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ヘロデの勘違い(マタイの福音書2:13〜18)

説教題: ヘロデ王の勘違い

本文:マタイの福音書2章13節―18節

Matt. 2:13  彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

Matt. 2:14  そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、

Matt. 2:15  ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。

Matt. 2:16  ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。

Matt. 2:17  そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。

Matt. 2:18          「ラマで声が聞こえる。

                            むせび泣きと嘆きが。

                            ラケルが泣いている。その子らのゆえに。

                            慰めを拒んでいる。

                            子らがもういないからだ。」

本日は、キリスト教会のカレンダーでは、「公現の主日」と呼ばれる日曜日です。この主の日は、東方から来た異邦人の博士たちがイエス・キリストを訪ねて礼拝したことを記念する日です。そのため12月のクリスマスに対して、「異邦人のクリスマス」と呼ばれることもあります。ロシア正教会の場合は1月7日の昨日がクリスマスである様です。この朝は、そんなカレンダーを意識しながら、東方の博士たちがイエス・キリストを礼拝した後に何が起こったのかを見ていきたいと思います。

ところで皆さんはクリスマスを迎える前の4週間のアドベントの期間、どのような思いをし、どのように過ごされましたか?アドベントを過ごしながら、4本の蝋燭に順番に火をともして、それぞれ意味ある時間を過ごされたでしょうか。皆さんの過ごし方と比べた時に、この世のクリスマスの扱い方はどうでしょうか。クリスマスからイエス様の色は消し去られ、年末年始商売合戦の良いマーケティング戦略としてしか認識されない様な気がします。クリスマスケーキは何とか理解できますが、アドベントビール、アドベントワインまでもが販売されて、何か祝うところが違うじゃないかと感じたところでした。

ルカの福音書を通してみるイエス様の誕生は、羊飼い達が主のみ使いが知らせてくださった出来事を見ようと出かけて行き、飼い葉おけに寝かせてある乳飲み子を探して、礼拝をささげる場面をまず見せてくれます。全人類を救うために一番高い所から自ら一番低くて卑しい場所で生まれる場面を伺うことができます。しかし、マタイの福音書ではイエス様の誕生は2歳以下の男の幼児が虐殺される衝撃的な場面が登場します。全人類を救われるキリストイエスが誕生した嬉しい事の背後にはききせまる幼児虐殺があったのです。

その事件を起こした背景にはヘロデ王の存在がありました。

ヘロデ王はBC37年からBC4年までユダを治めた王であります。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、ローマ帝国によってユダヤ人の王としてたてられたものでした。ユダヤ人に認められたわけでなく、ローマ帝国によってたてられた者です。ユダヤ人でも、王族でもなかったものが権力を持つまではどの様な過程があったでしょうか。手段と方法を選ばず、権力を手に入れ、維持しようとしたのでしょう。数々の政治的ライバルを取り除きながら、さまざまな悪行を行わずにその権力の座にとどまることはできなかったはずです。ヘロデ王が神殿を建てて、カイザリアに港を造ったのも、ユダヤ人を考えて行ったのではなく、権力の座を守るためのものであり、ユダをよく治めている様に見せかけるためだったかもしれません。彼は常に権力に対する貪欲さと、権力を失うことに対する不安を抱いていました。十人の妻を持っていましたが、自分の息子たちによって自分の座が奪われるかもしれないという妄想によって妻と三人の息子さえも殺してしまった王でした。そのようなヘロデ王のところに東方の博士たちがある日現れます。博士たちの正確な正体は明かされていないのですが、星占い師もしくは星を学問的に研究する学者であるだろうと言われています。彼らは星の導きによってエルサレムに来ましたが、そこで道を導いた星が止まったので、博士たちはヘロデ王の宮殿に行きます。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とヘロデ王に言います。異国から来たものが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と当時のユダを治めていた現役の王様に聞いたのは、とうぜん王族の中で誰かがお生まれになり、将来のユダを統治するようになると思ったから王様のところに行ったのではないでしょうか。けれども、それはヘロデ王にとっては非常事態でした。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」がいるということは、たとえそれが幼児であってもヘロデ王にとって恐怖であり、恐れの対象だったのです。当時のユダヤには星占い師は律法によって石打ちにされる対象であったのですが、ヘロデ王は博士たちに「詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい、私も拝むから」と言い、彼らをベツレヘムに送り出したほどですから、彼らの地位そのものも低いわけではなかったと思います。とにかく、博士達を東方からエルサレムまで導いていた星は博士達を再び導き、幼子イエスのところまできて、彼らは礼拝し、黄金、乳香、没薬を捧げます。そして博士達は幼児イエスを礼拝した後、夢を通してヘロデ王のところへ戻らないようにと警告を受け、別の道から自分の国に帰っていきました。この事実を知ったヘロデ王は激しく怒り、幼児虐殺の勅令を下します。そうやって、ベツレヘムの2歳以下の男の子を全て殺す悪行を行ったのでした。

しかし、神様のご計画はヘロデ王の悪巧みも予言の成就の一部として用いられました。主の使いが夢でヨセフに現れて、幼児イエスとマリアを連れてエジプトへ逃げることを命じます。イエス様がエジプトに逃げたのもイスラエルの民が出エジプトしたように、イエス様も出エジプトさせるための神様の備えであり、「エジプトからわたしの子を呼び出した」というホセア11章1節の予言の成就であったのです。

ヘロデ王は救い主の誕生を告げるメシヤ予言を知っていました。それでもその予言を確かめるために民の祭司長たちや律法学者たちを集めキリストがどこで生まれるのか問いただし、キリストはベツレヘムでお生まれになることがわかったのです。しかし、彼はその予言を正しく知ることはできませんでした。この世の光としてこられ、ユダヤ人だけではなく、全人類を救うイエスキリストを、自分の権力、地位、富を奪う存在であるのだろうと勘違いしたのです。その結果、多くの罪のない幼児たちが犠牲になったのです。ヘロデ王は人間の力、自分の権力があれば、それが予言されたキリストであっても取り除くことができると思っていたのでした。

しかし、そのようなヘロデ王の行為さえもエレミヤによって予言されたものでした。

「ラマで声が聞こえる。 むせび泣きと嘆きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ。」

 旧約の予言の成就は新約に示されていますが、エレミヤ時代の予言がヘロデ王の幼児虐殺という形で現れるところを見ると、人間的にとても複雑な思いをされるかもしれません。全能なる神様なら事前に虐殺を止めてくだされば良いのに。あるいは生まれて間もない何も知らない幼児が犠牲になるべきなのか、と。常識的にとても理解し難い出来事でどう反応すれば良いのか戸惑いまで感じます。神様の御心はどの様なものなのか、疑いまで生じるのが正直な心でしょう。マタイはこのエレミヤの箇所から私たちが人間的に理解できない事柄を通して、聖書的に成就するとは、どういうことなのかを教えています。実は、エレミヤ書には、ここに引用された預言の続きが書かれています。[エレミヤ書 31:16,17]の主な箇所です。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」

ラケルの失われた子らはイスラエルの民が捕虜として連れていかれる事を意味し、再び帰ってくるとラケルを慰めることによって未来への希望が与えられたのがその内容であります。イスラエルの子孫はいつか帰ってくる希望があったので、いつまでも悲しむ必要がなかったのです。同じく、幼児虐殺という悲しい出来ことがありましたが、これが絶望で終わらないことをマタイは語っているのです。今の目に見える現実としては、幼児虐殺という悲しい事件が起こり、街は絶望の中に包まれましたが、神様は未来への希望をともに与えてくださいました。エジプトへ身を避けられたイエス様は、将来出エジプトを通してイスラエルを救う希望になられたのです。

 今日を生きる私たちにも人間的に理解できない様々な事柄の中で生きていますが、ただ一つだけ、それでも私たちには神様の中で希望があることを今日は覚えたいと思います。

 

イエス様の誕生は喜びばっかりではありませんでした。神様を敵対し、メシヤ予言の成就を邪魔しようとする悪しき働きによる大きい悲しみの中でイエス様はこの世に来られました。どんな闇の勢力もイエス様に害を与えることができず、全人類を救うメシヤ予言を成就し、罪人であった私たちを救われたのです。今を生きる私たちの世界も堕落した世の権力者や人々はイエスキリストを歓迎せず、恐れと不安の中で生きています。堕落した権力欲を守るために、この世に愛着し、自分が持っている地位を奪いそうな対象は誰であってもどんな方法を使ってでも取り除こうとする世の中です。悲しいこともありますが、その悲しみを乗り越えるイエスキリストの救いの恵みと喜びが与えられたので、ともにイエスキリストの誕生を、クリスマスを喜び、祝おうではありませんか。

世の中は暗闇です。その暗闇の中で過ごす時間は絶望かもしれません。しかし、私たちは光として来られたイエスキリストが与えられました。暗闇が深いほど星は輝きます。また、夜が深いほど希望の朝が近いことを神様を信じる私たちは知っているのです。

元鍾碩実習生



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