スキップしてメイン コンテンツに移動

2023年1月1日 新年主日礼拝


先週のイブ礼拝とクリスマス礼拝を終えた月曜日に「ラーゲリより愛をこめて」という映画を観てきました。第二次世界大戦終了後、旧ソ連が日本人将兵約60万人をラーゲリ(強制収容所)に抑留し、劣悪な扱いの中で6万人が死んだという悲惨な歴史的事件に基づいている映画です。シベリアのラーゲリのあまりにも残酷な日々に誰もが絶望する状況下で、ただ一人、生きることへの希望を捨てなかったのが、主人公の山本幡男(やまもとはたお)でした。ラーゲリの劣悪な環境によって栄養失調で死に逝く者や自ら命を絶つ者、さらには日本人抑留者同士の争いも絶えない中、山本は変わらずに、生きることへの希望を訴え続け、仲間たちを励まし続けました。この映画のキーワードは「希望」です。私たちは希望がなければ生きていけませんし、日本は自殺者の多い国です。特に15歳から40歳までの死亡原因のトップは自殺なのです。いろんな原因があると思いますが、やはり「希望がない」そこに集約できるような気がしませんか。

 

この手紙を書いたパウロはコリント教会で起こっている問題への対処にてこずっていたようです。先に書いた手紙(Ⅰコリント書)も功を奏さず、問題はこじれにこじれてしまいました。1年半かけて育てた教会ですから、パウロの思い入れもひとしおです。自分の何が問題だったのか、互いの間に築かれた信頼関係はどこに行ったのか。宣教師としての無力感にさいなまれるばかりでした。実際コリントの教会には、「偽教師」が入り込み、雄弁な彼らは、パウロの使徒性について人々に疑問を持たせようとしたのです。しかしパウロは、この手紙(Ⅱコリント書)の中で自分がコリントで真実をもって福音を語ってきたことを語り、この新しい契約の福音が、どんなに栄光に満ちたものかを生き生きと描いています。そして彼は、その栄光に満ちた福音を自分という「土の器」に入れているのだと告白します。そして自分の弱さ、人としての限界を痛感しつつ、その弱くてもろい私たちの内に、神は福音という宝を入れてくださったのだと言っているのです。

 

そして今日のテキストの16節でパウロは、「ですから、私たちは落胆しません」と言っています。自分は弱く、もろく、見栄えもしない土の器かもしれない。けれどもその器に主が託してくださった福音は、こんなに素晴らしく、また永遠に続くものだから、私は落胆しないのだと告白しているのです。パウロは、「たとえ私たちの外なる人は衰えても」と言います。この「外なる人」と言うのは私たちの肉体のことです。また、知性や気力のような精神的な衰えも入るでしょう。年とともに物忘れが増えたり、物事を見る視野が狭くなったり、頑固になったりするというのがそれです。またこの「衰える」という言葉は、原語では「完全に壊す、朽ちる、滅ぶ」という意味です。そうです、私たちの「外なる人」はやがて完全に壊れて、朽ちてしまう。この土の器はやがて完全に壊れるのです。

しかし、「内なる人は日々新たにされる」とパウロは言います。「日々(day by day)」です。日私たちは外なる人の衰えについては敏感です。昨年までできていたことが、今年はできない。白髪が増えた。いや、白髪でもあればいい。しわが増えた、こんなところにシミが。私たちは、いつも鏡に向かってため息をつきます。しかし、内なる人についてはどうでしょうか。この内なる人について、私たちは関心を持って、観察しているでしょうか。この内なる人をチェックするのが、日毎の聖書を読み祈るデボーション、静まりの時の時間です。一日鏡を見ない人はいないでしょう。「そう言えば今日は一度も鏡を見なかったな~」なんてことはないのです。「内なる人」は更に大事です。一日魂と霊の状態を映し出す鏡、「聖書」を開かないで終わることのないようにしたいものです。そして神さまの愛に「内なる人」を満たしていただく時間を惜しむことのないようにしたいものです。

さて、17節を見てみましょう。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」パウロは、軽い苦難と言っていますが、どこが軽いのでしょう。パウロが伝道者として受けてきた苦難については、みなさんも知っているでしょう。Ⅱコリント11章にはこうあります。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。」(Ⅱコリント11:24~28)しかし、パウロは言うのです。これらの苦難も、やがて与えられる「栄光」を思えば、軽いものだ。天秤にかければ、やがてあたえられる栄光の方が断然重くて、今の困難など跳ね上がってしまうというのです。

「重い永遠の栄光」と言っても、私たちはあまりイメージできません。スポーツで得る栄光といえば少しは理解できるでしょうか。昔はやったゆずの歌で「栄光の架け橋」という歌がありました。アテネオリンピックのテーマソングにもなった曲です。こんな歌詞です。

 

誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった

決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んで来た道だ

あの時想い描いた夢の途中に今も

何度も何度もあきらめかけた夢の途中

 

※いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある

だからもう迷わずに進めばいい

栄光の架橋へと…※

 

悔しくて眠れなかった夜があった

恐くて震えていた夜があった

もう駄目だと全てが嫌になって逃げ出そうとした時も

想い出せばこうしてたくさんの支えの中で歩いて来た

 

悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある

さあ行こう 振り返らず走り出せばいい

希望に満ちた空へ…

 

私たちはアスリートの世界の厳しさを知っています。厳しいトレーニングを積み、たゆまぬ努力をした人だけが栄光を勝ち取ることがでみます。上を目指せば目指すほどメンタルだってきつい。アスリートたちは、揺らいだり、躓いたりしながらひたすら栄光を目指すのです。

「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を私たちにもたらす。」パウロは「重い」と言います。「軽い苦難」の「軽い」に対比させて、「重い」と訳していますが、意味としては、極度の、過度の、卓越したということです。語彙力の乏しい私などは「めちゃくちゃすごい」と言ってくれた方がよくわかる。そのめちゃくちゃすごい栄光って何でしょうか。それが「復活」なのです。復活に勝る栄光はありません。14節では「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」とあります。イエスさまとともに表彰台に上り、メダルを受けとる姿を想像してみてください。この地上では、どんなに苦労しても、貧しくて、みじめで、病気で、暗くて、孤独で、傷ついてボロボロになっても、最後にどんでん返しが起る。いやむしろそれらを肥やしにして、私たちは神に近づき、復活したキリストと同じ栄光の姿に変えられるのです。

私たちはみんな信仰のアスリートです。けれども安心してください。最後に「栄光」を受けるには、特別なトレーニングも技術もいりません。ただゴールを目指してあきらめないで走りつづければ、誰でもこの「栄光」を受けることができるのです。18節にはこうあります。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」。私たちはレースの途中でも、見えるものに目が移りがちです。お金のこと、健康のこと、人間関係のこと、どれも大事です。けれどもそうやって、「見えないもの」「栄光のゴール」から目をそらして、走るのをやめてしまうなら、私たちは栄光を手にすることはできません。「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」。見えるものは、やがては壊れ、朽ち、消え去って行きます。私たちが目を留め続けるべきは、「見えないもの」「重い永遠の栄光」、「復活の希望」なのです。

さて、16節のみことばに戻りましょう。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」それは私たちが年をとって、心身が衰え、元気がなくなっても、気持ちはいつまでも若く、元気でいるように、ということではありません。単に老化を防ぐ、老化に抗うといことでもありません。「日々新しく」というのは、再創造されていく「re-creation」ということです。人は神のかたちに造られました。三位一体の神に似せて作られ、個人としても、夫婦、家族としても、社会としても、非常によいものでした。しかし人は罪を犯し、神を離れ、神のかたちが壊れてしまったのです。けれども、私たちがイエスさまを信じたとき、もう一度新しく生まれ、全く質の違う新しいいのちをいただきました。そして死と滅びに向かっていた自分は死に、今度は、新しいいのちをもって神のかたちの回復に向かいます。神のかたちを取り戻していくのです。個人としても、夫婦としても家族としても、社会としても。それが再創造です。

新しい年、数え年では私たちはまた一つ年をとりました。けれども、重い永遠の栄光を見つめて、日々、祈りとみことばとともに、困難を乗り越えつつ歩む時に、私たちは、日々新しく創造されるのです。成長し続けると言ってもいいでしょう。そして私たちが目指すゴールでは、私たちの愛するイエスさまが、両腕を広げて待っておられ、私たちはイエスさまと共に復活の恵みに与り、イエスさまに手をとってもらって表彰台に上り、栄光の姿に変えられるのです! お祈りしましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

人生の分かれ道(創世記13:1~18)

「人生の分かれ道」 創世記13:1~18 さて、エジプト王ファラオから、多くの家畜や金銀をもらったアブラムは、非常に豊かになって、ネゲブに帰って来ました。実は甥っ子ロトもエジプトへ同行していたことが1節の記述でわかります。なるほど、エジプトで妻サライを妹だと偽って、自分の命を守ろうとしたのは、ロトのこともあったのだなと思いました。エジプトでアブラムが殺されたら、ロトは、実の親ばかりではなく、育ての親であるアブラムまでも失ってしまうことになります。アブラムは何としてもそれは避けなければ…と考えたのかもしれません。 とにかくアブラム夫妻とロトは経済的に非常に裕福になって帰って来ました。そして、ネゲブから更に北に進み、ベテルまで来ました。ここは、以前カナンの地に着いた時に、神さまからこの地を与えると約束をいただいて、礼拝をしたところでした。彼はそこで、もう一度祭壇を築き、「主の御名を呼び求めた」、つまり祈りをささげたのです。そして彼らは、その地に滞在することになりました。 ところが、ここで問題が起こります。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。理由は、彼らの所有するものが多過ぎたということでした。確かに、たくさんの家畜を持っていると、牧草の問題、水の問題などが出てきます。しかも、その地にはすでに、カナン人とペリジ人という先住民がいたので、牧草や水の優先権はそちらにあります。先住民に気を遣いながら、二つの大所帯が分け合って、仲良く暮らすというのは、現実問題難しかったということでしょう。そこで、アブラムはロトに提案するのです。「別れて行ってくれないか」と。 多くの財産を持ったことがないので、私にはわかりませんが、お金持ちにはお金持ちの悩みがあるようです。遺産相続で兄弟や親族の間に諍いが起こるというのは、よくある話ですし、財産管理のために、多くの時間と労力を費やさなければならないようです。また、絶えず、所有物についての不安が付きまとうとも聞いたことがあります。お金持は、傍から見るほど幸せではないのかもしれません。 1900年初頭にドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人が、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、略して『プロ倫』という論文を出しました。そこに書かれていることを簡単にまとめると、プロテス...

慰めを待ち望む(ルカの福音書2章21~35節)

「慰めを待ち望む」 ルカの福音書 2 :21~35 21~24節には、律法の習慣(レビ記12:1~8)に従うイエスさまの姿が描かれています。もちろんイエスさまは生後間もない赤ちゃんですから、律法の習慣に従ったのはマリアとヨセフなのですが、実は、イエスさまは律法を制定される側のお方なだということに思いが至るときに、ご自分の制定された律法に自ら従われる姿に、人として歩み始めたイエスさまの覚悟と本気を見る思いです。 まずは、八日目の割礼です。ユダヤ人は生後8日目の男子の赤ちゃんに割礼を施すことが律法で定められていました。割礼は、天地万物を創られた唯一の神を信じる民、「神の民」としての特別な印でした。神さまと特別の約束を交わした民としてのしるしです。そしてこの日に、み使いが両親に告げられた「イエス」という名前を幼子につけたのです。 次に40日の清めの期間が終わったあとの宮詣です。日本でいうお宮参りといったところでしょうか。40日というのも、レビ記にある規定で、女性が男子のあかちゃんを生んだ場合、7日間は、宗教的に汚れているとされて、その後33日間の清めの期間があり、合わせての40日が、その期間となります。(ちなみに女の子の場合は、2週間の汚れた期間を経て、66日間清めの期間を過ごします)この間、母親は隔離されるわけですが、産後のママにとってはありがたい時期です。今みたいに洗濯機や掃除機、炊飯器などがない時代、家事は女性にとって重労働でした。そこから解放されて、自分の体の回復と、新生児のお世話だけしていればいいこの時期は、産後のママにとって必要不可欠な時期だったのです。そして、その期間が明けて、マリアのからだも十分に回復して、 彼らはエルサレム神殿に向かったのでした。 Google マップで検索すると、ベツレヘムからエルサレムまで、距離にして8.9キロ、車で20分の距離です。もちろん当時は車はありませんので、徒歩だと2時間弱というところです。産後の身にとっては、ロバに乗って行ったとしても、決して近いとは言えない距離です。こうして、マリアとヨセフ、小さな赤ちゃんのイエスさまは、エルサレムの神殿に向かったのです。 さて、宮に着くと、律法の規定に基づいて、ささげものをします。ささげものの内容も決まっています。それは、生まれたのが男子であっても女子であっても同じで...

人の弱さと主のあわれみ(創世記20:1~18)

「人の弱さと主のあわれみ」 創世記20:1~18 今日の聖書の個所を読むと、あれ?これは前にも読んだかも?と思うかもしれません。そうなのです。12章で、アブラハムは、同じことをしています。飢饉のためにエジプトに逃れて、その際に、自分が殺されるのを恐れて、妻サライを妹だと偽ったので、サライはエジプトの王に召し抱えられてしまったのでした。その後、神さまはファラオの宮廷の人々に災いを下し、そのことによって、サライがアブラムの妻だと発覚し、ファラオはサライを、たくさんの贈り物とともにアブラムに返したと記されていました。すべては神さまの憐れみと守りによることでした。 さて、アブラハムたちは、今度は、ゲラルというところに寄留していました。ゲラルは、後のペリシテ人の領土です。12章のエジプトの時には、飢饉で、と理由が書いてありましたが、ここには理由がありません。けれどもアブラハムは、たくさんの家畜を持つ遊牧民ですから、定住することは難しく、天候や季節によって、あちこちに寄留するのは、決して珍しいことではありませんでした。 ところがここに来て、アブラハムはまたも、同じ失敗を繰り返しています。私たちは呆れますが、と同時に、聖書は正直だな~と思うのです。聖書は容赦なく、人間の罪と弱さをあばきます。聖書には、誰一人として完璧な人はいないのです。すべての人が罪人であり、弱さを抱えています。信仰者とて同じことです。ですから、同じ失敗を何度も繰り返すのです。翻って自らを省みてみましょう。同じ罪を繰り返しているのではないですか。誘惑に負けて罪を犯しては、「ああ、神さま、あなたの前に罪を犯しました。ゆるしてください。」と祈り、悔い改めます。そして二度と同じ失敗はしないぞと心に誓います。けれども、ほどなく、やはり同じ罪を繰り返すのです。私たちは、アブラハムの重ねての失敗を笑えないのです。 サラが異母姉妹だということ、それは本当のことでした。この手の言い訳も私たちのよくやることです。真っ赤な嘘とまでは行かなくてもピンク色の嘘?グレーゾーン?と言った感じです。サラの一番の属性は、アブラハムの妻でしょう。それを妹だと紹介するというのは、相手をだます意図があってのことです。胸に手を当てて思いめぐらすと、私たちにも心当たりがあるでしょう。また、アブラハムは、アビメレクへの言い訳として、こん...