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はじめの福音(創世記3:15)


「はじめの福音」
創世記3:15

教会の暦では、今日から「アドベント」です。アドベントクランツにもろうそくが1本灯りました。アドベントは、日本語では「待降節」と言います。文字通り、イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。教会で育った私は、子どものころから、アドベントに入るとなんとなく心がわくわくしたものです。教会ではクリスマス祝会のために劇団が発足それ、クワイヤーの練習も始まります。教会の姉妹方は、今年はどんなケーキを作ろうかしらと、計画を立て始めます。教会の外でも、駅前はイルミネーションが施され、町の中も華やぎ始めます。

けれども現実を見ると、世の中の闇はますます濃くなっています。ウクライナとロシアの戦争は未だ終結することなく、尊い命が毎日ように失われていますし、新型コロナウイルスは、収束の兆しがまだ見えていません。また、現代ほど、暴力に訴えて、物事を解決しようとする風潮が強い時代はありません。虐待や暴力、殺人のニュースがない日はありません。人の罪と悲惨がこれほど世の中をむしばんでいる時代だからこそ、光であられるイエスさまが、この地上で、もう一度照り輝くように、御国が来ますようにと願いつつ、クリスマスを待ち臨みたいと思うのです。 

さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。

3:15 「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」

 「はじめに神が天と地を創造された」から始まる創世記には、神さまがこの世界をよいものとして造られたと書かれています。太陽も月も星も、海とそこに住む魚も、陸にある植物やそこに住む動物たちも、とても良いものだったのです。そして、神さまは愛の対象として人をご自身のかたちに作られ、この地上の被造物を人間に治めさせました。当時の神と人、そして被造物との調和のとれた平和な世界が、1章、2章で描かれています。ところが人は、神が定めた、たった一つの言いつけ、「善悪の知識の木の実からは取って食べてはならない」という、その小さな言いつけを守ることができませんでした。そうして神に背くことによって、神の愛のふところの中から飛び出し、神の目を避けて隠れます。私たちは勘違いしてはいけません。神が言いつけに背いた人間を怒って退け、拒絶したのではありません。人間が、自分のしたことについて、神の前に恥じて、自ら隠れたのです。何だかわからないけれども、恥ずかしくて、恐ろしくて、神の前に出られなかったのです。そしてそこから神の「あなたはどこにいるのか」との呼びかけが始まるのです。人は罪を犯して、神から隠れたけれど、だからといって神の人への愛は変わりませんでした。そしてすぐに、本当にすぐに、福音を、神との関係をもう一度取り戻す救いのご計画を、人に示していくのです。それが今日の聖書の箇所です。

この15節は、2世紀の教父エイレナイオスによって「原福音」と呼ばれて以来、教会はずっと、「はじめの福音」としてこの個所を理解してきました。人間が罪を犯した直後に、神によって救いの御手が差し延ばされた「はじめの福音」です。つまり、神さまは、一瞬たりとも人を見放しはしなかったということです。人が神の愛の御手を振り払ったその瞬間から、神の御手は差し延ばされ、神の愛が人を追い始めた、神の救いのご計画がさっそく実現に向けて動き始めたということです。それでは、原福音と呼ばれるこの個所を詳しく見てみましょう。

1、「おまえと女」「おまえの子孫と女の子孫」の間の敵意

「おまえ」また「おまえの子孫」というのは、直接的には蛇のことですが、伝統的な解釈としては、世代を超えて存在し、神に敵対する悪魔と悪魔の手下ども、悪霊たちを表しています。「女」、「女の子孫」というのは、20節にエバについて、「生きるものすべての母」と言われているように、同じく世代を超えての全人類を表していると言えます。そして神は、全人類からイスラエル民族を取り分け、イスラエル民族からユダ族を取り分け、やがてダビデの家系から、ここで「彼」と呼ばれるイエス・キリストを取り分けていくのです。

女と蛇は共犯者になりました。蛇が女を誘惑し、女が蛇のことばに耳を傾け、神さまが食べてはならないと命じていた木の実を取って食べたのです。その時に、彼らの距離はぐんと縮まり、親しくなっていたのですが、主はそれをよしとはしませんでした。そして彼らの間に敵意を置いたというのです。実は、これは神さまのあわれみです。悪魔は、一瞬の快楽や、満足、成功をエサに人に近づき、神に背かせ、自分の方に引き寄せます。しかし間違えてはいけません。悪魔に愛はないです。一瞬で消える飴玉を人にあげて自分に引きつけ、仲間にし、神に背かせるのが悪魔の常套手段です。そして仲間にすることに成功すると、今度は私たちを奴隷にします。そして向かわせるところは、破滅であり、滅びなのです。ですから神は、そんなことにならないようにと、悪魔と人の間に敵意を置いてくださったのです。そうして、もう一度ご自分のもとに人を引き戻そうとされたのです。

 2、彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ

ここに出て来る「彼」は、女の末裔、全人類の代表、イエス・キリストのことです。イエスさまは、神のみ子でありながら、完全な人間となって、乙女マリアを通して、女の子孫として生まれてくださいました。この「彼」、イエス・キリストが、「彼はおまえの頭を打ち」とあるように、最終的には悪魔に勝利することを宣言されています。

「彼はお前の頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ」とありますが、この「打つ」という言葉は、原語を見ると、「木っ端みじんに(粉々に)打ち砕く」というような意味を持っています。つまり、神のまま、完全な人として生まれたイエスさまは、悪魔によって、かかとを打ち砕かれるような苦しみを受けると言っているのです。実際、イエスさまは受難の生涯を歩まれました。イエスさまがお生まれになったとき、何とかこの幼子を抹殺しようと、当時の王ヘロデが画策します。イエスさまを殺そうとする陰謀は、当時の宗教家たちを通して絶えず試みられました。そして最後は、とうとう十字架にはりつけにされ殺されることになります。それはまさに、かかとを粉々に打ち砕かれるような苦しみでした。多くの人々は、これで終わったと思いました。しかし、打撃を受けたのは「かかと」だけでした。致命傷ではありません。悪魔の必死の攻防、あがきでしかなかったのです。イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られたけれど、3日目によみがえり、罪と死に打ち勝ってくださいました。これは前半戦の勝利です。

そして後半戦では、イエス・キリストがもう一度この地上に来られ、「蛇の頭を打つ」とあるように、悪魔を完全に滅ぼしてくださる。そして新しい天と新しい地を、イエスさまご自身が王となって治めてくださり、私たちは、その都で永遠に主イエスさまと生きるのです。「彼はおまえの頭を打ち」と言うのは、最終的な、決定的な勝利をも預言しているのです。

私たちはもう一度、この「原福音」が、創世記3章に記されていることに注目したいのです。人が罪を犯したので、義なる神は、それをちゃんと裁かければならなりませんでした。何が問題だったのか、この罪の結果は何なのか、これからどんな刈り取りをしなくてはいけないのか、神は語り始めます。そして、まずは蛇を裁き始めるのですが、すぐに神の人への愛が溢れ出ます。それが15節です。「人よ、あなたはわたしのものだよ。悪魔の奴隷になってはいけない。わたしは悪魔との間に敵意を置くよ。これから悪魔は、人にも被造物世界にも大きな影響を与えるだろう。この世界は人の罪とそこから来る悲惨で満ちることだろう。でも大丈夫だから。わたしは救い主を送るよ。おまえの子孫から生まれる。神が人となって生まれるのだよ。そして彼は、やがて悪魔の脳天を打ち砕く。そして人を罪と死から、完全に解放するからね。そうしたら、また愛の関係を取り戻そう。それまでわたしの愛は変わらないから。ずっと愛し続けるからね。」

神さまは、こんな前置きをしながら、人の罪の結果とその影響を語り始めるのです。14節は蛇への呪いですが、エバとアダムへのことばは、呪いではありません。神は、人の罪の結果と影響を人に言い聞かせているのです。「女は産みの苦しみが増すよ」「男も労苦して糧を得ることになるよ」と。でも、その前に福音の恵みを語っておられる。神の愛が変わらないこと、現状は厳しいだろう、しかし「彼」は、救い主は、必ず来られる。そして救いの道を開く。そして最終的に悪魔に勝利するのだとおっしゃっているのです。そしてこの福音は、この後、何度も預言者たちを通して、「救い主が来られるよ」と、リマインドされていくのです。それが旧約聖書のあらゆるところにちりばめられている「メシア預言」なのです。アドベントの時期、私たちはこの神の創造の初めから変わることなく貫かれている愛と勝利の約束を思いながら過ごしていきたいと思います。お祈り致します。

齋藤千恵子牧師


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