0212 新船橋キリスト教会 礼拝説教 「私も私の父の家も」
はじめに
今日、2023年2月12日の礼拝で取り上げるべき事柄があります。
昨日、2月11日は、世間では「建国記念の日」として知られています。
建国をしのび、国を愛する心を養う日として1966年に制定されました。もう少しことばを正確に使うなら、復活しました。
「建国記念の日」とは明治時代に祝祭日であった「紀元節」に由来する祝祭日です。
「紀元節」とは、日本書紀に記された初代天皇とされる神武天皇が即位したことを祝う日でし
た。そして、戦前、「紀元節」は、天皇を中心とする国家、神国日本という国家観の形成の一端
を担いました。
このような日であったので、「紀元節」は、戦後の1948年、GHQの意向によって祝祭日ではな
くなりました。天皇を中心とする国家からの脱却を目指したといえるでしょう。
しかし、その後、「紀元節」を復活させようという動きが起こり、9回の審議提出・廃案を経て
1966年に国民の祝日として復活したのでした。
何度も廃案になりながら、それでも「紀元節」の復活を諦めない、執念さえ感じます。
「紀元節」から「建国記念の日」と名前を変えましたが、天皇を中心にした国家に戻したい、戻
りたい、という意図が見え隠れするようです。
キリスト者たちは1966年「建国記念の日」制定後すぐに、この日を「信教の自由を守る日」とし、
国民の生活の中に天皇制を保ち続けようとする国の在り方への反対を表明したのでした。
今日は、「この信教の自由を守る日」を意識し、私たちの過去との向き合い方を聖書から教えら
れたいと思います。
1.祈りの中で示される罪
今日の聖書箇所であるネヘミヤ記には、ネヘミヤによるエルサレムの城壁の再建について記され
ています。
神さまは、この困難な働きの指導者にペルシアで献酌官として仕えていたネヘミヤを任命します。
ネヘミヤは、エルサレムの惨状を同胞たちから聞いたとき、「座り込んで泣き、数日の間嘆き悲
しみ、断食して、天の神の前に祈った」とあります。
エルサレムの同胞の痛みを自分の痛みとして受け取ったのです。
エルサレムの城壁の再建という困難に立ち向かうネヘミヤの働きは、この祈りから始まりまし
た。
5節から11節がネヘミヤの祈りのことばです。
:5 「あぁ、天の神、主よ、大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。
:6 どうかあなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、
あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯
したイスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
:7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も掟も定めも守りませんでした。
:8 どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。
:9 あなたがたが、わたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れてくる。
:10これらの者たちこそ、あなたがその偉大な力と力強い御手をもって贖い出された、あなたのしもべ、あなたの民です。
:11あぁ、主よ、どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか、今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前であわれみ
を受けさせてくださいますように」
この祈りのことばの中で、特に注目したいのは6節です。
:6 どうかあなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、
あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯したイスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
ネヘミヤは、祈りを通してまず第一に罪の自覚へと導かれています。
「私たちがあなたに対して犯したイスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父
の家も罪を犯しました。」
このとき、神のさばきであるバビロン捕囚。エルサレムがバビロンに滅ぼされ、多くの民が捕囚
となる神のさばきを経験してから約140年が経っていました。ネヘミヤは140年前、もっと言え
ばモーセに律法が与えられたときからのイスラエルの民の罪を自分の罪と同じように告白してい
ます。
ここには、神の民の一体性が表されています。
では、イスラエルの民やネヘミヤが陥った罪とは、何なのでしょうか。
それは7節に記されています。
:7 私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令
も掟も定めも守りませんでした。
イスラエルの民の罪とは、神のことばに聞き従わなかったことなのです。
神さまは「祈り」の内にこの罪を示されました。
ネヘミヤは神さまとの対話の中で、罪について教えられていったのではないでしょうか。
自分の罪にさえ気づけない、認められない、認めたくない私たちにとって、誰か他の人、それも
会ったこともない過去の人の罪まで自分のものとすることは困難です。
ネヘミヤは、祈りの中で葛藤し、「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。」という告白
へと導かれたのではないかと思うのです。
『バビロンに滅ぼされ、捕囚となったのは、私たちが神の教えに背き、悪を重ねてきたからだ。
このことは、神がイスラエルを守らなかったからでも、バビロンが悪いのでもなく、自分達が蒔
いた種を刈り取っているにすぎない。』
そして、かつてイスラエルの人々がそうであったように、今、自分のうちにもこの罪の性質があ
る。
自分を棚上げすることなく、罪という本質的な人間の在り方を認めることが求められていたので
はないでしょうか。
この罪認識に立つならば、神さまに対して徹底的にへりくだる他なくなります。
8節「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。」
ネヘミヤは、自分達の正しさや苦境を根拠にするのではなく、過去に神さまが約束されたことば
を根拠に憐れみを請います。
このように、ネヘミヤの祈りは、罪を自覚することから始まるのです。
そして、この姿勢はネヘミヤだけに見られるものではありません。
捕囚からの帰還を目前にしたダニエルもダニエル書9章で、同じようにイスラエルの過去の罪を自
覚する祈りをしています。
このように、聖書は、過去を無批判に讃えることをしません。
聖書には、「悔い改め」の歴史観
があります。
2.私たちの過去の罪
ここから、私たち日本の教会の過去を振り返ってみたいと思います。
「信教の自由を守る日」と関係して考えたいことは、太平洋戦争の時の教会の在り方です。
日本同盟基督教団の教憲全文にはこのようにあります。
「また、過去の戦争協力と偶像礼拝の罪を悔い改め、世の終わりまでキリストへの信仰を堅持す
る。」
ここにあるように、今から78年前に日本の教会が陥った罪とは、戦争協力と偶像崇拝です。
A.戦争協力
1930年後半から開戦に至るまで、国は戦争に向けて様々な準備をしていきました。
その中には宗教の統制が含まれています。
1939年、宗教団体法によって33のプロテスタント教派
が合同し、日本初の合同教会である日本基督教団が成立しました。そして、日本同盟基督教団
は、日本基督教団の第8部に属することになります。
日本基督教団は、大東亜戦争に勝利するために神の召しを受けて成立した。
と語る文章が残され
ており、大東亜戦争(太平洋戦争)を聖戦と呼び、国のために死ぬことを殉教と呼び、献金を集
め、海軍に2機、陸軍に2機の戦闘機を奉納しました。
終戦に至るまで、日本の勝利を信じ、日本が最後まで戦い抜くために祈った教会の姿がありまし
た。
B.偶像崇拝
もう一つの大きな問題、それは、神社参拝の問題でした。
日本基督教団の教団規則にはこのようにあります。「皇国の道に従いて信仰に徹し各その分を尽
くして皇運を扶翼し奉るべし」
「聖書に従って」ではなく「皇国の道に従って」、ここに致命的な過ちがありました。
当時の日本基督教団の統理(代表)である冨田満は「皇国の道に従って」伊勢神宮を訪れ、主を
畏れつつ新しい教団の発展を「希願」しました。
また、礼拝の中で天皇のいる皇居に向かって敬礼する宮城遥拝や、君が代斉唱、国旗掲揚が行わ
れるようになっていきました。
当時のキリスト者たちはこの状況に抵抗しなかったのか、と疑問に思う方もおられるでしょう。
ここには、あるカラクリが隠されていたのです。
それは、「神社非宗教論」という政府の主張です。神社は宗教ではなく、国民儀礼である。だか
ら、キリスト教の信仰と、神社に参拝することは矛盾しない。
この主張を積極的に受け入れた人ばかりではないでしょう。極限の状況で、教会を守るため、信
仰を守るために受け入れざるを得なかった人もいたと思います。
しかし、聖書のことばではなく、国家の主張に決断を委ねてしまったことは大きな問題でした。
そして、「神社を参拝しつつ、真の神を礼拝する」この姿勢こそ、偶像礼拝の本質的な問題なのです。
Ⅱ列王記17章41節にはこのようにあります。
「このようにして、これらの民は主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子た
ちも、孫たちもその先祖たちがした通りに行った。今日もそうである。」
イスラエルの民たちは、自分が偶像礼拝をしているとは思っていなかった。むしろ、主を礼拝して
いるとさえ思っていたのです。
しかし、主と同時に他のものに仕えることを神さまは良しとされるでしょうか。
「わたし以外に、他の神があってはならない」と語られた神さまの前で、神さまと神さま以外の
ものを並べて、同時に仕えることは出来ないのではないでしょうか。
偶像礼拝の大きな問題は、自分が偶像に仕えていると気がつかないことです。気がつかないので、
真実な悔い改めも生まれません。
終戦後、日本基督教団は「教団と終戦」の中で、深刻な懺悔を語ります。しかし、それは偶像に
仕えてしまったことに対してではなく、天皇にお仕えする力が足りずに戦争に敗れてしまったこと
に対する懺悔でした。
もちろん、神社参拝が十戒の第一戒違反だとして、この問題と戦った牧師たちが日本にも、当時
日本の支配下にあった韓国にもいました。
しかし、それは日本の教会の全体から見るとごくわずかな抵抗でした。
ここまで戦中の日本の教会の歩みを振り返ってきました。
今、皆さんはどのような思いを持っておられるでしょうか。
ここで、私が経験したことをお分かちしたいと思います。
TCUの日本キリスト教史の授業で戦後の日本のキリスト教の歴史を学びました。
そのクラスは受
講生の約半分が韓国の学生でした。
この環境で日本の戦後の歴史を学ぶ中で思わされたことは、日本は隣国に対して酷いことをした
加害者であるということです。
慰安婦や徴用公の問題、歴史認識の問題など、韓国の学生たちの言葉を聞くと、私は勝手に被告席に座ってさばきを受けているように感じ、胸が痛みました。一言断っておくと、決して私たち
日本の学生を責めている訳ではありません。
そして、胸が痛むと同時にある思いが湧いてきたのです。
それは、言い訳したい、反論したいという思いです。
そこまで言われる筋合いはないのではないか、こちらにも言い分はある。
自分自身で加害者と思う分には問題ないけれど、他人からそれを指摘されるのは気に入らない。
過去の罪を自分のものとすることの難しさを体験した瞬間でした。
過去の教会の姿を見るとき、ショックを受けます。
しかし、私たちがこのことを嘆き悲しみ、祈りに向かうならば、その祈りに神さまは応えてくださる。
「私も私の父の家も」と祈ったネヘミヤ。「私も過去の日本の教会も」と心から祈ることができ
たなら、未だ完全な和解に至っている訳ではない韓国、中国、東南アジアの国々との関係の回復
への一歩が踏み出されていくのだと信じます。
3.祈りから始まる主のわざ
さて、再びネヘミヤの祈りに注目したいと思います。
私たちはしばしば「祈ることしかできない」という思いになります。
目の前の課題が大き過ぎて、自分の力では到底手に負えないように思えて、何もできない無力感からこの思いになるのではないかと思うのです。
しかし、ネヘミヤは、聖書の信仰者たちは、何よりもまず「祈」ったのです。
それは、「祈る」ことから主のわざが始まっていくからです。
「祈ることしかできない」のではなく「祈ることができる」のです。
実際に行動する働き人の働きは大切です。しかし、その背後で祈る人の祈りは、実際に行動する
人の働きに負けず劣らず大切なのです。
11節にこのようにあります。
:11あぁ、主よ、どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか、今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前であわれみ
を受けさせてくださいますように」
ここに、ネヘミヤの他にも、主に祈る人たちがいたことが記されています。
この後、実際に城壁再建のために行動を起こすのはネヘミヤです。
この人たちがこの後どのような働きをしたのかわかりません。
しかし、ネヘミヤと共に祈った人たちの祈りは神さまに届き、城壁再建の道が開かれたのです。
私たちは、祈りの力を過小評価してはいないでしょうか。
「祈り」には力があります。今日も私たちの祈りを通して、誰かが立ち上がり、神の働きがなされ
ていくのです。
まとめ
「私も私の父の家も罪を犯しました。」と祈ったネヘミヤの祈りのことばを深く心に刻み、自分
自身の罪からも、過去の罪からも目をそらさないでいたいと思います。
なぜなら、私たちが平和を祈り求め、祝福された未来を祈り求める前に、罪を認めることが必要
だからです。
罪を認め、へりくだる祈りの中で、神さまは働かれていくのです。
祈りの内に示される罪から目を背け、自分の願いばかりということはないでしょうか。私たちの
祈りの姿勢はどうなっているか、よく吟味したいと思います。
界は混迷を極めています。
日本でも、憲法改正の議論がなされ、軍事費増額が決定され、天皇を中心とした戦争のできる国に戻ろうとする動きが加速しているように思われます。
過去の罪を認め、悔い改めるならば、もう一度過去の状態に戻ろうとは思わないはずです。
平和を作るために召された者として、祈りましょう。
祈りを通して、みこころを実現される神さまを体験していきましょう。
祈ります。
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