起きて、牢屋の扉がみな開いてしまったこと。牢屋の看守がそれに気づいて自害しようとしたので止めたら、彼がどうしたら救われるのか聞くから、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えたこと。事実、その看守の家族はみな救われたこと。そしてアテネでのこと。アレオパゴスの中央に立って説教をしたこと。コリントでのアキラとプリスキラのこと。アルテミス神殿での出来事。そうそう、居眠りをして三階の窓から落ちたユテコのこと。エルサレム教会の長老たちは、これらのパウロの証しを聞いて心から神をほめたたえたのでした。

 ところが、そんな恵まれる証し会の後で、ヤコブと長老たちは、最近聞いているパウロについての良くないうわさについて告げます。21、22節「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。」

ここに二つの誤解があります。一つは、パウロが外国に住むユダヤ人たちに、子どもに割礼を施すなと言っているということ。二つ目はユダヤ人の慣習、つまりモーセ律法に従って歩むなと言っているということでした。

これは完全な誤解でした。確かにパウロは、異邦人たちには割礼を受ける必要はないと言っており、それはエルサレム会議で承認されたことです。なぜなら、割礼は救いとは関係ないからです。ですから、もとともとそのような慣習のない異邦人にそれを強いることは意味のないことです。しかしだからと言って、ユダヤ人に割礼を施すなとは言っていません。もちろんやめてもいいのです。救いとは関係ありませんから。けれども割礼は、1200年以上続いてきた、イスラエル民族の神の民としてのしるし、アイデンティティそのものです。ですから、この慣習を変えることはたやすいことではありません。確かに二代目、三代目になると、ユダヤ人クリスチャンは意味のないこの割礼という習慣をやめて、洗礼をもって神の選びの民のしるしとしたのですが、まだ、割礼をやめるのは、感情的に時期尚早なのです。パウロはそれをよくわかっていました。ですから、彼らの割礼の儀式、モーセ律法に従う慣習を尊重し、自分自身もそれらを忠実に守っていました。宣教のためにです。宣教のためにパウロはユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。その表れとして、ユダヤ人と異邦人の親を持つテモテには、ユダヤ人の手前、彼らのつまずきにならないようにと、割礼を施すことさえしました。

 エルサレム教会の主だった人々は、パウロの割礼と律法への考え方、態度をよく理解していました。ですから、ユダヤ人たちの誤解を解くために、一つの提案をしたのです。23、24節「ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。」この請願を立てるというユダヤ人の慣習は、律法というほどの拘束力はなく、やってもいいし、やらなくてもいという、本人の選択に任されたものでした。そのような慣習について、パウロが積極的に関わり、費用を負担してあげたということが、ユダヤ人たちに周知されれば、「なんだ、パウロについての噂は、根も葉もない噂だったんだ」と理解されるだろうとの期待を込めての作戦でした。

 しかし、初めからパウロを殺そうと狙っている人々にとっては、このような努力も無駄でした。誓願の七日の期間が終わろうとしていた時に、アジアから来たユダヤ人たちがパウロを見つけると、さっそく群集を扇動して、パウロを捕まえてしまったのです。アジアと言えばエペソでしょう。パウロたちがユダヤ人の会堂を追い出されて、ティラノの講堂で集まりを持つようになって、そちらの方が爆発的に増えているのを見て、苦々しく思っていた人たちでしょうか。彼らは、パウロがエルサレムの町で、エペソ人のトロフィモといっしょにいるのを見かけただけで、パウロが彼を宮に連れ込んだと思い込み?あるいはわざとデマを作って?「ギリシア人を宮の中に連れ込んで、神聖な場所を汚した!」と訴えたのです。すると町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出し、宮の門を閉じてしまったのでした。

 私たちは今日、このテキストから、お互いに尊重し合うということを学びたいと思います。ガラテヤ人への手紙5章では、パウロは割礼の問題を論じて、最後13節でこう言っています。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」 ユダヤ人と異邦人は違います。ユダヤ人は異邦人のようにはなれないし、異邦人はユダヤ人になれないのです。しかしお互いの違いを受け入れ、尊重し合うことはできます。私たちはお互いにしもべとして仕え合うべきです。ティモシー・ケラーは、彼の著書で、この聖書の箇所をこう解説しています。「しもべは、他者の必要を自分の必要よりも優先させるものです。また他者の関心事を自分のそれ以上に大切なものとして考え、捉えるべきなのです。こうして、自分よりも他者を喜ばせることに努めるのです」と。これを今日のテキストに当てはめるとどうなるでしょうか。パウロは自分自身は、割礼も律法も、救いのためには不必要なものだという確信に立ちながらも、ユダヤ人クリスチャンのつまずきにならないように、割礼を受けるクリスチャンを裁くことなく、自分自身も律法を忠実に守っていました。そして必要とあらば、テモテに割礼を受けさせたように、自分の信念を譲ることさえしました。そして、今日の箇所では、兄弟姉妹のアドバイスに従い、誓願を立てる儀式にも同行し、必要な費用を負担したのです。全ては、同胞ユダヤ人を愛し、彼らを救いに導くためです。

私たちはどうでしょうか。だれでも信念があります。自分の信仰のスタイルもあります。これだけはゆずれないと、大事にしていることもあるでしょう。けれども、それが兄弟姉妹とぶつかったときに、どうするでしょうか。それが罪でない限り、私たちは相手の考え方、信念を尊重しようではありませんか。それが自由なキリスト者のあり方です。

 天の父なる神さま。私たちはいつも、自分のあり方を絶対だと思い、自分のこだわりに執着する者です。そして人が自分に合わせるべきだと怒るのです。しかしイエスさまは、神のあり方を捨てられないとはお考えにならずに、人となってこの地上に来てくださり、へりくだって仕える者の姿をとってくださいました。どうぞわたしたちもそんなイエスさまにならい、自分とは違うお互いを受け入れ、尊重し合うことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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