ともに一つのパンを食べ』
Ⅰコリント10:14-17
春がやって来ました。昨日はあの震災から12年目の3月11日でした。今なお世界は戦争、
疫病、災害の中にあります。そして今、私たちは主の受難を覚える季節を過ごしています。その
ようなこの朝、ともに礼拝をおささげできる恵みに感謝します。愛する新船橋キリスト教会の皆
さまの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.偶像礼拝を避けよ
14節。「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」。パウロはコリントの教会
にこう勧めます。ローマ帝国有数の大都市コリント。その街にある教会は都会の大きな有力教
会でしたが、様々な問題を抱える教会でもありました。とりわけ大きな問題となっていたのが分
裂・分派、聖霊の賜物を巡る混乱、性的な不品行、そして偶像礼拝を巡る問題でした。コリント
にはギリシャの様々な異教の神々の神殿があり、そこでは連日、異教の宗教行事が行われて
いました。キリスト者となってもこの町で生きる以上、それらのものとまったくかかわりなく生きる
ことは難しい。異教の宗教行事とどのように向き合うかは大きなテーマでした。
そこでパウロが勧めるのは「避けなさい」ということです。「避ける」というのはむしろ「逃れ
る」ということです。これは性的不品行についても勧められていたことでした。偶像礼拝と性的
な罪については、とにかく避けろ、逃げろ、その場を離れろというのです。そこでは「私は大丈
夫」ということはないのです。むしろその手の罪に触れているとやがてそれを隠す事が起こって
きます。「隠蔽」です。次にあれこれと自分の行為に理由付けをし、やむをえなかったと言い訳
をし、「妥協」するようになる。そしてやがてはあれとこれとは別のことという「使い分け」が起こ
ってくる。偶像礼拝問題はまさにそのようなものでした。
コリント教会のみならず、初代教会のキリスト者が直面した一つの問題が、異教の神殿にさ
さげられた供物を食べることは許されるかというものでした。この後の23節から10章終わりま
でその議論が続きます。そこでパウロが教えた基本的姿勢は偶像にささげた肉を食べること
自体は「どちらでもよいこと」というものでした。そしてその判断基準として持ち出したのが「信
仰の良心」ということ、そして「ほかの人の益」ということでした。それぞれに与えられている信
仰の良心に咎めを感じないなら食べたら良いし、咎めを感じるなら食べない方がよいとします。
その上で、自分は気にしないが、それが他の人の躓きになるなら控える。隣人の益を優先する
というのです。これは教会の中に信仰の成熟度の違いがあることを前提に語られた勧めです。
こうした初代教会のキリスト者たちの苦闘は、日本で生きる私たちにもよく分かることでしょう。
2.信仰による判断力
では具体的にどのようにすればよいのか。15節。「私は賢い人たちに話すように話します。
私の言うことを判断してください」。パウロはここで「判断する」ことを勧めます。パウロの基準
を押しつけるのでなく、自分たちでよく考えて、判断するようにというのです。これはとても大切
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なことです。誰かの言いなりの信仰、誰かにおまかせの信仰でなく、一人一人の信仰者が自
覚的に、主体的に、良心に基づいて判断することです。ダビデに次いでイスラエルの王となっ
たソロモンが主なる神に「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心を与えてく
ださい」、「今、知恵と知識を私に授けてください」と願ったように、私たち一人一人に主からの
知恵が与えられ、洞察力、判断力が備えられるよう祈り求めたいと思います。
とはいえ、それぞれが自分勝手に、独りよがりに考え、てんでばらばらに判断すればいいかと
言えば、そうではありません。私たちは皆、一人一人違った存在で、それは教会にとって素晴ら
しいことですが、しかしそこに信仰の一致が必要です。違いのある者たちが主にあって一つと
されていく。それは互いが仲良くなって一つになるということよりも、一人一人が信仰の成熟を
通して主の御心に一致するようになり、それによってお互いが主にあって一つにされていくので
す。そのためには日々、聖書を読むこと、互いに分かち合うこと、説教をよく聞くこと、教理を学
ぶこと、一緒に祈ることなどが大切です。また相手の考えに耳を傾け、自分の思いを言葉を尽
くして伝えることも大切です。礼拝、祈祷会、学びの機会を大切にしていただきたいと思います
し、互いに通じ合う信仰の言葉、教会の言葉、その文法を身につけていきたいと思うのです。
3.キリストとの交わり、キリストにある交わり
このような信仰を私たちはどこで養うのでしょうか。結論的に言えば、それがこの主の日の
礼拝です。私たちがこうして主の日ごとに教会に集まり、礼拝をささげ、聖書を開き、説教を聴
き、教えられ、それを分かち合う。またその恵みを持ち帰り、それぞれの場で日ごとにみことばに
養われる。こうした地味で地道な営みを通して、教会の信仰に育まれていく。これがまず大切
なことです。次に共に主の食卓にあずかる。聖餐式が大切です。そこで私たちの主イエス・キリ
ストとの交わり、また主イエス・キリストにある互いの交わりが作り上げられていくのです。
16節、17節。「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではあ
りませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一
つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのです
から」。この後の11章に入るとさらに詳しく聖餐について語られますが、ここではその核心部分
が扱われます。ポイントは二つです。一つは聖餐の杯は「キリストの血にあずかること」、パンは
「キリストのからだにあずかること」だと言われる。つまり聖餐において私たちはキリストご自身
にあずかっているのだということです。したがって聖餐とは私たちの主イエス・キリストとの交わ
りだということができるでしょう。そしてもう一つのポイントは「パンは一つですから、私たちは大
勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから」と言われるように、
こうして一つの食卓にあずかることにより、私たちは互いにも結び合わされているということで
す。したがって聖餐とは、キリストに結ばれた私たちお互いの交わり、キリストにある交わりだと
いうことができるでしょう。
この「キリストとの交わり」、「キリストにある交わり」という縦軸と横軸が教会を形作っている。
このことを今朝、互いによく確認したいと思います。教会は「聖餐の共同体」と呼ばれます。キリ
ストの血にあずかり、キリストのからだにあずかる交わりのです。
4.聖餐の交わりに生きる
オットー・ブルーダーという人の書いた『嵐の中の教会』という書物があります。ヒトラーのナ
チ政権が支配した1930年代のドイツにあって、神の言葉に生きた小さな村の教会の姿を描
いた感動的な小説で、私自身幾度となく読み返してきた本です。この 1 月から 3 月にかけてT
CUのオンライン講座でも50名ほどの方々とご一緒に読み終えたところです。ヒトラー政権の
弾圧が強まり、教会も妥協して民族主義に取り込まれていく中に、リンデンコップ村の教会が
あらためて主の教会として立つことを象徴的にあらわす場面があります。それが宗教改革記
念礼拝における聖餐式の場面です。そこで主人公のグルント牧師がこんな言葉を語ります。
「私たちが聖晩餐に共にあずかることが、それによって私たちが同じ国民一人一人の人間
から成る一つの共同体だということを表明するためだけであったとしたならば、私たちは聖餐
式本来の意味を無視していたことになるのです。聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同
体よりもはるかに深いものがあります。それはまったく、-この際はっきり申し上げますが-国民
の間の境などははるかに超えて把握されうるものです」。こうしてグルント牧師は、キリストに連
なる聖餐の交わりが国家や民族、国籍や血のつながりさえも超えるキリストのからだの公同性
を表していると言い、「私たちは、一人のお方の死を通して、このパンと葡萄酒において、お互
い同士結び合わされて一つになるのです」とも語るのでした。
コロナになって多くの教会で食事やお茶を共にする機会が減りました。皆さんもそうでしょう。
私たちも以前奉仕していた教会では毎週の礼拝後には 40 人、50 人近い人々で一緒に食事
をしていました。少しずつポスト・コロナの対応になり、今日も礼拝後にはお弁当をいただきな
がらの交わりの機会を設けてくださっています。それでもまだ以前のように、とは行かずさまざ
まな配慮も必要でしょう。それにしても、様々な教会で「交わりが減ってしまった」という声を聞
きました。確かにそうだと思います。しかし一方でよく注意しておきたいとも思う。教会の交わり
を作っているものが何か。互いが気心が知れているということか、一緒に食べ、飲み、言葉を交
わし、仲良く親しくしているということか。それらも大切ですが、しかし教会の交わりの中心にあ
るのはキリストにある交わりだということです。一ヨハネ 1 章 3 節に「私たちの交わりとは、御父
また御子イエス・キリストとの交わりです」とある通りです。
私たちは今、主イエス・キリストの十字架への道行きに連なる受難の季節を過ごしています。
私たちの様々な罪、弱さ、不品行、偶像礼拝、分裂分派、そのような教会の罪を深く思い、しか
しその罪を贖われた主イエスのみからだにあずかるこの礼拝、聖餐の意味を心に刻み、ここで
信仰の判断、信仰の良心を身につけ、成熟した歩みへと整えられてまいりましょう。皆さんに主
の豊かな祝福がありますように。
(朝岡勝師)
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