使徒の働き21:31~40
パウロは五旬節の期間をエルサレムで過ごしました。パウロについてのあらぬ噂がユダヤ人の間で広まっていることをと知っていたエルサレム教会の兄弟姉妹は、パウロを守るために一つの提案をしました。それは誓願を立てている4人のユダヤ人を神殿に連れて行って、そこで頭を剃る費用を出してあげるとよいというものでした。そしてパウロは、言われるがまま、それを実行するのですが、パウロを殺そうとたくらんでいたアジアから来たユダヤ人たちが、パウロと同行している人々の中に、異邦人がいると誤解して、「パウロは異邦人を神殿に連れ込んだ!」と大騒ぎしたのでした。それはけしからんということで、ちょうど神殿に居合わせたユダヤ人たちは、殺気立って騒ぎ出し、パウロを打ち叩き始めたのです。まさに集団リンチ状態です。
そして、まさにこの時、恐れていた暴動が起こったと思いました。千人隊長は自ら多くの兵士たちと百人隊長たちを率いて、暴動の現場に駆け付けたのです。危機一髪でした。あとちょっと遅ければ、パウロは殴り殺されていたでしょう。神さまのタイミングは、私たちの目には、いつも遅くうつるのですが、決して遅すぎることはないのです。ユダヤ人たちは、ローマ兵たちがやって来るのを見ると、パウロを打つのをやめました。千人隊長は近寄って、暴動の元となっていると思われるパウロを捕え、二本の鎖で縛るように命じました。これは、パウロの両手がそれぞれ二人のローマ兵と鎖でつながれたことを意味します。こうして騒ぎが収まったのを見ると、千人隊長は集まっている群集に聞きます。「この者は、何者なのか?一体全体何をしたのか?」ところが、人々はそれぞれ違ったことを叫び続けるので、埒(らち)が明きません。実際、何が起こったのかちゃんと把握し、話せる人はいなかったのでしょう。暴動は、いつもこうやって発生するのです。千人隊長は、仕方なく、パウロを兵営に連れて行って、事情聴取をすることにしました。ところが、ローマ兵がパウロを連れて行こうとすると、群衆はまた騒ぎ出し、「殺してしまえ~!」と後をついてきました。あまりに群集が押し寄せるので、ローマ兵たちは仕方なく、パウロを担ぎあげました。仰向けの状態でローマ兵が担ぎ上げたのでしょうか。想像すると、なんとも滑稽です。
さあ、こうしてアントニア塔の階段を上り切り、安全地帯まで来たときに、パウロは下ろされました。そして千人隊長に話しかけたのです。「少しお話してもいいでしょうか」。はっとするような美しい流ちょうなギリシア語でした。千人隊長は、ちょっと聞いて、これはエルサレムではちょっと聞けない、ネイティブのしかも高貴な人、紳士が話すギリシア語だとわかりましたので、思わず聞き返します。「おまえはギリシア語を知っているのか」「そうなると、おまえはあのエジプト人ではないと見た」この「エジプト人」とは、歴史家ヨセフスがその著書で言及しています。エジプトから来た、自らを預言者と称するユダヤ人がいました。彼はユダヤで3万人規模の反乱軍を集め、指揮しましたが、結局ローマ軍に鎮圧されて、自分一人、エジプトに逃げ帰ったという事件があったのです。この聖書箇所では、四千人の暗殺者を荒野に連れて行った…とありますので、またちょっと違うのですが、とにかく千人隊長は、最初そのエジプト人が帰って来て、また騒ぎを起こそうとしたのかと思ったのです。けれどもパウロが一言「少しお話ししてもよろしいでしょうか」と言っただけで、あの粗野なエジプト人とは違うと思ったようです。パウロは続けて言いました。「私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。」キリキアのタルソと言えば、有数の学術都市です。それだけではない。文化や哲学方面でもアレキサンドリアやアテネよりも優れていたと言われており、非常に裕福な都市だったのです。そして何よりの決定打は、パウロは町の市民、つまりローマ市民だということでした。市民は法律で保障された多くの権利がありました。そのパウロが千人隊長に頼むのです。「この人たちに話しをさせてください」と。千人隊長は、パウロを信用しました。パウロがかもし出している雰囲気や品位、言葉遣い、それらを見て、パウロは信頼に足る男だと思ったのでしょう。そうでなければ、大勢のユダヤ人の前で演説するなんてことを許すはずがありません。ともすると、演説の中でユダヤ人の民族感情を煽って、反乱を起こそうとする可能性もあります。こうしてパウロは、階段の上に立ちました。集団リンチの後です。服は裂け、血だらけだったことでしょう。それでも背筋を伸ばし、威厳を持って、騒ぐ民衆を手で制し、静かにさせました。そしてパウロは、今度はヘブル語で語り出しました。実際は、当時シリア一帯で広く使われていたアラム語だったと言われますが、それにしてもこれまた美しい発音、語り口調でした。あとでパウロ自身が、その演説の中で自己紹介しますが、彼は生粋(きっすい)のユダヤ人でした。幼少期をキリキアのタルソで過ごし、12歳になると裕福で信仰熱心なユダヤ人家庭がそうしたように、エルサレムに留学し、ガマリエル門下の寄宿舎で学んだのです。こうして演説の舞台は整いました。彼は憎悪と怒りに満ちた目でにらみつける多くの群衆を前に語り始めたのです。
主人がアメリカで留学した時に出会ったサイツマ宣教師夫妻は、日本で30年間宣教師として働いて、今は故郷のアメリカ、ミシガンに住んでいます。主人の留学中には大変お世話になりました。先生には3人の子どもがいますが、子どもが小さいころには、引っ越しに次ぐ引っ越しで、休暇のためにアメリカ本国に帰っても、定住することは許されず、宣教報告のために毎週のように違う教会に出席するような生活でした。そんな中で子どもたちがお母さんに聞いたそうです。「ねえママ、ぼくたちのホームはどこなの?」両親はとても胸が痛みました。そして「どこなんだろうね」と、家族で話し合ったというのです。そして家族で出した結論、それは、「家族がいっしょにいるところ、そこがホームなんだ」ということでした。
パウロにも地上にはホームはありませんでした。地上のホームは、彼を拒絶し、受け入れなかったのです。けれどもパウロには天のホームが用意されていました。そこでは父なる神さまがおられ、いつもパウロに熱いまなざしを向けておられました。ステパノが迫害に遭い、石打にされ、殺されるとき、彼は言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」天のホームには、よみがえって天に帰られたイエスさまもおられ、御座から立ち上がってステパノを見ておられました。パウロも同じです。地上のホームは彼を拒絶したけれど、彼には天のホームがありました。しかもこの天のホームは、遠く天にあるだけではない。聖霊によっていつも、彼の心にあり、彼は孤独の時も、傷ついたときも、憎まれ裏切られたときも、その天のホーム帰って、安らぐことができた。慰められ、新しい力をいただくことができたのです。
私たちのホームはどこにあるでしょうか。地上のホームは壊れやすいのです。そして必ず別れがあります。時に傷つけ合い、憎しみ合うこともあります。いっしょにいても孤独を感じることもあるでしょう。求めても求めても、決して私たちの心を完全には満たしてくれない。けれども私たちには天のホームがあります。そしてこの天のホームは、決して私たちを裏切らない。私たちが危機の時にはエールを送ってくれる。耐えうる力をくれる。脱出の道を備えてくれる。疲れた時には、休ませてくれる。そして地上での人生が終わると、確実に私たちを迎え入れて、永遠の安息を与えてくれるのです。もし私たちがこの天のホームの家族に属し、基盤を置き、希望を置くならば、私たちはパウロのように強くなれます。孤独にも耐えられる。誰にも受け入れてもらえなくても、意地悪されても、生きていけるのです。
千人隊長は群集に聞きました。「この男は、何者なのか、何をしたのか」 もし、千人隊長が、パウロに直接聞いてくれたなら、こう答えたでしょう。「私は神の子どもです。神の家族の一員です。そして一人でも多くの人が、イエス・キリストを通して、この家族に迎え入れられるために、この救いの道を宣べ伝えているのです!」
最後にへブル書11章13節、16節をお読みします。
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」
お祈り致します。
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