「それをここに」~主の手の中を見つめて~ (マタイ14:13-21)
齋藤五十三師
13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。
1. 牧会者のこころ
主イエスには、一人になる理由がありました。 その理由は、14章2節が記す、この地方の領主ヘロデの言葉です「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ」。バプテスマのヨハネは、神の預言者です。領主ヘロデの罪を真っすぐに指摘し、それで恨みを買い殺されてしまうのですが、主イエスの活躍を聞く中で、ヨハネの再来ではないかと、ヘロデはイエスを恐れるのです。 主イエスに対する身の危険が現実的なものとなりました。それを聞いて主イエスは、寂しい所に行って一人になろうとする。
ところがところが、その計画を群衆は許さない。彼らは歩いて主イエスを追いかけたのです。 そんな群衆に対する主イエスの対応は、これまた印象深いものでした。
14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。
主イエスには、一人になる時間が必要でした。しかし、群衆を見ると、すぐに自分の時間を手放していくのです。 人々の必要を見て、すぐに自分の時間を捧げていく。牧会者、伝道者たるや、こうあるべし、と教えられるところでしょうか。 若い頃、私を指導してくださった先生に私もよく言われたものです。「牧会者は、すぐに自分の時間を手放すべきだ」と。そして、そういうものだと思って、私も今日まで奉仕してきました。
でも、この場面のイエスさま、よく見ると、「こうあるべき」という義務感で時間を手放したわけではないようです。「彼らを深くあわれんで」とあったでしょう。 原文のニュアンスは、腹の底から感じるほどのあわれみ、簡単に言えば「愛」です。 私たちはここで、牧会者としての主イエスのハートに触れているのだと思います。
私たちの教会は、食糧配付を通じて、地域に仕える活動をしています。地域への証しとか、昨今は、東日本大震災以降、教会が地域の福祉を担って人々に寄り添うことの大切さも強調されていますので、私たちの活動には、そういった目的が確かにあると思います。 でも、この主イエスの姿を見る中で、もっと根っこにあるシンプルな動機を確認したいと思いました。それは、一言で言えば「愛」です。 今目の前に生活の必要、そして同時に魂の渇きを覚え、痛んでいる人々の現実があり、「愛」ゆえにそうした方々に仕えていく。仕える動機は、シンプルがいい。 「こうすべき」ではなく、奉仕は愛で始まる。主イエスの姿に、そんな原点を呼び覚まされた思いがしたのでした。
2. さらなる献身
主イエスは、人々の必要を見て仕えていきます。 そして弟子たちもまた、その思いは共有していたと思います。
15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」
時刻に気付き、そろそろ食事が必要だと考えた弟子たちです。 弟子たちもまた、集まった人々の必要を見ていました。そして、必要を見たからこそ、解散を促していく。 「このままではお腹を空かせてしまう」というのは、まことに理にかなった話でした。ところが、ところが、ここで主イエスは驚くべきことを命じていくのです。
16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」
17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」 18
するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。
「あなたがたが
... 食べるものをあげなさい」。これは衝撃の言葉でした。 しかも弟子たちが、いささか抗議を込めて、パンが五つと魚が二匹しかないと告げると、主は今度は、「それをここに持って来なさい」と言う。 「あなたがたが食べる物をあげなさい」、「それを、ここに持って来なさい」と、主が弟子たちに命じたことは、いたってシンプル。 どのように必要を満たすのか、プランを一切示さない。 だから弟子たちは動揺するのです。 理不尽ではないか、、と。 弟子たちには、冗談としか思えなかったのでした。
「あなたがたが」という言葉を聞いた時、弟子たちは咄嗟に、自分たちの手持ちを見てしまったのです。そして、自分の貧しさにショックを受ける。 主から、思いがけない求めや促しを受けて、自分の手持ちの貧しさに項垂れる。 教会の奉仕者たちは、今も、しばしばこれを経験します。 私などはしょっちゅうです。最近、対外的な奉仕のスケジュール管理に失敗し、同じ日に二つの教会での奉仕予定、いわゆるダブルブッキングしてしまったことがありました。 それに気付いたのが、何と奉仕の六日前。頭の中が真っ白になりました。幸い時間帯が違ったのですが、いたく落ち込みました。「ダメだ。自分には、一日のうちにこれだけの奉仕を担う力はない」と、自分の気力、体力を思い、愕然としてしまった。
こんなひどい失敗は皆さんなさらないでしょうけれど、皆さん、似たような経験をお持ちだと思います。信仰者と言えど、「人」ですから。 日ごとの働きや奉仕の中、私たちの手の内の貧しさに気付く。「ダメだ。自分には無理だ」と。
それでも、「もう勘弁してください」と音を上げたくなるくらい、時に主イエスは、さらなる献身を求めるのです。「あなたがたが」というチャレンジ。 しかし、私たちの手の内はやっぱり貧しい。 そこで18節、「それを、ここに持って来なさい」と続くのです。 そんな時、私たちは「それ」、つまり、手の内の貧しさを、どう扱うでしょうか。「こんなわずかなもの」と恥じて、引っ込めるのか。 「たとえわずかでも」と、言葉通りにイエスさまに差し出すか。 これが、恵みの世界を分けていくのだと思います。
ただ、ここで誤解しないで欲しいのは、私は皆さんに「主のために無理をせよ」と言っているのではないのです。私が伝えたいのは、自分で無理をするのをやめ、ありのまま、今持ってるものを差し出してみてはどうですか、と。 自分で何とかしようとするのをやめ、今あるものを主に差し出す。 御言葉はこのことを教えていると思います。
通称「五千人の給食」と呼ばれるこの話は有名です。 私たちは皆、結末を知っています。「差し出せば、そこに奇跡が起こるのだ」と。だから、早く差し出せと、すぐに結論を先取りしてしまう。 しかし、現実の世界は、そんなにイージーではないはず。自分がもしこの場面にいたら、と、どうかリアルに思い描いてください。 手の内が貧しいと、人は誰しも限界に気付いて、恐れを抱きます。 真面目な人ほど準備不足の自分を責めるでしょう。「こんなに人が大勢集まるなら、もっとしっかり準備するべきだった」という感じです。
宣教師時代、千恵子牧師と私は開拓伝道のチームに加わりました。いろんな取り組みをしましたが、うまくいかないことがあったり、プランが甘いと、いろんな反省も出てくる。そんな中、働き人は、誠実であれはあるほどに、重荷を一人で背負おうと悩むのです。 自分の限界を覚える時、リアルな世界の中で、多くの主の働き人は、皆、自分で何とかしようと悩むのです。 しかし、です。そこで主イエスは、シンプルに招く。「それを、ここに持って来なさい」。 そうです。主イエスは、私たちが、重荷を一人で負うことを許さない。私たちの力不足は現実で、主イエスは、それをよくご存じです。だからこそ、主は招く。「それを、ここに!」。だから、私たちもシンプルに差し出せばいい。複雑に悩んで、一人重荷を背負わなくて良いのです。 主に差し出すなら、そこに恵みの世界が開けていくのです。
3. 十二のかごがいっぱいに
19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。
19節は印象的です。主イエスが群衆に座るように命じた後、主の手の中でいったい何が起こっていったのか、福音書はそれを丁寧に描き出します。 パンと魚を取り、天を見上げて、神をたたえ、パンを裂いて弟子たちに与えた、という丁寧な描写。 主の手の中で何が起こっているのか、近くにいた弟子たちは、固唾を飲んでじっと見守っていたのです。 そして、奇跡は起こりました。主イエスの手の中で。 奇跡は弟子たちの手の中ではなく、主イエスの手の中で起こる。 心に留めたいと思います。奇跡は、私たちの手の中、私たちの準備や力量に従ってではなく、主の手の中で起こっていく。 私たちもまた、この「主の手」、主ご自身への信頼を新たにしたいと思います。
主の手から恵みが溢れて群衆を養ったパンと魚。 主イエスが、弟子たちを用いてそれらを群衆に配ったこともまた、主の恵みでした。 弟子たちは、自分たちの手の内の貧しさを思い、主を信じ切ることができなかったのでしょう。そんな不十分な弟子たちが、食糧配付に用いられていく。 食べ物を群衆に渡す時に、弟子たちは、当然、群衆から感謝されたでしょう。 そして、奉仕の喜び、仕える喜びをかみしめることになったでしょう。
私たちの教会は、地域の人々の生活支援として、月に二回の食糧配付の働きをしています。配付する食べ物の出どころは、私たちの教会ではなく、外にあるのです。(私は神様から来ていると信じていますが)とにかく、出どころは教会ではない。でも、それを地域の方々に手渡しする中で、人々に仕える喜び、神の祝福を橋渡しできた感謝をいつも覚えています。 この時、弟子たちが味わった喜びもまた、そうしたものであったでしょう。
主イエスとともに奉仕するとは、実にこういうことなのです。祝福の出どころは、私たちの手の中にあるのではありません。私たちは力不足、それでも、主の祝福の橋渡し役として用いていただける。そんな奉仕の中で私たちは改めて、主の恵みの豊かさを実感するようになるのです。
この奇跡の中で、溢れる恵みの素晴らしさを、最も実感したのは、群衆ではなく、主のすぐ近くで仕えた弟子たちです。ヨハネ福音書3章の、水をぶどう酒に変えた奇跡もそうでした。水を汲んだ者たちが、奇跡の素晴らしさを知っていたのです。この時も、五つのパンと二匹の魚を差し出し、間近でその御業を見た奉仕者である弟子たちこそが、誰よりもその恵みの大きさを味わった。 そう、差し出して、仕える人が、恵みをもっとも深く味わっていくのです。
以前にお話ししたと思います。宣教師時代、私は二年目、2005年の秋から病気をしました。 中国語の語学研修が苦しくて、異文化のプレッシャーにも負け、体も心も病んでしまった。途中、日本に帰国療養した期間も三か月ありました。あの時、正直、自分に宣教師は無理だと思いました。
それでも、諸教会の愛と祈り、何よりも主の恵みに支えられて、台湾に戻ることができたのが2006年の三月、その九か月後、十二月の最後の礼拝で、私は、初めて中国語で説教したのです。あれは、奇跡でした。今もそう思ってます。自分の貧しい気力、体力、語学力、、こんなものが宣教師を務められるはずはないという挫折の後、それでも差し出したものを、主は用いてくださいました。 あの日、講壇では、私が語っていたのではないのです。主の手の中から恵みが流れいで、私の口を通して聖霊が語ってくださった。「私ではない。主が語っている」と。 それまで味わったことのない、深い慰めと喜びの経験でした。
結び
主は今も私たちを励ましています。「それを、ここに持って来なさい」。手の内の持ち物がどれほど貧しくとも、「それを、ここに」と。そのようにして差し出して、主の御業に期待していく。その中で私たちは、神の国の祝福の扉が開くのを経験します。 そう、だから差し出したいと思います。差し出し、仕える働き人は、恵みの橋渡し役として用いられていく。そのような橋渡し役として、天からの祝福が、この新フナの地域を潤していくために、これからも皆さんと仕えていきたいと願います。お祈りします。
天の父なる神さま、あなたの溢れる祝福を感謝します。私たちもまた、持てるものを信じて差し出します。 私たちを、恵みを受け渡す、キリストの弟子として用いてください。この新船橋の地に豊かな祝福をもたらすことができますように。救い主、キリスト・イエスの御名によって祈ります。アーメン!
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