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日ごとに十字架の前に(マタイの福音書6:9〜12)

「日ごとに十字架の前に」(マタイ6:912

 

 前回は、主の祈りの第四の願い、「日ごとの糧を、今日もお与えください」でした。私たちはこれを日ごとに、毎日繰り返し、糧を与えてくださる神への信頼を新たにしていくのだと。信仰は貯め置きできない、生もの。だから、日々これを祈りましょうと、一緒に確認をしました。

 このような日々の祈り主の祈りの真ん中に置かれている。それは、主の祈りそのものが、日ごとに、毎日祈られるものであることを教えています。

 

1.     日々赦しを祈る

 そうです。私たちは主の祈りを、毎日、日ごとに祈る。それは、本日の第五の願いも同じです。

 「私たちの負い目をお赦しください」。 負い目とは、借金ですが、これは私たちの罪を指すものです。罪とは、神さまに対して私たちが負っている借金、負債なのだと、イエスさまは教えてくださいました。私たちは、これについても日々、繰り返して祈るのです。

 毎日祈るということは、その日、心に思い当たる具体的な「罪」があってもなくても、ということです。もちろん、思い当たる罪があれば当然それを祈りますが、たとえ具体的に思い浮かばなくとも、神の子どもたちは祈るのです。「私たちの負い目をお赦しください」と。

 

 これは何を意味するのでしょう。 私たちは、たとえ思い当たることがあってもなくても、自分が、神の前にひとりの罪人であることを知っている、ということです。私たちは、罪人として神の前に存在している。しかも、毎日繰り返して祈らなければならないほどに、深刻な罪びとなのです。 確かに聖書の第一ヨハネ1章にも、「もし罪を犯したことがない」と言うなら、それは神を偽りものとすることだとあるように、私たちは、意識するかどうかは別として、思いと言葉と行いにおいて、罪を犯さない日は、一日たりとてない。神の子どもは、自分が神の前に、深刻な罪びとであることをよく知っているのです。

 だから、この祈りを口にする度、私たちは自分が罪びとであることを自覚します。 それはもちろん、嬉しいことではないでしょう。時には、これを祈るのがしんどいこともあるでしょう。 でも、それでも心折れることなく、日々これを祈ることができるのは、イエスさまの十字架のおかげです。 イエスさまは、私たちが、これを毎日祈り続けることができるよう、私たちの罪を代わりに背負って、十字架で罰を受けてくださった。罪は十字架で清算されました。 だから、私たちは、赦しを求めて十字架の前に出て祈るなら、毎回重荷を下ろすことができるのです。 「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」とのイエスさまの声が聴こえてくる。 だから、私たちはしんどくても、これを日々祈ることができるのです。

 

 でも、十字架があるからと言って、これを祈ることは、「どうせ赦される」と言うような、イージーな、安易なことではないのです。私たちは毎回、これを真剣に祈る必要があります。しかし、真剣に祈るなら、必ず、毎回、重荷を下ろすことができる。 キリスト者が、キリスト者であるために、これを祈り続けることは、とても大事なことです。

 

2.     負い目のある「人たち」を赦す

 そう。「私たちの負い目をお赦しください」と祈り、十字架の前に出ると、神の子どもは、重荷をおろしていく。 「良かった、良かった」と終えたいところですが、祈りは、ここで終わらない。後半が続いていくのです。

 「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」。

 「赦します」という決意。重い言葉だと思います。これは、これまでもそのように赦してきたし、今日も赦していく、そして、明日も人を赦す、という具体的な生き方を伴った決意です。

 でも、なぜでしょう。なぜ、この後半が続くのでしょう。 それは、神によって赦されたことが心から分かると、必ずそれが生き方に現れるからです。「多く赦された者は、多く愛する」とのイエスさまの言葉を思い出しますが、確かにそう。「自分は赦された」と、心から分かった人は、人に優しくなっていくのです。

 

 思い出すのは、ルカ福音書に出てくる、有名な取税人ザアカイの話です。ザアカイは、税金を集める役人のかしらで、私腹を肥やし、だまし取ったもので金持ちになった人でした。でも、その代償は大きかった。 彼は皆に嫌われていた。そんな彼ですから、ザアカイには、誰かに赦され、受け入れられたという経験も一切なかったでしょう。誰もがザアカイを憎み、嫌っている。 しかし、そのザアカイが、イエスさまと出会う。しかも、イエスさまの方から、「ザアカイ」と名前を親しく呼んで、「今日、あなたの家に泊まることにしている」と。 誰も近づきたがらない罪びとザアカイに、イエスさまは近づき、その家の客となる。この愛によって、ザアカイは、大きな赦しを経験したのです。自分は赦され、受け入れられていると。 この、単なる赦しに留まらない大きな愛が、ザアカイを一変させます。ザアカイは決意する。人からだまし取った物を、四倍にして返しますと。

 多く赦された者は多く愛するのです。本当の赦しを経験した人は、人に対して優しくなっていくのです。主の祈りの第五の願い「私たちの負い目を赦してください」に後半が続いていくのは、そういうことです。

「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」。

 ここで「負い目のある人たち」、「人たち」と、赦す相手が、具体的な顔の見える人々であることに注意してください。これは単に、昔の出来事を水に流すレベルではないのです。私たちは、具体的な「人」に向き合い、その人を赦す。 「過去の出来事」だけならまだしも、具体的な人、しかも自分を傷つけ、悩ましたことがある、その相手を赦すとなると、これは簡単ではありません。

 でも、出来るのです。十字架の前に立ち、自分がどれほどに赦され、愛されているかが分かると、私たちは、人に優しくなる。 神に赦された経験は、必ず私たちの生き方に現れ、私たちの人間関係を変えていくのです。

 

 私が台湾で宣教師だった頃の同僚のご夫婦に、アメリカ人がいました。仮にピーさん、と呼びます。とにかく誠実なご夫妻で、私たちもよくしていただきましたが、夫人が、教会に向かう途中の車の運転で、集会に遅れそうで焦って事故を起こしてしまう。バイクを引っかけ、乗っていた台湾人女性が、植物状態になってしまうのです。 植物状態は何年も続き、いつまで続くか分からない。そのため、その女性の家族が、保険金だけでは不十分だと法的手段に出て慰謝料を求めました。 もちろん非は、宣教師側にあるのです。植物状態になった女性のご家族は大変です。でも、その一方、ピーさん夫婦も、宣教師の身分では到底払えない莫大な慰謝料を要求されて本当に辛かった。困難な話し合いは数年に及び、ようやく話し合いに終わりが見えた頃、宣教師夫妻は、この借金を背負って生きよう。それを払うためには何でもしようと覚悟を決めます。 ところが、示談の最終段階で、匿名の多額の献金があって、どうか宣教師夫妻を赦して欲しいと、植物状態の女性を介護する家族への懇願があったのでした。家族はこれを受けて、法的手段を取り下げ、「すべてを赦す。終わりにしよう」と。

 この驚きの結末に、宣教師仲間で集まったのですが、私は、あれほど重荷から解放された人の顔というものを見たことがありません。ご夫妻は、これは神のあふれる恵み「アバンダント グレース」だと。 あの日のご夫妻、いつにも増して何倍も穏やかで、優しい表情でした。

 

私たちが十字架によって赦されるとは、実は、こういうことなのです。私たちは驚くべき恵みによって赦されている。そこでは、イエスさまの命が犠牲で支払われ、それで私たちは赦されたのですから。この赦しが分かると、私たちは解放されるのです。そしてそれは生き方にも現れ、私たちの人間関係を変えていく。だから私たちは、日々、これを祈る。繰り返して祈り続けるのです。その中で私たちの人間関係が変えられていくのです。

 

3.     生涯続く営みとして

 実は、この第五の祈りには、この後に解説が続いていきます。

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 これは、主の祈りの第五の願いの解説です。 主の祈りの中で、こうした解説がついてくるのは、この第五の願いだけ。しかも、それだけでない。この第五の願いには、具体的なイラストレーション。つまり、これを「絵」にして見せてくれる、イエスさまのたとえ話もついていくのです。

 それはマタイ182135節。 ペテロが、主イエスに「罪を赦すこと」について尋ねるところからたとえ話は始まります。 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」 それに対するイエスさまの答えがこれ。七回を七十倍するまで赦しなさいと。そして、有名なたとえ話が続きます。 皆さんの多くがご存じでしょう。王様に対して、生涯かかっても払いきれない莫大な借金を抱えた家来が、その借金を、ただあわれみで赦される。 しかし、赦された家来は、自分が仲間に貸していた、わずかな借金を赦せない。挙句、捕まえて首を絞め、牢屋に入れてしまう。 それを聞いた王様は心を痛めて、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったか」という、たとえ話です。

 どうですか。念入りなのです。主の祈りの第五の願いは、祈りだけで終わらず、後に解説が入り、しかも、具体的なたとえ話で、最後は「絵」にして見せてくれる。

 なぜこれほどに念入りなのでしょう。 もう皆さん、お分かりだと思います。私たちが、神に赦されて、そして人を赦す。「赦されて、赦す」、これが生涯続く営みだからです。だからイエスさまは、これほど念入りに教えてくださった。 「神に赦されて、人を赦す」。私たちキリスト者は、生涯、これを繰り返すのです。

 

結び

 今日は最後に、私が普段実践していることをお分かちします。とても簡単な実践です。 私は、毎日二回、朝は起きて朝食前に、そして夜は寝る前に、主の祈りを祈るのです。毎日朝と夜に一回ずつ。

 中でも、この第五の願いの部分には心なしか力が入ります。

 朝、これを祈ることで、この祈りが、一日の人間関係の「一本の軸」になっていきます。 そして、夜は、この祈りを祈る中で、重荷を下ろす。 朝には生活の軸を与えられ、夜には重荷を下ろす。 よろしかったら、お試しあれ。

 

 「神に赦されて、そして人を赦す」。これは生涯続く営みです。イエスさまはこのようにして、私たちが生涯にわたって、日々十字架の前に立つようにと、この祈りを教えてくださいました。

 この祈りを祈る時、信仰者は、自分の罪を自覚します。それはしんどいことでしょう。でも、祈る度に重荷をおろして、私たちは人に優しくなっていく。 「神に赦されて、人を赦す」。 これを繰り返すことが、キリスト者の生き方です。そのようにして、「赦されて、赦す」ことを続ける神の子どもたちが集まり、共に生きる場所を、「教会」と言うのです。私たちの交わりは、神に赦され、そして互いに赦し合う交わり。この交わりを、聖霊の助けの中、皆さんと一緒に育んでいきたいと願います。お祈りします。

 

「あなたの罪は赦された。」

 天の父なる神さま、溢れる恵みで私たちを赦してくださる、あなたの憐れみを感謝します。あなたに赦されて、そして、周りにいる人を赦し続けていく。そのような聖霊に助けられる歩みの中で、私たちをキリストに似た者へと変えてください。 私たちの罪を十字架に背負った救い主、キリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン!

齋藤五十三師

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