齋藤五十三師
本日は教会総会の日です。教会について思い巡らしたいと、本日の聖書箇所を選びました。エペソ書の教会論を通して、教会の広がり、豊かさを共に分かち合いたいと思います。一言祈ります。
1. 心の目が開かれるように
私が礼拝の司会に立つ時、祈りの中で時折、ルカ福音書12章32節のイエスさまの言葉を引用しながら祈ることがあります。こういう言葉です。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」「小さな群れよ」という印象的な語り掛けが、耳に残っておられる方もあるでしょう。 私たちの教会が、人数的には小さな教会であることを覚えながら、私は時々祈るのです。 新船橋キリスト教会は大きな教会ではありません。でも、イエスさまの目には、私たちの教会の可能性が映っています。「父は喜んで小さな群れに御国、すなわち神の国を与えてくださる」と約束してくださったわけですから。
それはパウロの目にもそうでした。パウロは1章18~19節でこう祈っています。
まずは18節(読む)
私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものなのか、それが見えるようにとパウロはまず祈ります。
そして19節(読む)
「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」、私たちの教会の内にも、神の偉大な力が働いていると、これが見えるように、とパウロは祈るのです。
どうですか。これらはいずれも祈りの中で見えてくる教会の広がりです。 もしまだ見えていないとしたら、私たちが気づいていない、ということなのでしょう。 そのように思うと、新船橋キリスト教会もなかなかに楽しみな教会です。
エペソ書によると、そもそも私たちの教会のルーツはまことに深い。1章4節には、「世界の基が据えられる前から」私たちの教会は選ばれていた、とありました。しかも、神の子どもに選ばれていた。 そして、その後の10節は言うのです。「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」。 神に選ばれた教会は、時が満ちたある時に、一つところに世界中から集められる。 そうやって考えると、私たちがこの教会に集められていることもまた、神の御業によるのだと分かります。皆さん、それぞれに思い出してください。自分はどうやってこの教会に導かれて来たのかと。 皆さんそれぞれの背後に、実は神の御手が確かに動いていたのです。
そして、そのように集められた私たちの教会は、やがて素晴らしい栄光を神さまから頂くようになる。 そして今も確かに、私たちの教会には、神の大きな力が働いている。 私は皆さんと一緒に、この広がりと可能性を見つめたいのです。 どうしたら心の目が開かれるでしょう。 どうしたら「小さな群れ」新船橋キリスト教会の素晴らしい可能性が見えてくるでしょう。
2. キリストが王であること
どうしたら目が開かれるのか。 まずは歴史の中で起こった大事な出来事に目を留めることです。その出来事とは、キリストの復活、そしてキリストが天に昇られたことです。
20~21節(読む)
神はキリストを死者の中からよみがえらせて、天上の神の右に、すべてを治める王として引き上げられました。キリストは死に打ち勝って天に昇り、すべてを治める王になったのです。 本日の箇所22節が、キリストを「すべてのものの上に立つかしら」と表現しているのは、キリストが世界の王になられたことの告白です。
皆さん、この世界の王キリストは、今、どこにおられるのですか。この王は私たちから遠く離れたところにおられるのでしょうか。 そうではない、と聖書は教えます。この王は私たちに与えられ、私たちと共に歩んでおられるのです。
22節後半(神は)「キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」
「すべてのものの上に立つかしら」王なるキリストが教会に与えられている。今朝は、この事実を皆さんと一緒にかみしめたいのです。
私たちは日頃から、イエス・キリストこそはまことの羊飼い、教会のまことの牧者であると告白しています。新船橋キリスト教会の牧師は、齋藤千恵子先生ですが、実は、千恵子先生の後ろには、牧師を指導し励ます、まことの牧者イエス・キリストがいるのです。しかも、このまことの牧者は、世界の王でもあるというのです。そういう意味で、私たちは誇らしく思って良いのです。私たち新船橋キリスト教会のまことの牧者は、この世界の王なのですから。
これは圧倒されるような、私たちの想像力を上回る話ですが、これが聖書の語る真理です。私たちの牧者キリストは、世界の王である。 こうした教会の持つ広がり、大きさを少しでもイメージできるよう、一つの証しを紹介します。今から百年以上前の1908年、明治41年、一人の日本人キリスト者が、北米のカナダ・アメリカの国境にあるナイアガラの滝を訪れました。私もかつて二度訪ねましたが、壮大な、息をのむほどのスケールです。そのナイアガラの滝を見つめる日本人キリスト者に、地元のアメリカ人が声をかける。さも誇らしげに「こんなに大きな滝は日本にはないでしょう」と。 それに対して、その日本人はこう答えた。「ナイアガラの滝は、私の父が創ったのだ」と。しかも、「天の父は、私の父。だからこのナイアガラの滝は、私の父の所有である」。自分は、ナイアガラの所有者の息子であるという、この言葉は地元で話題になりました。新聞でも報道されたそうです。 「この滝は私の父の所有」と、こう言い放った日本人は、木村清松と言って、明治、大正、昭和を生きた気骨ある伝道者でした。木村はこの後、「ナイアガラの持ち主の息子」と題して、全米各地で伝道集会を開催するほどの有名人になったそうです。 木村は、元は新潟の五泉という田舎町の出身。でも、その目は世界を造られた神をいつも見つめていたのです。
でも、木村だけではない。私たちも実はそうなのです。私たちの教会の牧者は、何と世界の王キリストである。このお方は死の力に打ち勝ち、今や世界を支配しておられる。
でも、それに対してはこんな疑問が湧いてくるかもしれません。キリストが王であるという、この世界の現状はどうですか、と。 世界には争いが絶えず、感染症も未だに収束を見ていない。キリストは本当に世界の王なのでしょうか、と。 確かにそうです。 こうした苦しみや困難は、すべて人の罪が引き起こすものですが、一見すると、この世界は、キリストではなく、人間の罪によって支配されているかのようです。
でも、それでも、と、私は心から言いたいのです。それでも、私たちは信じています。世界の王キリストは、すでに世に勝利しておられ、近い将来、必ずそれが明らかになるのだと。
千恵子牧師が新船橋に就任してから、間もなく丸三年です。就任式の日のこと、今もはっきりと覚えています。コロナの初期で、あの日はみぞれ混じりの雪が降っていました。あれから丸三年、皆さんと共に礼拝を捧げるようになって、すぐに印象に残ったことがいくつかあります。 その中の一つが、礼拝の司会者が祈りの中、世界のためにいつも祈ることでした。そして皆さんも、その祈りにアーメンと声を合わせておられる。それゆえ私も、礼拝の司会に立つようになってから、意識して世界のために祈るよう心掛けました。今、私たちの教会は、どなたが司会に立つ時もそうですね。 まず最初に、この世界のため、そして日本のために祈る。そして皆さんがアーメンと、心を合わせてくださる。 私たちは、キリストが世界の王であると信じているのです。そして、このお方がやがてまことの平和を実現してくださると信じているのです。この王は私たちの教会のまことの牧者、そして、私たちは「からだ」として、このお方につながっている。だから私たちは信じて祈りを捧げるのです。
3. キリストのからだ
23節(読む)
今日の箇所は短いけれど、どこをとっても、広くて大きくて、圧倒されるような内容です。しかし、この世界の王、まことの牧者キリストに、私たちは「からだ」として実際に繋がっている。これはリアルな話です。そして繋がっているから、私たちは復活のいのち、永遠のいのちを共有し、神の力によって生かされているのです。
キリストは、「すべてのものをすべてのもので満たす」と言われます。キリストは世界の王として、この世界を、教会をご自身の素晴らしい恵みで満たしているのです。
「すべてのものをすべてのもので満たす」と言われても、ある人には再び空しく響くかもしれません。この世界には戦乱も食糧飢餓も絶えないではないかと。 確かに世界を見渡せば問題だらけ。 それでもキリストは、この世界を満たそうとしている。ご自分のからだである「教会」を通して満たしていくのです。 私たちのような小さな群れにそんなことができるのだろうか、と恐れる必要はありません。 私たちは、すでにこの地域を満たし始めています。毎月百数十名を超える方々への食糧配付は、驚くべきキリストの働きです。私たちのような小さな教会でも、いのちのパンキリストに「からだ」として繋がっているから、毎回食糧が与えられ、この地を少しずつ潤し始めている。 世界を潤すキリストの働きは、新船橋キリスト教会を通してすでに始まっています。まだ完成途上ではあるけれど、「すべてのものをすべてのもので満たす」お方の御業は、すでにここで始まっているのです。
食糧配付の他にもう一つ、昨年の春にも、私たちの教会に満ちているキリストいのちの豊かさを感じたことがありました。死に打ち勝ち、天に昇ったキリストの永遠のいのちで満ちていると実感したのです。 昨年四月二十四日、召天者記念の礼拝を捧げましたね。 天に召された長谷川兄を覚えつつの礼拝。千恵子牧師は、伝道者の書3章から「人の心に永遠を」と題して語りました。天を見上げ、かしらであるキリスト、神の御許に召された、長谷川兄はじめ、天にいるすべての聖徒たちと思いを一つにする幸いな礼拝の時でした。
先週、千恵子牧師は、今度は使徒の働きから、地上の使命にはいつか終わりが来ることを語りました。確かにそう。 私たちにはいつか、地上での使命、働きを終える時が来ます。でも、礼拝が終えるわけではない。地上の礼拝を終えた後、今度は場所を天に移して、天と地を結びながら、共に礼拝を捧げ続けるのです。教会は、よみがえられた王、イエス・キリストの「からだ」です。すべてのものをすべてのもので満たすお方は、私たちの教会を、死に打ち勝った永遠のいのちで満たしている。私たちは、私たちに先駆けて、長谷川兄を永遠の礼拝の場所へ送ったのです。そして、今日もまた世界の王キリストを見上げ、キリストの「からだ」として、共につながり、共に礼拝を捧げています。
どうですか。素晴らしい広がりでしょう。新船橋キリスト教会は、地上では小さな群れかもしれない。でも、教会は復活の主イエス・キリストの「からだ」。 永遠の礼拝の世界へと広がりを持っている。私たちの教会がそれほどに豊かで大きな教会であることを共に覚えたいのです。 私たちの牧者は世界の王、この広がりと豊かさを覚えながら、皆さんと一緒に伝道、そして教会形成にこれからも励んでいきたいと願うのです。 お祈りします。
天の父なる神さま、私たちの教会を、よみがえられた主、世界の王キリストのからだとしてくださって感謝します。 どうかこの終わりの時代、私たちを通して、すべてのものを満たすキリストのいのちの豊かさを証しすることができますように。どうか聖霊の導きの中で新船橋キリスト教会を世界のために、日本のために用い続けてください。王なるキリスト・イエスのお名前によって祈ります。アーメン。
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