「福音に立つ教会」
Ⅰコリント15:1~5
「福音」は、英語では「ゴスペル」あるいは「グッドニュース」という言い方もします。そしてギリシャ語では「ユーアンゲリオン」と言いまして、もともとは「良い知らせに対する報い」や「良い知らせを伝えた人への報酬」という意味なのですが、「良い知らせ」自体を指すこともあります。当時は、戦いの「勝利の知らせ」のことでしたが、後に「喜びをもたらす知らせ」全般を意味するようになりました。また、新約聖書の「福音」は、神がイエス・キリストによって、イスラエルへのご自身の約束を成就された、すべての人に救いの道が開かれたという良い知らせのことです。このように福音は、すばらしくよい、救いの知らせなのですが、「知らせ」ということばのせいでしょうか、私たちはこの「福音」を誤解しているところがあると思うのです。信仰を持つ、ほんの入り口で福音が語られ、知らされて、私たちはそれに応答して救われた、それで福音の役割りは終わったのだと思ってはいないでしょうか。つまり福音は、私たちがどうやったら救われるのか、どうしたら永遠のいのちを得られるのか示すためにあるもので、実際救われ、永遠のいのちを得てしまったら、もうその役割は終わってしまったかのように思われているのです。
また日本においては、神学上の立場、教派を表すものとして「福音」と言う言葉が用いられます。例えば、リベラル派に対して福音派、聖霊派に対して福音派と言うように、他の神学的立場と区別するために「福音」という言葉を使っているのです。ところがそのような福音理解は、とても貧しく、狭いと言わざるを得ません。福音は、もっと豊かで、広いのです。救われる時の入り口だけではなくて、また他の神学的立場、教派と区別するために使われるだけではなくて、福音は、クリスチャンの全生涯に影響を与え、私たちを変え、成長させるという重要な役割を果たしているのです。まさに福音は私たちの全生活、また私たちを取り巻く世界を見るレンズであり、私たちクリスチャンのアイデンティティそのものであり、私たちの生き方、生活に大きな影響を与え、変革をもたらすものなのです。
さて、Ⅰコリントの手紙はパウロが書いた手紙です。パウロはコリントで1年半伝道し、多くのコリント人が救われて、教会が立ち上がりました。ところがパウロがコリントを去った後、この教会でいくつかの深刻な問題が起きているという知らせを受けたのです。そこでパウロはコリント教会に向けてアドバイスの手紙を送りました。コリント教会では大きく分けて5つの問題が起こっていたようです。一つは分裂の問題。次に性的な罪の問題。そして食べ物(偶像にささげた肉)に関する問題。異言の問題。最後に復活の問題です。パウロはこれらの問題を、福音のある側面に照らし合わせて、あなたがたは信じている福音に従って生きていないではないか! と指摘し、福音に立ち返るようにとアドバイスをしています。つまり教会の諸問題というのは、福音というレンズを通して見るときに、問題の所在が明らかになり、解決の糸口も見えて来るのだと言っているのです。
さて、今日の聖書箇所です。先ほど紹介したコリント教会の5つの問題の最後、「復活」のトピックを残すばかりとなったときに、パウロは「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。」ともう一度福音について念押しします。「福音については今更繰り返す必要はないでしょうが、あえてもう一度みなさんに確認したいのです」とパウロは言います。「あなたがたは福音を受け入れて、それによって救われました。でもそれだけではない。あなたがたは今も、この福音によって立っているのです」と。この「立っている」と動詞は、原文のギリシャ語では完了形で、過去の動作の結果の状態が現在も続いていることを表します。つまり、あなたがたは、福音によって生まれ変わり、新しいいのちが与えられ、再出発しましたが、それ以来、ずっと福音に立ち続けており、これからも福音に立ち続けるのだと言っているのです。
そして2節にはこうあります。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」と。「この福音によって救われます」の「救われます」は原文では現在形です。ギリシャ語の現在形は動作の継続と繰り返しを表します。これは、「福音」に対して、くり返し、継続して、何度も応答することの大切さを言っているのです。私たちは「福音」を聞いて、イエスさまを救い主として信じ、生まれ変わり、新しいいのちをいただきました。はい、これで福音の役目は終り、ということではないのです。そうではなく、いつも福音に立ち返り、福音によって絶えず変えられ、成長していく、そうやって救いを完成させていくのだと言っているのです。わたしたちがこの福音に立ち続けるなら、絶えずこの福音によって成長し続けるのです。信仰は成長し続けなければ死んでしまいます。生まれた赤ちゃんがずっと赤ちゃんのままでいることはないように、また、植えられた苗木にいのちがあるならば、必ず生長し、枝を張り、葉を茂らせ、実をならせるように、福音に立ち続けるならば、必ず成長します。逆に成長しなければ死んでいるのと同じです。パウロは言います。「そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまう」と。
そして、もう一つ。福音は伝え、伝えられるものです。パウロは、コリントでは信徒伝道者プリスキラとアキラといっしょに福音を宣べ伝えました。途中シラスも合流しました。パウロは、幻による神さまの「この町には、私の民がたくさんいる」との励ましも受けて、ユダヤ人の会堂を追い出され、迫害を受けても、そこに1年半とどまり、福音を語り続けたのです。その甲斐あって、多くの人が救われ、救われた人は、また家族や友人に福音を語り伝えたのです。福音はこうして今に至るまで語り伝えられています。神さまは、福音を伝えるのに人を用います。もちろん神さまは人を介さなくても人を救うことができるでしょう。けれども神さまは、あえて人を用いて福音を語らせるのです。最近はメディアやチラシ、YouTubeやSNSなどを使っても広く福音が伝えられています。コロナ禍でそれは加速しました。もちろん人と人とが対面で会うことを制限されている時代、非常に有効な伝道のツールだと言えます。けれどもパウロは言います。「私が宣べ伝えた福音を」(1節)「私がどのようなことばで福音を伝えたか」(2節)と、「私が伝えたの(福音)は、私も受けたことであって」と。パウロは、「私が伝えたのだ」と言っているのです。福音は人から人へと、また人格と実存を通して人に伝えられるものです。正直なところ、面と向かって福音を語るというのは難しいです。恥ずかしい、相手がどう思うか気になる、うまく伝える自信もない、いろんな思いが私たちに二の足を踏ませます。けれども、私たちが勇気を出して自分のことばで福音を語る時に、聖霊が力強く働きます。言葉巧みに話せなくても、質問に答えられなくても大丈夫。必要なことばは聖霊が教えてくださると聖書に書いてあります。また私たちのことばを越えて聖霊がその人の心に働きかけるのです。神さまは、私たちを用いて、福音を伝えたいと思っていらっしゃいます。福音はそうやって、人から人へとバトンが渡されていくように渡されていくものなのです。
そして最後、3節から5節までは「最も大切なこと」として福音の内容が述べられています。まとめると以下の通りです。①キリストの死の事実 ②そしてその死は、私たちの罪の身代わりの死だということ ③葬られたこと ④よみがえられたこと ⑤それは聖書に書いてある通り、旧約聖書に預言されていることだということ ⑥復活のイエスさまは、多くの人々に現れたということ、6~9節を見ると、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。しかも今でも生き証人がいると。パウロはこれが福音だと「改めて」語っています。「耳にタコ」でしょうか。どうして今さら「福音」を出してくるのでしょう。なぜならこの福音が、「絵に描いた餅」になっているからです。自分はこの福音によって救われたんだよなと、ずっと前に通過した「過去のこと」になっていて、今、私たちの生き方、生活に影響を与えることを忘れてしまっているからです。ですからパウロは「私があなたがたに宣べ伝えた福音を改めて知らせます」と言わなければならなかったのです。
私たちは福音派です。聖書はすべて誤りのない神のことばだと信じています。イエスさまの十字架も、身代わりの死も、復活も全てそのまま信じています。そして福音を携えてよく伝道する。それが福音派の特徴です。けれどもこの福音によって、私たちの信仰は日々成長しているでしょうか。キリストに似た者になっているでしょうか。私たちの家庭は、福音によって変えられているでしょうか。福音によって私たちの罪は取り扱われているでしょうか。まだ罪の習慣の中にとどまっているのではないでしょうか。私たちの人間関係はどうでしょう。仕事は?学業は?福音によって日々変えられ、成長させられているでしょうか。
今年の年間テーマは「福音に立つ教会」です。コリントの教会は、パウロによって「福音」光を当てられ、起こっている問題を取り扱い、変革と成長を目指しました。私たちも、私たちの教会も福音に立つ教会でありたいです。それは福音的な信仰を掲げているとか、福音的な教理を持っているとか、福音的な信仰を告白しているというだけではなくて、この福音によって、罪を悔い改め、教会の聖さを保ち、互いに赦し合い、愛し合い、時には勧告し合い、絶えず変えられ、成長する、そんな教会を目指すということです。お祈りします。
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