約19年前の今頃、2004年3月の30日、妻の呉先生と小さい子ども一人を連れて成田空港を通して宣教師として来日しました。その時はもうすでに牧師として按手を受けていましたけれども、日本語学習のため、印西市にある東京基督教学園の共立研究所に入り、家族寮での生活を始めました。
日本に遣わされる時、与えられた神の約束のことばがありました。イザヤ60:22「最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる。わたしは主。時が来れば、速やかにそれをする。」本当に心強かったです。神から与えられる約束のことばであり、神、ご自身がそれを成し遂げてくださることを信じていたからです。
それ以来、2004年の10月に市川に導かれ、2007年には同盟教団に加入させていただき、同盟の一員になり、今に至っています。そして、最近、早天祈祷会の時、聖書に出て来る小さい子どもの姿を見つけて、泣き出しました。自分の姿をそこで見つけたからです。今日の本文を通して神の国の大多数を占める「最も小さい者、最も弱い者」が誰なのかが分かって来たらと願います。
サウル王の王座を継承するはずの王子、ヨナタンは、サウル王の代わりにイスラエルの新しい王様として油注がれたダビデとライバル関係になりがちです。しかし、ヨナタンはむしろ、ダビデの友になり、ダビデを助ける立場になっていました。ヨナタンはダビデを新しい王様として油注がれたのが神であることを知っていましたし、それに従っていたわけです。
35朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。
36そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。
37子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どもの後ろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」
38ヨナタンは子どもの後ろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。
39子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。
→ヨナタンはお父さん、サウル王がダビデに害を加えようとしているか、そうでもないかを調べてからダビデに伝えることにしていました。ヨナタンがダビデにその結果報告の具体的な方法としてお伝えした内容です。18-23節。
サウル王の代わりにイスラエルの新しい王様として油注がれたダビデと現役の王子ヨナタンの間の友情は信仰に基づくものでした。ヨナタンは神、ご自身がサウル王の息子として自分がお父さんの王座を受け継ぐのではなく、ダビデは自分の代わりに王座に就くことを信仰をもって受けとめたのです。そして、その実現のため具体的にダビデを助けていました。
40-42節。
40ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。
41子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。
42ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。
→神のご計画がヨナタンとダビデの間で結ばれる契約を通して進められる素晴らしい場面です。この場面には小さい子どもの姿はもうありません。ヨナタンの弓矢を持って町に向かって走り、その姿は消えています。
映画には主役の俳優さんがいます。でも、目立つ主役は数少ないです。とてもいい映画の中にはそんなに目立たなくても印象深い演技で輝くわき役が多くあります。歴史は「神の物語」とも言われます。’His Story’ その中での主人公はイエス・キリストです。御霊なる聖霊がその物語を引っ張っていかれます。すべての栄光は父なる神に帰されます。その中で人は皆わき役を担うわけです。
聖書にはこのようなわき役を担う人々の話しがいっぱい出ています。ヨハネの福音書11章に出て来るラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていました。ラザロのお墓の前でイエス様は大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来ました。ラザロの顔も布で包まれていました。イエス様は周りの人々に言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい。」このみ言葉を持って、神は私を市川へ導いてくださいました。この記事の中で主人公は誰でしょうか?ラザロでしょうか。ラザロの手足、顔に巻かれていた布をほどいた人々でしょうか。イエス様が主人公です。
ヨハネの福音書2章:ガリラヤのカナであった婚礼の宴会の場で、ぶどう酒がなくなってしまったとき、イエス様は給仕の者たちに言われました。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」そして、言われました。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」世話役の者たちは水がめを水でいっぱいにしました。給仕の者たちはその後、その水がめから汲み上げたものを宴会の世話役のところに持って行きました。イエス様が命じられる通りにしました。
確かに聖書には主だった役割を担う人たちもいます。しかし、目立たない人たちであっても、確かに主なる神に認められる人々の数ははるかに多くあります。カルメルの山で異邦の神々の預言者に立ち向かいすばらしい働きを担っていた預言者エリヤは、その後急変して、大変な恐れに陥り次のように神の前で語りました。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」(列王記第一19:14)その時神はエリヤに答えられました。「しかし、わたいはイスラエルの中で七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」(列王記第一19:18)
目立つ主人公にならなくて良い、大きな働きができなくても良い、神のことばを聞き、聖霊の導きに従い、神のご計画がなされるように小さい者、弱い者のように仕え、給仕をすれば良いのです。すべての栄光が主なる神に帰されますように願いつつ、与えられているお働きに努めていけば十分なのです。自分が何をしているか分からないときもあるでしょう。いったいどうなるんだ、と思わされるところに導かれるときもあるでしょう。常識に会わない事を言われるときもあるでしょう。全然目立たない役を担うことも多いです。でも、大丈夫です。神は小さい者、弱い者たちを通して大きな御業を力強く成し遂げられるからです。「最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる。わたしは主。時が来れば、速やかにそれをする。」イザヤ60:22.
もし、神のことばに従っていくうちに貧しくなり、自分の姿がみすぼらしくなりましたか。お病気になりましたか。大変困り、疲れ果てていますか。もし、信仰のゆえに牢に入れられることがあれば、それは不祥事でしょうか。ご自分ではなく、もし周りにこのような方がいらっしゃいましたら、そのような兄姉とどのように接したら良いでしょうか。彼らは哀れな者ではありません。このような方々は私たちの内の最も小さい者です。イエス様は、最も小さい者たちの一人にしたことはご自分にしたことにみなされ、最も小さい者たちの一人にしなかったことはご自分にしなかったことにみなされると言われました。すなわち、イエス様は最も小さい者をご自分と同一視されたのです。
神の国は少なくても1対7千の割合で、この世の観点から見れば小さい者、弱い者と見られる人々が大多数を占めているでしょう。小さい者、最も小さい者になることを恐れず、躊躇わず、参りましょう。私たちの間の最も小さい者に対してはイエス様に接するようにしましょう。
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