スキップしてメイン コンテンツに移動

国と力と栄とは(ヨハネの福音書14:12〜14)

「国と力と栄えとは」(ヨハネ14:1214

齋藤五十三師

1.     国と力と栄え

  しばらくの間、主の祈りを皆さんと学びました。二か月前の九月に終わったばかりです。主の祈りは、神の子キリストが、私たちに教えてくださった祈り。 この祈りを祈る時、私たちは神の子イエスさまと思い重ねて、天の父に向って祈ります。そういう意味で、これは神の子どもの祈りなのだと、申し上げてきました。

 主の祈りは、高く天を見上げて始まります。「あなたのお名前が聖とされますように」、つまりほめ称えられますようにと。 そのように天を見上げて始まりながら、私たちの目線は次第に、この地上の生活のことに下りてきます。そして最後は、自分が小さく、弱い者であることを告白して結ばれました。 マタイ6章13節「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」という、へりくだった祈りで主の祈りは結ばれていきます。

 でも、「結ばれる」と聞いて、おやっと思われたのではないですか。主の祈りはまだ続くはずと。 確かに、私たちが礼拝で祈る時、主の祈りには続きがありました。「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものです」という賛美、頌栄の言葉で、礼拝の中の主の祈りは結ばれていくのです。

 この部分、もともとはなかったのです。聖書にも書いてありません。でも、主の祈りを礼拝で用いるようになってから、「国と力と栄えとは」という部分を加えるようになったのです。「国」すなわち、神の国も、力や権威、そして栄光もすべては神さま、あなたのものです、という、礼拝に相応しい賛美の形で、主の祈りを結ぶように工夫がなされていったのでした。そして、私たちもまたそれを受け継いでいるのです。

 「国と力と栄えとは」というこの部分、なんだ、これは元々の祈りの一部ではないのか、と、驚かれた方もおられるかもしれません。でも、だからと言って、この結びの部分が軽くなるわけではないのです。 いや、それどころか、実は大事な意味が、この結びには込められています。 この結びが加えられることで、祈りの土台が明らかにされたのです。つまり、私たちが主の祈りを祈るとき、それは確かに聞かれていて、実現していくのだという、主の祈りの確かさを、私たちは知ることができるのです。

 今日は、この結びの部分に関係のある御言葉から、学びたいと思います。私たちが主の祈りを祈るとき、それは確かに聞かれていくのだと。

 

2.     大きなわざ

 ヨハネ1412節(読む)

 「まことに、まことに」と、イエスさまはしばしば、大事なことを告げる時、こう言って言葉を口にされました。例えば、1224節、「まことに、まことに」と、一粒の麦が地に落ちて死に、豊かな実を結ぶと、御自分の十字架を予告されたことがありました。 また、1338節では、使徒ペテロの裏切りを告げるときにも、「まことに、まことに ... 鶏が三度鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と。 そして、この14章でも、「まことに、まことに、あなたがたに言います」。 これを聞いた時に弟子たちは、おそらく緊張を覚えたと思います。イエスさまはいったい、今度は何を言われるのだろうと。いくらかの緊張が走ったに違いない。

 「まことに、まことに」と、主がこの度伝えたのは、一つの約束でした。主イエスを信じる者は、主イエスと同じわざを行うようになる。しかも、さらに大きなわざさえも行うようになるのだと。 これは驚くべき約束だと思います。

 弟子たちも驚いたでしょう。彼らは、これまで様々な主のわざを見てきたのです。 水をぶどう酒に変えたり、病の人を癒やしたり、五千人を超える人々を満腹させたりと、弟子たちはこれまでいろんなわざを目撃してきたのです。それと同じわざを、今度は、イエスを信じる自分たちが行うようになる? そんなことがあり得るのかと。

 しかもここでは、「イエスを信じる者が行う」とありますから、これは私たちへの約束でもあるのです。皆さんは信じられますか。自分が、イエスさまと同じわざ、いや、それ以上のわざを行うようになるという、この約束を!

 しかも、ここでは、約束の理由付けがユニークです。イエスさまは言います。「わたしが父のもとに行くからです。」天の父のもとに帰るから、今度はあなたがたが、わたしに変わって、わたしのわざを行うのだ、ということ。すなわち、あなたがたが飢えている人を満たし、病んでいる人を癒やし、神の国を証しするようになるのだと。 そう聞くと、そんなことが可能なのだろうか、と私たちは驚く。しかし、主イエスは、可能だ、と言うのです。それは、祈りがあるからです。

 

 1314節(読む)

 祈り求めるなら、あなたがたはイエスのわざを行うようになる。しかも、ただ祈ればいい、ということではなくて、「わたしの名」つまり、イエス・キリストの名によって祈るなら、それは可能になるのだ、ということでした。ここでは「イエスの名によって祈る」、ここにポイントがあるのです。

 イエスの名で祈るとは、どういうことでしょう。これはイエスという名前に、おまじない的な効き目があるとか、それが夢をかなえる秘密の言葉であるとか、そういうことではないのです。イエスさまの名で祈る。 それは、極めて人格的なことです。

 「名は体を表す」と言いますね。人の名前は、ただの記号でもしるしでもありません。名前はその人自身の人格と分かち難く結び付いている。 人は誰しも、自分の名前を悪く言われると、不快だし傷つくでしょう。私にはそういう経験が山ほどあります。「いそみ」53という名前は、子どもの頃、あだ名をつける上での格好の標的でした。いろんなあだ名がついたのですが、よく言われたのが、「イソギンチャク」。言われる度に嫌でしたね。 名前はただの記号じゃない。私自身であって、そこには大事な思いが込められている。

 「名前」は、その人自身です。だから、「イエスの名」によって祈るなら、その祈りの中で、私たちはイエスさまと一つに結ばれているのです。聖霊によって結ばれているのです。御言葉の約束にもありました。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる」と。 そう、イエスの名によって祈るなら、そこには主が共におられ、共に働いてくださるのです。 私たちが普段の信仰生活の中で祈るときに、何とも温かな思い、イエスさまに触れられた思いになるのは、実はそういうことなのです。

 

3.     主の祈りを祈るということ

 主の祈りは、その結びに、「イエスの名によって」とはつきませんが、これはイエスさまご自身の祈りです。だから、二人、三人、いや、私たちの教会が心を込めて主の祈りを祈るとき、そこには必ずイエスさまがおられる。そして、主の祈りを通して、いよいよイエスさまを知るようになるのです。

 皆さん、主の祈りを何度も祈っていると、私たちは気づくのです。何に気付くのか。この主の祈りが、イエス・キリストの生涯そのものである、ということにです。

 例えば、「あなたのお名前が聖とされますように」という、主の祈りの最初の願い。 これこそはイエスさまの生き様です。イエスさまは、その生き様を通して、天の父をほめ称え、栄光を現すことに心を砕きました。13節にもありますね。「父が子によって栄光をお受けになる」と。 主の祈りの第二の願いはどうですか。「神の国が来ますように」。イエスさまが語ったのは、神の国の福音です。「神の国はあなたがたのただ中にある」と。そしてイエスさまは、天の父のみこころを行うことに心を傾け、日ごとの糧に関しては、多くの人を養いました。また、罪の赦しについてはどうでしょう。「父よ彼らをお赦しください」と、自分を十字架にかけた人たちを赦していく。そんなキリストであったことを思い出します。 しかも、御自分には罪がないのに、これを私たちの祈りにするために、「我らの罪をも赦したまえ」と加えた後、最後に「わたしたちを試みにあわせず」との祈りが続きます。イエスさまはサタンの試みに打ち勝ちました。そして死に打ち勝ち、よみがえって、私たちを悪しき力から解放してくださいました。

 そう、主の祈りは、イエスさまの生き様そのものです。そして、この祈りをイエスさまと一つ思いで祈るとき、主イエスは私たちと共におられます。だから祈りは必ず聞かれて、私たちもまた、主の祈りを生きる者へと変えられていくようになるのです。

 イエスさまは、世の終わりまで、私たちと共にいるとお約束くださいました。だから私たちは、生涯、主の祈りを祈り続けたいと思います。この祈りを祈るときに、イエスさまは私たちと共にいるのです。そして、「あなたがたが、わたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」との約束の通りに、私たち自身が、主の祈りを生きるようになっていくのです。 主の祈りは、私たちを変える祈りです。

 かつて新潟で牧師をしていた折、御主人とけんかをして、夫をどうしても赦せないとおっしゃっている姉妹がいました。まあ、私たち誰もが経験する夫婦関係の範囲だと思いますが、とにかく、夫を赦せない。 はたから見れば、真面目で良いご主人。でも、一緒に暮らしていると、いろいろあるものです。 その姉妹は、主の祈りを祈る中、夫を赦すことを示されたそうです。そして、そういう気づきから、何かが変わり始めていくのです。 同様の経験は、私にもあります。私も人を赦せない葛藤の中、主の祈りに取り扱われたことが、これまで何度もありました。

 主の祈りは、私たちを変えていきます。「何でもそれをしてあげます」とイエスさまの約束くださった通りに。そのように私たちが変えられていく中で、「ああ、神さまは確かに生きて働いておられる」と、私たちは経験するようになるでしょう。そして私たちは、賛美の思いでこの結びを口にするのです。「国と力と栄えとは、永遠にあなたのものです」と。

 

結び

 最後に一つのことを考えて終わります。イエスの名によって祈ると、信仰者はイエスのわざを行うようになる。主の祈りのように生きるようになる。じゃあ、12節の約束「さらに大きなわざを行うようになる」、これについてはどうでしょう。イエスさまよりも大きなわざ? そんなの本当に可能なのだろうかと。

 ここでは「大きなわざ」という言葉に意味があります。「さらにすぐれたわざ」ではなくて、長さや量を表す「大きなわざ」を行う、とイエスさまは言われた。

 皆さん、キリスト教会は二千年にわたって、主の祈りを祈りながら、キリストのわざを地上で行ってきました。その長さや量について言えば、すでにイエスさまの三十数年の公の生涯の長さを超えているのです。 そして、私たちもやがて超えていくでしょう。私たちは地域の食糧配付を二つの形で行い、毎月合計すると百名を超える方々に食糧品を提供しています。 ざっくり見積もると、年間の延べ人数で千二百名を超える人々の胃袋を満たしています。これを四年続ければどうでしょう。私たちの奉仕は、イエスさまの五千人の給食にその物量において届くのです。何だかワクワクする話ではありませんか。私たちは決して大きな教会ではないけれど、私たちの教会もまた、イエスさまよりも大きなわざを行うことができる。

 だから、主の祈りを祈り続けたいと思います。そうやってキリストのわざを、この地域で担い続けていくときに、私たちは神が共におられることを経験していく。そこでは自ずと「国と力と栄え」とは、という賛美が、私たちの口から溢れてくることになるのです。 お祈りします。

天の父なる神さま、あなたのお名前をほめ称えます。イエスの名によって祈る私たちが、イエスの御業を行う中で、この地域の光となり塩となることができますように。 この地域の人々を癒やし励ます中で、あなたの素晴らしさを証しする私たちの教会としてください。 救い主キリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン!



コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...