22章では、パウロが敵意むき出しのユダヤ人を前に弁明する場面が描かれていました。そして、パウロが自分は異邦人宣教に召されているのだとのくだりに来ると、ユダヤ人は再び大騒ぎを始めました。そして暴動が起きそうになったので、ローマ軍の千人隊長は、パウロを兵営に連れて行きます。そして、ユダヤ人が何を訴えているのかを知るために、ユダヤ人の最高法院、つまりサンヘドリン会議を招集し、パウロを彼らの前に立たせたのでした。
パウロは、群衆の前に立たされると、議員の一人ひとりの顔を見つめました。パウロも以前は、議員の一人でした。その時彼は、キリスト教徒迫害の議決を取る時に、賛成票を投じたと、26章で回顧しています。そうだとすると、そこに集まっている議員の中には、知った顔もあったことでしょう。パウロは以前は彼らの中で、クリスチャンを迫害していたのだと当時の自分を思い出して、胸が熱くなったかもしれません。そして彼は以前の仲間たちに、「兄弟たち」と呼びかけたのです。
1節後半「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」
こんなことを言うと、彼らがどんな反応をするのか承知の上で、パウロはこう言ったのです。パウロは、ピリピ人への手紙3章6節で、こんな風に言っています。「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」そうなのです。パウロの真面目さ、律法を行う熱心は、教会を迫害するほどだったのです。恐らく、パウロを知っている議会の人々は、「確かに彼は誰よりも律法に忠実だった」と納得したことでしょう。ところが、この発言に異常なまでに反応したのが大祭司アナニアでした。彼は、「パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じました。」 パウロのそばに立っていた人は、おそらくローマ兵でしょうから、パウロがローマ市民であるとわかった今、彼に手を出すことはできません。そこでパウロはアナニアに言いました。「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか。」とかく保身に走り、言いたいことを言えない私たち日本人からしたら、パウロの発言は衝撃です。
「白く塗った壁」とは何でしょうか。倒れ掛かった壁を水しっくいで、厚塗りし、本当は壁自体ぐらぐらして危険な状態なのに、それをごまかしている状態です。アナニアは大祭司でしたが、ローマに取り入って、その身分を与えられた、いわゆる雇われ大祭司であり、ユダヤ人の歴史上最も悪名高い大祭司だったのです。彼の強欲と貪りは有名で、当時の歴史書を見ると、大祭司アナニアは、人々が普通の祭司に与えるために納めた十分の一税を着服したとの記事があります。金に汚く、私腹を肥やすためには、暴力でも暗殺でも平気で行うような人物だったのです。しかも、ローマの法律と同様、イスラエルにも、正式な裁判を受けないで、刑罰を加えてはいけないという律法がありました。パウロはアナニアを責めます。まだ裁判が始まってもいないのに、「口を打て」と命じるとは何事か、あなたは祭司でありながら、律法を知らないのか、知っていて従わないのか、それは権力乱用ではないのかと、非難しているのです。この発言に対して、アナニアはぐうの音も出ませんでした。そしてパウロのそばに立っていた者たちは、穏やかならぬ雰囲気を察知して、パウロに言うのです。「おいおい、パウロ。あなたは神の大祭司をののしるのか」と。パウロは、答えました。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはならない』と書かれています。」パウロは本当に、彼が大祭司だとは知らなかったのでしょうか。恐らく知っていたでしょう。顔を見るのは初めてだったでしょうが、大祭司であるならばそれなりの身なりをしていたでしょうから、察しはついたはずです。パウロはきっと皮肉でこう言ったのでしょう。「律法に反して、私の口を打てという者が、まさか大祭司だとは思わなかった」という感じでしょうか。そしてアナニアにではなく、兄弟たちに、確かに律法には『あなたの指導者を悪く言ってはならないと書いてある。』と無礼を詫びました。
さて、この個所のタイトルを「神の前に生きる」としました。パウロは、「私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」と言いました。つまり、神さまの前にやましいことは何もない生き方をしてきたという意味です。その意味は先ほど述べたように、律法を厳守することにおいては、誰よりも熱心だったということもあるでしょうが、それだけではない、何かもっと違う自信というか、公明正大さを感じます。
ただ、ここで注意したいのは、パウロは神の前に自分は罪がない、罪を犯したことがないと言っているわけではないということです。パウロはⅠコリント4:4でこうも言っています。「私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。」と。またローマ書3章で、「義人はいない、一人もいない」と言い、続けて「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と告白していますから、彼は決して自分は罪を犯したことがないと言っているわけではないのです。実際、パウロはローマ書の7章で「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」と告白しています。では、パウロの言う「あくまでも健全な良心に従って、神の前を生きてきました」とはどういうことなのでしょうか。これはパウロが特別な人間だからでしょうか。私たちもこのように言うことができるのでしょうか。答えはYesです。できます。私たちはパウロのように、良心に責められることのない生き方をすることができます。では、私たちはどうしたらパウロのような良心に責められることのない生き方ができるのでしょうか。
①イエスさまの十字架により罪をゆるしていただくことによって
私たちは、かつては罪の奴隷でした。多くの罪という負債(借金)を抱えていたのです。けれどもイエスさまが私たちのすべての罪を背負い十字架に架かって死んでくださいました。罪の刑罰を私たちに代って受けてくださったのです。そのことによって私たちの負債(借金)はすべて支払われました。完済です。債務証書はすでに無効です。サタンは「済」印のついた債務証書を突き付けてきます。けれども、私たちはサタンに言えばいいのです。「その債務証書はすでに無効です。もう私はあなたにおびえない。私の債務はすでにイエスさまによって完済されたのです!」と。こうして私たちは罪から自由になりました。
②イエスさまの復活によって新しいいのちをいただき、神の子とされたから。
「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)私たちには新しいいのちが与えられました。神の子どもとしてのいのちです。どうしてまた奴隷の子ども(罪の奴隷)に戻りたいと思うでしょうか。私たちは神の子どもです。そしてますます神の子どもらしくなっていくのです。
③心に聖霊が与えられたことによって
聖霊は私たちがすでに罪がゆるされ、神の子どもとされたことの確証です。「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)とあるように、聖霊は、私たちが罪から離れて、良心にしたがって神の前に責められることなく生きることができるように助けてくださいます。
私の中学生の時の証しは、以前もしたことがあると思います。私は小3の時にイエスさまを信じる決心をして心にイエスさまをお迎えして、神の子どもとされていました。ですから、私の良心は研ぎ澄まされて、罪を犯すと、心がチクチク痛む。自己嫌悪に陥る。もう罪を犯さないぞと心に誓うのに、同じ失敗を何度も繰り返す、そんな自分にうんざりしていました。その時の私の祈りは、「神さま、私は自分で自分をコントロールできません。お手上げです。神さまが何とかしてください」というものでした。そして神さまはそんな私の祈りを聞いてくださいました。ある時、母にうそがばれるということを通して、私は神さまにぐっと引き寄せられました。そしてそのことを機に洗礼を受けたのです。その時、私は一つの決心をしました。それは「罪を隠さない」ということです。つまり罪を隠すためにうそをつかないということです。このことは後の私の信仰生活に大きな影響を与えました。このことによって私は罪から守られたのです。
残念ながら、人は罪を犯さないでは生きられません。イエスさまを信じて新しく生まれ変わって、神の子どもとなっても、この肉体をもって、この地上に生きている限り、私たちは罪を犯すのです。パウロもこの肉の性質との闘いにありました。けれども、罪を犯したときにどうするかが問題です。それを隠すとき、罪は私たちの腹の中で小さな罪が熟し、腐り、悪臭を放ち出します。ですから、なるべく早い段階で、神さまの前に罪を言い表すのです。アダムとエバも、禁断の果実に手を出したときに、神さまから隠れたのではないですか?罪は小さいうちに主に告白し、ゆるしていただきましょう。癌はまた小さい時に切除しなければいけません。そうしないとあっという間に全身に広がります。Ⅰヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」私たちはいつも神さまに裸でいましょう。罪人のままでいい、それを隠さないで神さまの前に出ましょう。神さまはそんな私たちを赦して義と認めてくださるのです。そしてやがて私たちが、神の法廷に出るときには、パウロのように「私はあくまで良心にしたがって神の前に生きてきた」と告白することができるのです。
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