スキップしてメイン コンテンツに移動

世界の基が据えられる前から(エペソ1:3〜6)

「世界の基が据えられる前から」(エペソ1:3~6)

齋藤 五十三 師

はじめに3節(読む)

 エペソ人への手紙の本文は、この3節から始まります。冒頭の1~2節は挨拶ですから、手紙は、3節が始まりなのです。 この本文の始まり方、少し型破りではありませんか。 何が型破りかと言えば、パウロはいきなり賛美で始めているのです。しかも、相当にテンションが高い。 例えるならまるで、日曜朝、「おはようございます」と皆さんに挨拶するのではなく、皆さんの顔を見るなり、すぐにハレルヤコーラスを歌いかけていくような、そんな突き抜けた喜びのテンションです。皆さんも驚くでしょう。 朝、私に会うなり、いきなり賛美を歌いかけられたら。

 パウロは感動しているのです。 しかもその感動が、一気に溢れる賛美の言葉となって途切れることなく続いていきます。 今日の箇所、特に4節以下を原文で読むと、4節から14節が切れ目のない一つの文章で繋がっていきます。 そうです。こみ上げてくる感動を、彼は切れ目のない賛美の言葉として一気に語り出すのです。

 

1.     霊的祝福

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように!」 このこみ上げるパウロの感動は、いったいどこから来ているのでしょう。 この手紙が、パウロの牢獄に繋がれている時に書かれた手紙です。それを思うと、私たちはいよいよ不思議に感じる。 どこからこの賛美、喜びが溢れてくるのか。 どうしてだろう。 それは驚くべき祝福のゆえでした。 「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」 すべての霊的祝福をもって、神が私たちを祝福している! この祝福が、パウロの口を開いて、賛美を歌わせていったのでした。

 ここで言われる、祝福は、単にエペソの教会だけに注がれている祝福ではありません。その内容の広がりを読むと分かりますが、ここで言われる霊的祝福とは、私たち信仰者のすべてをその対象としているのです。

 そう考えるとどうですか。神はすべての霊的祝福でこの教会を、そして皆さん一人一人を祝福している。私たちにはそういう自覚があるでしょうか。私たちは天上にあるすべての霊的祝福で、特別に祝福されているというのです。

 ここでいう天上の「霊的祝福」とは、その言葉の意味を調べると、きわめて具体的なものだということが分かります。それは具体的に、私たち一人一人の日常を励ましていく、実際的な祝福です。今日の一日を生きるための勇気と励ましをもらえるような、そういう祝福。 皆さんには自覚がありますか。自分がこれほどの祝福を受けているという自覚が、、。 私は思うのです。私を含め、おそらく殆どの方が、この素晴らしい祝福に、普段は気づいていないだろうと。

 

2.     選び、子とすること

 「天上のすべての霊的祝福」。それは、私たち信仰者の多くが、普段は自覚しないままに受け取っている祝福。 その祝福の内容を教えてくれるのが、続く4節、5節の御言葉です。

 4、5節(読む)

 ここには驚くべきことが記されています。私たち信仰者は、神によって選ばれていたのだと。 私たちは、もしかしたら自分で選んで、自分で決断し、イエス・キリストを信じた、と思っていたかもしれない。 しかし、そうではない、と。神によって選ばれていた、というのです。 しかも、いつ選ばれたのですか。「世界の基が据えられる前から」と御言葉は語っているのです。 私が、「私たちの殆どが気づいていない祝福」、と申し上げたのはこのことです。 私たちは、自分が神の恵みで選ばれていたことに気づいていない。 それもそのはず。私たちの生まれる遥か昔、「世界が創造される前から」神が私たちを選んでいてくださったからなのです。 信仰の世界には、私たちの気付かない祝福があるのです。気づかないけれど選ばれている。知らなかったけれども、世界の造られる前から、神の愛が私たちをしっかりと捉えていた。 信仰の世界には、そうした驚くような祝福があるのです。

この祝福の中身が、「選び」と言うことで、私たちはなかなかイメージしにくいのではありませんか。 どうでしょう。私たちは、自分が「選ばれていた」と聞いて、何をお感じになったでしょうか。自分が神の選びの対象であった、と聞いて、今、どんな思いを抱いておられるでしょうか。 選び、と聞いて、「当然だ、私こそ選ばれるに相応しい」と、そう思われた方はあるでしょうか。或いは、どうして自分のような者が、、と恐れ多く思われる方があるでしょうか。 おそらく、普段から聖書を読んでいるならば、自分こそは、その「選び」に相応しい、と胸を張れる人はいないと思います。 パウロが記したローマ人への手紙3章で、パウロは人間誰もが持っている罪深さを指摘していました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない」。義人、正しい人が一人もいない、という人間の罪深さ。 それゆえにこのエペソ人への手紙2章3節では、パウロはこうも言うのです。 私たちは、かつては不従順の子らであって、生まれながら「神の御怒りを受けるべき子」であったのだと。 人は皆、その自己中心性ゆえに、神の裁きを受けるはずだったのだ、と聖書は記しているのです。

聖書の人間観に照らすなら、私たちは「選ばれる」に相応しい者ではなかったのです。それなのに、神は私たちを選んでくださいました。しかも、「世界の基が据えられる前から」とありますから、私たちの人柄とか、どんな良い事をしたとか、私たちの働く姿が、神のおメガネにかなったから選んだというような、そういう選びではないのです。それは一方的な恵みの選び。 私たちが生まれる遥か昔に、私たちがやがて生まれてくる日を楽しみに、神は私たちを選んでくださったのでした。

この選びは人格的です。神はくじ引きのように、適当に選んで、私たちがたまたま運よく当たった、という、宝くじのような選びではない。 5節にこうありました。 「神は、みこころのよしとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」。ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。 愛がなければ、子どもとして迎えることはできない。 神は、まだ顔を見る前から、「この子が欲しい」と、私たちを神の子ども、神の家族の一員に選んでくださった。これはそんな人格的な、血の通った選びなのです。

私たちは自分の力や努力では、神の子どもになることは出来ません。 遥か昔に神が選んでくださったから、私たちは神の子どもとして、今、信仰生活を歩んでいる。私たちには、自分で神の子どもになる力はないのです。すべては神の恵みから出たこと。 まだ顔を見る前から、「この子が欲しい」と言って選ぶ。 私たちを神の子どもにする選びは、その背後に、愛が動機として働いているのです。

 私が親しくしている牧師ご夫妻がいます。ご夫妻にはお嬢さんが一人いました。そして二人目を願ったのですが、与えられず、外から養女を迎えることにしたのです。 キリスト教界には、養子縁組を斡旋する団体があります。中絶大国と言われる日本で、親が育てられない赤ちゃんを引き取り、クリスチャンホームに養子・養女として斡旋していく団体です。牧師ご夫妻は、その団体を通して二人目の赤ちゃん、女の子と出会いました。そして、自分の娘に迎えた。 ご夫妻は、その赤ちゃんに会ったことがあるわけではないのです。 どんな子が欲しいとか、リクエストもできない。 すべてをその団体に任せ、祈りのうちに待つのです。何だか、神さまの選びに似ています。 ご夫妻が愛をもって、二人目を迎えようと祈り、決断しなければ、赤ちゃんはご夫妻の子どもになることはできなかった。そんな神の導きとしか思えない出会いの中、ご夫妻は赤ちゃんを迎え、赤ちゃんは、ご夫妻の娘となったのでした。

 この牧師ご夫妻、二人のお嬢さんを連れて、台湾の我が家を訪ねてくださったことがあります。ご両親が、二人のお嬢さんを分け隔てなく愛して育てているのがよく分かりました。一緒に食事をしながら、私は、小学校の低学年だった二番目のお嬢さんの屈託のない笑顔を見て、心の中で一人思ったのです。 「こんなに素敵なお父さん、お母さん、こんなに温かい家族と出会うことができて良かったね」と。

 親が愛と祈りをもって、まだ見ぬ赤ちゃんを迎える決意をした。だからこそ、ここに麗しい一つの家族がいる。赤ちゃんは自分でここに来たわけではない。ご両親の愛と祈りがあったから。

 私たちも同じではありませんか。私たちも、自分の力で神の子どもになったのではない。 世界の基が据えられる前から、選んでくださった神の愛があったから、私たちは今ここに、神の家族として共に生きているのです。本気の愛がなければ、子どもとして自分の家族に迎えることはできません。神は本気だった。「この子が欲しい」と、そのようにして集められた私たち、それが私たちの教会なのです。

 

3.     キリストにあって

最後に確認したいことがあります。どうして私たちが神の子どもになれたのでしょう。パウロによれば、本当は、神の御怒りを受けるべき子であった、という私たち。 到底、神の子どもに相応しいとは思えないのです。救われて、信仰をもった今でさえ、多くの足らなさ、欠けを抱える私たちでしょう。それなのになぜ、、と。

 答は一つ。今日の聖書箇所には、一人のお方のことが四回にわたって繰り返されていました。 3節「神はキリストにあって」、4節「この方にあって私たちを選び」、5節「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと」、そして6節「神がその愛する方にあって」。 そうでした。選びが「キリストにある」ものだった、四度にわたって繰り返されていく。 ただキリストのおかげで、私たちは神の子どもになることができた。キリストがいたから、今の私たちがいる。 クリスマスに人となられたキリストは、ただ私たちを神の子どもにするために、この世に来てくださったのだと気付かされます。 あの荒野の羊飼いへの良き知らせ「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」。その救い主とは、私たちを神の子どもにする救い主でした。 そう、キリストにあって、私たちは神の子どもとなったのです。この朝の招きの言葉もそうでした。「その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」。 キリストのおかげで、すべては準備万端整っている。神は、私たちを子どもとして迎えようと、世界の基が据えられる前から、私たちを選んで待っている。あとは、私たちがキリストを信じること。キリストを信じるときに、私たちは神の子どもとして迎えられていくのです。

 

結び

 私たちは、このようにして神の子どもになったのでした。私たちに見どころがあったからでもなく、神のお眼鏡にかなったからでもなく、ただ純粋に一方的な愛で選ばれている。 私たちが想像だにしなかった恵みです。思いもよらない恵みだった。だからパウロは手紙の冒頭から叫ぶのです。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」と。

 これはもったいないほどの愛。だからこそ、この愛に応えたいと思います。 子として選んだのは、私たちを「御前に聖なる、傷のない者」にするためだった、と4節は記していました。もとは罪ゆえに「きよさ」からは程遠く、むしろ傷だらけだった私たちでしょう。そんな私たちを、神はキリストにあって、子としてくださった。このもったいない愛に応えるために、聖なる者、傷のない者を目指して、いよいよキリストに深く結ばれていきたい。そのように願わされた、この朝のひとときでした。お祈りします。

 

私たちを子として迎えてくださった、父なる神さま、感謝します。その愛と恵みに応えて、聖く、傷のない者と変えてください。聖霊を豊かに注ぎ、世にあって、神の子どもとして私たちの教会を輝かせてください。救い主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

心から歌って賛美する(エペソ人への手紙5:19)

「心から歌って賛美する」 エペソ人への手紙5:19 今年の年間テーマは、「賛美する教会」で、聖句は、今日の聖書箇所です。昨年2024年は「分かち合う教会」、2023年は「福音に立つ教会」、2022年や「世の光としての教会」、2021年は「祈る教会」、 20 20年は「聖書に親しむ教会」でした。このように振り返ってみると、全体的にバランスのとれたよいテーマだったと思います。そして、私たちが、神さまから与えられたテーマを1年間心に留め、実践しようとするときに、主は豊かに祝福してくださいました。 今年「賛美する教会」に決めたきっかけは二つあります。一つは、ゴスペルクラスです。昨年一年は人数的には振るわなかったのですが、個人的には、ゴスペルの歌と歌詞に感動し、励ましを得た一年でもありました。私の家から教会までは車で45分なのですが、自分のパートを練習するために、片道はゴスペルのCDを聞き、片道は「聞くドラマ聖書」を聞いて過ごしました。たとえば春期のゴスペルクラスで歌った「 He can do anything !」は、何度も私の頭と心でリピートされました。 I cant do anything but He can do anything! 私にはできない、でも神にはなんでもできる。賛美は力です。信仰告白です。そして私たちが信仰を告白するときに、神さまは必ず応答してくださいます。 もう一つのきっかけは、クリスマスコンサートのときの内藤容子さんの賛美です。改めて賛美の力を感じました。彼女の歌う歌は「歌うみことば」「歌う信仰告白」とよく言われるのですが、まさに、みことばと彼女の信仰告白が、私たちの心に強く訴えかけました。   さて、今日の聖書箇所をもう一度読みましょう。エペソ人への手紙 5 章 19 節、 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」 「詩と賛美と霊の歌」というのは何でしょうか。「詩」というのは、「詩篇」のことです。初代教会の礼拝では詩篇の朗読は欠かせませんでした。しかも礼拝の中で詩篇を歌うのです。確かにもともと詩篇は、楽器と共に歌われましたから、本来的な用いられ方なのでしょう。今でも礼拝の中で詩篇歌を用いる教会があります。 二つ目の「賛美」は、信仰告白の歌のことです。私たちは礼拝の中...

ヘロデ王の最後(使徒の働き12:18~25)

「ヘロデ王の最後」 使徒の働き12:18~ 25   教会の主なるイエス・キリストの父なる神さま、尊い御名を賛美します。雨が続いておりますが、私たちの健康を守り、こうして今週もあなたを礼拝するためにこの場に集わせて下さり心から感謝します。これからみことばに聞きますが、どうぞ御霊によって私たちの心を整えてくだり、よく理解し、あなたのみこころを悟らせてくださいますようにお願いします。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン   エルサレム教会では、それまでのユダヤ人からの迫害に加えて、その当時領主としてエルサレムを治めていたヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ 1 世)からの弾圧も加わり、まずは見せしめとして使徒ヤコブが殺されました。それがユダヤ人に好評だったので、ヘロデ王はさらにペテロも捕らえ、投獄しました。ところが公開処刑されることになっていた日の前の晩、獄中にみ使いが現れ、厳重な監視の中にいるペテロを連れ出したのでした。ペテロのために祈っていた家の教会は、はじめはペテロが玄関口にいるという女中ロダの証言を信じなかったのですが、実際にペテロの無事な姿を見て大喜びして神を崇めたのでした。ペテロは事の一部始終を兄弟姉妹に報告して、追手が来る前にそこから立ち去りました。   「朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間で大変な騒ぎになった。ヘロデはペテロを捜したが見つからないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じた。そしてユダヤからカイサリアに下って行き、そこに滞在した。」( 18 ~ 19 節)   結局番兵たちは朝になるまで眠りこけていたようです。朝起きてみると鎖が外れており、ペテロがいなくなっていました。 4 人ずつ 4 組、 16 人いたという兵士たちは、おそらくエルサレムの城門をロックダウンし、都中を駆け巡りペテロを捜しますが、もう後の祭りでした。こうしてペテロはまんまと逃げきったのです。 3 年ほど前「逃げ恥」というドラマが流行りました。これはハンガリーのことわざ「逃げるは恥だが役に立つ」から来ていますが、確かに私たちの人生で、逃げた方がいい場面というのは少なからずあります。特に自分の命を守るために逃げることは恥ずかしいことでもなんでもありません。そういえばイエスさまの...